第41話 のんびり牛と歩く、まさに牛歩の旅
『ヴァルゼン公家歴11年 3月下旬 ポルト村 昼 晴れ』
【公の右腕グレン視点】
俺とヴァルゼン公は、あの平和なポルト村まで一緒に来たが、ここで別れることになった。
理由は単純で、俺はレグナリア王から約束の牛を分けてもらう手はずになっているからだ。
貴重な牛を荷馬車で揺らして運ぶよりも、ゆっくり歩かせた方がいいという俺の進言を、公はあっさりと受け入れた。
「統一に向けて、帰ってよく考えてみる」
公は、猫の入ったカゴを大事そうに抱えると、それだけ言い残し、供の兵と共にさっさとアイゼンブルクへの帰路についてしまった。
(まあ、公は忙しいから仕方ないか)
俺はポルト村に残り、あの牛乳を振る舞ってくれた老婆の家で、またしても温かいミルクをご馳走になった。
ほどなくして、王の使いが立派な牡牛と牝牛を一頭ずつ連れてきてくれた。
「王の計らいです。こちらの牝牛が生んだばかりの子牛もお付けします」
(おお、子牛まで! これはラッキーだ)
俺は、つやつやした毛並みの牛たちの鼻面を撫でてやった。
「よろしく頼むぜ、牛ちゃんよ。俺の領地でも、お前たちみたいに立派な仲間を増やしてくれ。ちゃんと世話してやるからな」
俺の言葉が聞こえたのかどうか分からなかったが、親牛は「んも~」と、のんびりした声をあげた。
王は約束通り、ミュラー伯爵が「献上品」と称して連れ去った女性たちも、俺に引き渡してくれた。
こうして、俺の率いる一団――牛三頭と、十数名の女性たち、そして公が残してくれた護衛の兵たちは、グレンフィルトへの旅を開始した。
それは、まさに「牛歩」と呼ぶにふさわしい、のんびりした旅だった。
馬と違って、牛は歩くのが遅い。だが、そのゆっくりとした歩みが、王都での緊張感をほぐしてくれるようだった。
俺の愛馬も、最初は見慣れない牛の姿を警戒していたが、すぐに慣れたのか、休憩時間になると興味深そうに牛の匂いを嗅いだりしていた。
休憩になると、牛も馬も、道端に生えている養分のありそうな春の草を美味そうに食む。
俺も、護衛の兵や、解放された女たちと一緒に、レグナリア王が持たせてくれた保存食のビスケットをかじりながら、くつろいでいた。
女たちは、最初は俺たちを遠巻きに見ていたが、数日もすると、少しずつ打ち解けてきた。
だが、その顔にはまだ、拭いきれない不安の影が差している。
休憩中、女たちの中で一番年長らしき者が、意を決したように俺の前に進み出た。
「あの、グレン……様」
護衛の兵が余計な口を挟む。
「グレン伯爵様、とお呼びしろ」
俺はそれを手で制した。もともとは俺も雑兵だ。呼び方など、どうでも良かった。
「どうかしたか?」
「私たちは、本当に家に帰れるのでしょうか?」
「と、言うと? 故郷の村は覚えているんだろう?」
「それは……ですが……」
彼女は唇を噛み、俯いた。
「私たちは、レグナリア王には何もされてはいません……。ですが、伯爵に連れ去られた時点で、もう『汚された身』とみられてしまうのではないかと……」
そこまで言うと、彼女たちは皆、泣き出しそうに顔を伏せて黙ってしまった。
そうか……そういう問題があったか。
この乱世だ。一度「傷物」とみなされたら、村に帰っても、家族からさえ疎まれるかもしれない。
俺は、ビスケットの最後の一口を飲み込むと、立ち上がった。
「分かった。無理に村に返すことはしない。行く場所が無いようなら、全員、俺の街グレンフィルトで面倒を見てやるよ」
女たちの顔が、一斉に上がる。
「ただし」と俺は付け加えた。「タダ飯を食わせるほど、俺の街も豊かじゃない。一応、働いてもらうけどな? 裁縫でも、洗濯でも、宿舎の飯炊きでも、仕事ならいくらでもある」
その言葉を聞いて、女たちの顔が、この旅で初めて、ぱっと明るくなった。
レグナリア王領とヘルデン丘陵一帯の明確な国境線が決まっているわけではなかったが、境界線付近まで来ると、明らかに風景が変わった。
平和な牧草地は消え、またしても、打ち捨てられ荒れた村々が多くなってきた。
(……こっちが当たり前で、王の領地が異常だったんだ)
この周辺を復興するのも、これからの俺の仕事だろう。
そんな荒れた村の一つ、グレンフィルトの領境近くで、見慣れた狼の旗がはためいているのが見えた。
『銀狼傭兵団』だ。
「おーい! グレン子爵ーっ! 迎えに来たよーっ!」
斥候から俺の帰還を聞きつけたのだろう。団長のイリアが、土塁の上から、子供のようにぴょんぴょん跳ねながら手を振っていた。
俺は牛の歩みに合わせながら、ゆっくりと馬を進め、イリアの前に着くと、どうにも言いにくそうに頭をかいた。
「おう、イリア。わざわざすまんな。……だが、その呼び方、ちょっと違うんだ」
「えっ? 何が違うのさグレン~っ!」
「すまんな。いま俺、伯爵なんだ」
イリアの動きが、ぴたりと止まった。
「…………へっ?」
気の抜けた声が、春ののどかな荒野に、妙に印象的に響き渡った。
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