第44話 グレン、ヴァルゼン公と一戦交える
『ヴァルゼン公家歴11年 4月上旬 公都アイゼンブルク 昼 晴れ』
【グレン視点】
アーデル伯の息子、ミカ青年の悲痛な叫びを聞き、俺は公都アイゼンブルクへ馬を急がせた。
だが、今回は馬から降りても、すぐに公の執務室へは向かわなかった。
(公は一度キレたら、誰が何を言っても聞かないだろう。正面からじゃダメだ。俺まで「お考え直しを!」なんて直言したら、牢屋に入れられるのがオチだ)
俺は、あの『雷鳴』のような公を唯一いなすことのできる人物を思い出していた。
こういう時は、正面から行っても無駄だ。
俺は、牛歩の旅で手に入れた切り札――新鮮な牛乳の入った水差しを手に、公妃カタリーナ様の居室を訪ねた。
「まあ、グレン伯爵。これは……牛乳ですの?」
突然の訪問にもかかわらず、カタリーナ様は俺を快く招き入れてくれた。
「はっ。レグナリア王領の豊かな村で分けていただきまして。よろしければ、公妃にも味わっていただきたく」
「ふふ、嬉しい。あの方が猫をもらってきたのは聞きましたが、あなたは牛を丸ごと連れてきたそうね。……誰か、これを温めてちょうだい」
すぐに、今日の当番らしきメイドが、ほかほかのホットミルクを用意してくれた。
二人で温かいミルクを飲みながら、俺は本題を切り出した。
「実は公妃に、取りなしていただきたい儀がありまして。……アーデル伯が、公のお怒りに触れ、牢に入れられたと」
その言葉を聞いた瞬間、カタリーナ様は、持っていた優雅な杯を置き、こめかみを押さえて深いため息をついた。
「……また、あの人の悪いクセですわ。忠言を聞き入れずに、力で黙らせる。王都レグニスで良い会談ができたと、あれほど上機嫌だったのに」
カタリーナ様は、静かだが、有無を言わさぬ迫力で立ち上がった。
「分かりましたわ、グレン伯爵。今すぐ、あの方の元へ向かいましょう」
だが、公は執務室にはいなかった。
俺とカタリーナ様が向かったのは、城で最も騒がしい場所――練兵場だ。
春の陽光の下、ヴァルゼン公は鎧も着けず、ただ一本の木槍を手に、兵士たちをなぎ倒していた。
百人がかりの稽古だ。兵士たちが束になって打ちかかっていくが、公はその全てを捌き、弾き飛ばし、まるで嵐の中心にいるかのように荒れ狂っていた。
俺たちに気づくと、公は最後の兵士を叩きのめし、汗を拭いながら豪快に笑った。
「おお、カタリーナではないか。それとグレン、お前も来たか。ちょうど良い、稽古に付き合え!」
「あなた。その前に、お話が」
「アーデル伯のことだろう?」
公は、カタリーナ様の言葉を遮ると、俺の顔をまっすぐに睨みつけた。
その目は、まだ戦いの興奮に酔っている。
「ふむ」
公は、槍を捨てると、近くの武器立てから木剣を二本引き抜き、その一本を俺に放り投げた。
「グレンよ。剣で俺と戦え。話はそれからだ。もちろん、訓練用の剣だぞ」
俺の背中を、つつーっと冷たい汗が流れ落ちるのを感じた。
(……やるしかない、か!)
「――承知!」
俺が木剣を構えた瞬間、公の姿が消えた。
いや、消えたのではない。常人には見えぬほどの踏み込みだ!
「ぬんっ!」
「ぐっ……!?」
遊びの木剣とは思えぬ重さの一撃が、俺の剣に叩きつけられる。
腕が痺れ、五臓六腑が揺さぶられた。これが、ヴァルゼン公の『本気』か!
俺は、雑兵時代に培った、泥臭い戦い方で応戦する。
型などない。ただ、生き残るための脚払い!
「ほう、なかなか良い!」
だが、公はそれら全てを、まるで未来が見えているかのように軽くバックステップでかわす。
「遅い!」
「うおっ!」
公がまた一瞬で距離を詰める。俺の鎧の隙間――今は服の上だが――を的確に狙ってくる。
防御一方ではジリ貧だ。俺は、あのヘルデンの奇跡を思い出し、大きく息を吸った。
(一瞬の隙を突く!)
俺は、わざと体勢を崩し、公の強烈な胴薙ぎを誘った。
公が、待ってましたとばかりに踏み込んでくる。
今だ! 俺は、泥濘を跳ぶ獣のように体勢を入れ替え、がら空きになった公の首筋めがけて、必殺の突きを繰り出した。
――バキィッ!
乾いた音が響き渡る。
俺の木剣は、公の首筋に届く寸前で、公の剛剣により、へし折られていた。
「……なっ!?」
そして、がら空きになった俺の胴に、公の木剣が容赦なく叩き込まれた。
「ぐ……ぁっ!?」
息が詰まり、俺はその場に膝をついた。
「……ふむ。やはり、グレンよ。お前は並みの兵士とは違うな」
公は、折れた木剣を蹴ると、心底愉快そうに笑った。
「久しぶりに、『戦った』という気分になったぞ。うむ、なんだかスッキリしたな」
俺は、咳き込みながら顔を上げた。
「そ、それでは……!?」
「ああ。どうでもよくなったわ。アーデル伯は釈放してやろう」
こうして、俺は牢へと向かった。
牢の前では、アーデル伯の息子ミカが、釈放された父と涙ながらに抱き合っていた。
「グレン伯爵! このご恩は、一生忘れませぬ!」
「父の命の恩人です!」
ただただ感謝してくるアーデル伯親子。
その時、俺はふと、レグナリア王の顔を思い出した。あの王は、こうやって「貸し」を作っていた。
「いや、いい」
俺は、まだ痛む脇腹を押さえながら、ニヤリと笑ってみせた。
「俺は牛乳を届けに来ただけ、そのついでだ。……だが、アーデル伯。これでアンタは、俺に『借り』ができた、ということで良いか?」
アーデル伯は、一瞬きょとんとしたが、すぐに俺の意図を察し、その老獪な目で深く頷いた。
「……ははっ。承知いたしました、グレン伯爵。このアーデル、いざという時は、必ずや貴方様の力となることを、ここに誓いましょう」
こうして俺は、公都アイゼンブルクの文官筆頭という、強力な味方と借りを手に入れたのだった。
牢の外へ出ると、アーデル伯がまぶしそうに目を細める。
確かに、暖かな陽光だった。
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