第58話 ゲルハルト伯、ムンドとミュラーを迎え入れる
『ヴァルゼン公家歴11年 7月下旬 ドラッヘンブルク 朝 晴れ』
【カレドン侯後見人ゲルハルト伯視点】
真夏の太陽が、ドラッヘンブルクの堅牢な石壁を容赦なく焼き付けていた。
領内はようやく落ち着きを取り戻しつつあったが、私の心は晴れなかった。主君ライナルト様は酒に溺れ、実質的な政務は全てこの私が執り行っている。幼きコンラート様に忠誠を誓ったとはいえ、カレドン家そのものの衰退は覆いようもなかった。
そんな折、西から逃れてきた者たちがいた。
元ミュラー伯爵と、彼を護衛する『ムンド傭兵団』である。彼らは城門の前で野営を張り、執拗にお目通りを願っていた。
(……ミュラー伯爵か。領地を追われ、落ちぶれた貴族。会う価値があるのか?)
私は迷った末、彼らを城内に入れず、城外で待機させていた。
だが、七月も下旬に差し掛かったある日の朝、私は城壁の上から、彼らの野営地を見下ろして息を呑んだ。
「……ほう」
そこには、敗走した傭兵団とは思えぬ光景があった。
規律正しく張られたテント。朝早くから行われる厳しい訓練。その一糸乱れぬ動きは、我がカレドン軍の精鋭にも引けを取らない。特に、あの異国の武器『シャムシール』を振るう兵たちの眼光は鋭かった。
「……この戦力、このまま手放すのは惜しいな」
グレン、いや、今やオルデンブルク伯爵となったあの男に対抗するには、力が必要だ。
私は意を決し、城門を開けさせた。
謁見の間に通されたミュラー元伯爵は、以前の噂――臆病で日和見な男――とは違い、どこか憑き物が落ちたような、妙にすっきりとした顔をしていた。その横には、野獣のような男、団長ムンドが控えている。
「ゲルハルト伯。突然の来訪、お目通り感謝申す」
「いえ。……して、何の用ですかな」
挨拶もそこそこに、私は彼らを「ある場所」へと案内した。
カレドン侯、ライナルト様の私室である。
本来ならば、他国の元領主に今の主君の無様な姿など見せたくはない。だが、彼らを迎え入れるには、当主の裁可――形式上だけでも――が必要だった。
扉を開けた瞬間、むっとするような酒臭い匂いが鼻を突いた。
昼間だというのに、部屋は薄暗い。
「……うぅ、誰だ……酒か? 酒を持ってきたのか……?」
ライナルト様は、ベッドの下で、空の酒瓶を抱いて震えていた。
痩せこけ、目は虚ろで、かつての凛々しい若武者の面影はない。
「……ひどいな」
ムンドが、遠慮のない声を上げた。
私は恥入る思いで口を開こうとしたが、それより早く、ミュラー元伯爵が動いた。
彼は、ライナルト様の前に歩み寄ると、哀れむような、それでいて、どこか遠くを見るような不思議な目をして呟いた。
「……こやつは、昔の私のようだな」
「ミュラー殿?」
「酒と薬に逃げ、現実を見ようとせず、ただ破滅を待つだけの男。……ムンド、やれ」
ミュラーの短く鋭い命令。
ムンドは、やれやれと肩をすくめた。
「おいおい、契約内容には入ってねえぞ。俺は病人の世話係ではないんだがな」
そう言いつつも、ムンドは巨体を揺らしてライナルト様の胸ぐらを掴み上げると、その薄汚れた頬に、強烈な平手打ちを叩き込んだ。
――パシィィンッ!!
乾いた音が、広い部屋に響き渡った。
「ひいっ! な、なにをする!?」
ライナルト様が悲鳴を上げ、手から滑り落ちた酒瓶が床に叩きつけられる。
ガシャンッ!
ガラスの割れる音と、赤い液体の広がりが、部屋の淀んだ空気を切り裂いた。
「き、貴様ら! 主君になんということを!」
私が慌てて制止しようとすると、ミュラーが強い視線で私を射抜いた。
「ゲルハルト殿! このままでは、この男は死ぬぞ! 私がそうであったようにな!」
「……っ!」
「殴ってでも目を覚まさせる。それが、真に主君を思う者のすることではないのか!?」
ミュラーの言葉は、私の胸に痛いほど突き刺さった。
私は、コンラート様に忠誠を誓うあまり、ライナルト様を見捨てていた。諦めていた。
だが、この男は――かつて同じ地獄を見たであろう、この男は、諦めていなかった。
「……ゲルハルト殿。このまま、この部屋の酒をすべて運び出してくだされ。今日から、私がこの男の監督をする」
ミュラーの目には、かつて一国を治めた領主としての威厳が宿っていた。
私は、その気迫に押され、深く頷いた。
「……しょ、承知した! 衛兵! 酒をすべて片づけろ! 一滴も残すな!」
呆然として頬を押さえるライナルト様を、ムンドが見下ろしている。
「……チッ。手間のかかることだ。だがまあ、水ならいくらでも飲ませてやるよ。俺の故郷の流儀でな」
(これは……意外な展開になったぞ)
私は、身内であるライナルト様に、このような転機が訪れるのをずっと待っていたのかもしれない。
それを、まさか流れ着いた敗軍の将と傭兵がもたらすとは。
私は、ただ待っているだけで、汚れ役を避けて行動しなかった自分を恥じた。
「ムンド殿、ミュラー殿。……歓迎する。ドラッヘンブルクは、貴殿らを喜んで迎え入れよう」
窓のカーテンが開け放たれ、真夏の日差しが部屋に差し込む。
酒の臭気はまだ残っているが、ドラッヘンブルクの城内が、いつもより少しだけ明るく感じられた。
こうして、カレドン家は、西からの「劇薬」を飲み込むことで、静かに、だが確実に変わり始めていた。
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