第39話 レグナリア王領にて~戦火の無い豊かさ~
『ヴァルゼン公家歴11年 3月中旬 レグナリア王領のポルト村 雨』
【ヴァルゼン公視点】
公都アイゼンブルクを出て数日、俺はグレンと十騎ほどの護衛だけを連れて、北へ馬を進めていた。
昨日の昼過ぎに出立し、ついにレグナリア王領へと足を踏み入れた。
その瞬間、空気が変わった。
いや、空気そのものではない。土地の「気配」だ。
道すがら見てきた、焼け落ちた村々、打ち捨てられた畑、そういった戦乱の痕跡が、この領地に入った途端、ぴたりと消えたのだ。
「……公よ。この領地、焼け落ちたり打ち壊された建物が、一つもありません」
グレンが、まるで珍しいものでも見るかのように、きょろきょろと周囲を見渡しながら呟いた。
「ああ。ここは、あの『黒死の病』からも、その後の戦にも巻き込まれなかったようだな」
手入れの行き届いた畑が地平線まで広がり、街道も補修されている。俺の領地や、ましてやカレドン、ミュラーの領地とは大違いだ。
その時、グレンが子供のように目を輝かせて、道の先の牧草地を指さした。
「公よ、見てください! 牛がいます! なんと立派な! 珍しいですね!」
確かに、そこには十数頭の牛が、のんびりと草を食んでいた。戦乱の世では、牛馬は真っ先に兵糧か荷駄として徴発される。あれだけの数が放牧されているのは、それだけこの地が豊かで、平和だという証拠だった。
「うむ、立派な牛だな。……グレンよ、あれだけ牛がいるなら、ミルクを貰えるやもしれんぞ? ちょうど村も見えてきた。寄って行こう」
俺の提案に、グレンは「はい!」と嬉しそうに頷いた。
村の入り口には、古びてはいるが、温かみのある文字で『ようこそポルト村へ』と書かれた看板が立っていた。
そのまま村の中心にある市場へ馬を進めると、春の空は気まぐれなもので、急に空が暗くなり、大粒の雨が地面を叩き始めた。
「うわっ、降ってきた!」
「店じまいだ! 早く!」
露天商たちは、慌てて自慢の商品に布をかけると、ひさしの下へと逃げ込んでいく。
「我らも雨宿りさせてもらうぞ」
俺とグレンも馬から下りると、護衛の兵たちと共に、近くにあった縁側付きの民家の軒下へと駆け込んだ。
雨脚は強まる一方で、俺たちがただぼんやりと雨を眺めていると、背後の家の扉がギィ、と開いた。
「あんれ、こりゃひどい雨かいな」
現れたのは、腰の曲がった老婆だった。
俺たちの物々しい武装を見ても、老婆は怯む様子もなく、しわくちゃの顔で笑いかけてきた。
「お前さんたち、旅の衆かね? そんなとこでただ座ってるのも暇じゃろう。よかったら、温かい牛乳でも飲んでいかんかね?」
「えっ? いいんですか?」
グレンが素っ頓狂な声を上げる。
「ご婦人、かたじけない。では、お言葉に甘えよう。これでいかがかな?」
俺は懐から金貨を一枚取り出し、老婆に手渡した。
一瞬、老婆は目を丸くしたが、すぐにニカッと笑った。
「あんれまあ! こりゃあ奮発しないとねぇ。お連れのみなさんも、さあさあ、上がって上がって」
俺たちは老婆の家に招き入れられ、囲炉裏で温められたばかりの、湯気の立つ牛乳を振る舞われた。
口をつけると、ほのかな甘みと、濃厚な香りが広がる。ほっとする味だ。
どのみち、生水を腹を壊さずに飲むのは難しい。牛乳とて、一度こうして火にかけて温めなければ、安心して飲めはしないだろう。
護衛の兵たちも、戦場では決して味わえぬ珍しいもてなしに、兜の頬当てをずらしながら、うまそうに牛乳をすすっていた。
皆が二杯目を飲み干そうかという頃、あれほど激しかった雨が、嘘のように上がった。
「おお、晴れたか」
空には、見事な七色の虹がかかっている。
「済まないご婦人、我々は先を急ぐゆえ、これにて失礼する! ミルク、馳走になった」
「美味しかったです! ごちそうさまでした!」
俺とグレンが礼を言うと、老婆は「は~い、気をつけてな~。また来てねぇ~」と、いつまでも手を振って俺たちを見送ってくれた。
再び馬に乗り、王都レグニスへの道を進む。
グレンのやつが、まだあの牛乳の味が忘れられないのか、ニコニコしながら俺に話しかけてきた。
「公。戦火に巻き込まれていないと、村もここまで発展するんですね。人々も、俺たちみたいな武装したよそ者を、まったく警戒しませんでした」
「そうだな。あの村を戦火から守り、あの豊かさを維持した。……それだけでも、レグナリア王は、ただ者ではない。かなり優秀な統治者と見た」
俺は、先ほどまでの雨で澄み切った空気を深く吸い込んだ。
「これは、会うのがますます楽しみになってきたぞ」
俺とグレンは、王都レグニスへ向けて、ゆっくりと馬を駆けさせた。
空に架かっていた綺麗な虹は、俺たちの進む先で、時間と共にやがて見えなくなっていた。
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