第42話 ヴァルゼン公、直言される
『ヴァルゼン公家歴11年 3月下旬 公都アイゼンブルク 昼 晴れ』
【ヴァルゼン公視点】
王都レグニスからの帰還は、退屈な公都アイゼンブルクでの日常の再開を意味していた。
実に、つまらん。
あの肉塊のレグナリア王との会談、そして「大陸から戦をなくせ」という、途方もない条件。
久々に、この胸が焦げるような戦の予感がするというのに、俺の執務室に差し込む春の陽光は、空気中の埃をきらきらと照らし出すばかりだ。それがどうにも、目障りであった。
そして、その埃よりも目障りなのが、俺の目の前で顔を真っ赤にし、唾を飛ばしながら叫んでいる、この老いぼれだ。
「――よって! 公がわずか十騎の護衛のみで、古き王とはいえ、いまだ勢力を保つレグナリア王の懐に飛び込まれた件、断じて容認できませぬ!」
目の前でわめいているのは、筆頭文官のアーデル伯か。
古くからヴァルゼン家に仕えておるが、どうにも頭が固くていかん。戦の算段ならまだしも、平時の作法や予算のことばかりを口にする男だ。
(……うるさい)
俺が黙って聞いているのを良いことに、アーデル伯の小言はさらに熱を帯びる。
「万が一、公のお身に何かあれば、このヴァルゼン公国はどうなるのです! まさしく無謀!」
「それに、グレン伯爵もグレン伯爵です! なぜ公の蛮勇を、命を懸けてお止めしなかったのか! 『公の右腕』などと、おだてられて増長しているのではありますまいな!」
ギャアギャアと、まるで戦場で死肉を漁るカラスだ。
グレンのやつが、今や俺の臣下の中で唯一、俺の意図を汲んで動ける男だということが、こいつには分からんらしい。
俺は、積み上がった羊皮紙の束を眺めながら、静かに息を吸い込んだ。
もう、十分だ。
「……アーデル」
「はっ! おお、公! ようやくお分かりいただけましたか! すぐさまグレン伯爵を呼び戻し、厳重に――」
「ああ、分かった」
俺は、老臣の言葉を遮って、冷ややかに言い放った。
「貴様が、戦場で何の役にも立たぬ、ただのガラクタだということがな」
「な……っ!?」
アーデル伯の顔が、怒りの赤色から、驚愕に引きつった。
俺は、その顔を見るのも飽きて、部屋の入り口に控えていた衛兵を指で招いた。
「衛兵。この男を捕らえよ」
「はっ? ……え? こ、公?」
衛兵も、アーデル伯も、一瞬、俺が何を言ったのか理解できないという顔をした。
「耳が聞こえんのか。そのやかましいカラスを、牢へ放り込んでおけ。少しは頭が冷えるであろう」
「――ッ! 公! ご冗談を! お待ちくだされ!」
アーデル伯の顔が、驚愕の白から、今度は恐怖の青へと変わっていく。
衛兵たちにためらいなく両腕を掴まれ、その場にみっともなく膝をついた。
「私は! 私は貴方様と、このヴァルゼン公国の行く末を思って、忠義の心から直言を……!」
「うるさい。連れて行け」
俺の二度目の命令に、衛兵はもう迷わなかった。
老臣の必死の抗弁は、もはや悲鳴に変わっている。その無様な姿が、執務室の重い扉の向こうに消えていった。
ようやく、静寂が戻った。
(……小言はもう聞き飽きた)
この乱世、必要なのは石橋を叩いて渡らぬことではない。
嵐の中、誰よりも先に川へ飛び込む勇気と、それを支える力だ。
グレンが俺の「右腕」であるならば、今、俺が求めているのは「左腕」だ。
あのアーデル伯は、忠義のつもりかもしれんが、今の俺にとっては、ただの「足かせ」にしかならん。
俺は、窓の外のどこまでも青い晴れやかな空を見上げ、レグナリア王に突きつけられた、あの途方もない戦に、思いを馳せるのだった。
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