第38話 グレン、ヴァルゼン公の右腕と認められる
『ヴァルゼン公家歴11年 3月中旬 公都アイゼンブルク 晴れ』
【妻エレーナから逃げて来た、公の右腕グレン子爵視点】
俺は、公都アイゼンブルクの城門を、文字通り駆け抜けるようにして通過した。
道中、ほとんど休息も取らずに馬を飛ばしてきたため、愛馬は口から泡を吹き、その巨体を苦しそうに上下させている。
(すまん……すまん、相棒。埋め合わせは必ずする)
だが、今は止まれなかった。
あの館で俺を待つ、妻エレーナと、イリア、ソフィアが繰り広げるであろう静かな戦場を想像すると、背筋に冷たいものが走る。
五千のレグナリア王家軍と対峙した時より、よっぽど恐ろしかった。
城門の衛兵たちは、『公の右腕』と呼ばれる俺が、血相を変えて(そして、ひどい野営の臭いをさせて)飛び込んできたことに驚きつつも、敬礼をもって俺を顔パスで通してくれた。
俺は馬を厩舎番に預けると、公の居室へと急いだ。報告だ。そう、これは緊急の報告なのだ。決して逃げてきたわけではない。
公の部屋の扉が開き、俺は中へと転がり込んだ。
そこには、執務机に山と積まれた羊皮紙を前に、いかにも退屈そうにしていたヴァルゼン公が、微妙な顔で俺を見つめていた。
「……グレンか。おぬし、洗っていない獣の臭いがするぞ? まさか、戦場からそのまま来たのか。風呂へ入っていないだろう?」
「は、はあ。急ぎ、公にご報告をと……」
公は、俺の必死の形相と、妻から逃げてきたとは露知らず「報告」という大義名分に、フンと鼻を鳴らした。
「まあよい。その気を抜けたような、それでいて追いつめられたような妙な顔を見るに、ひとまずの危機は脱したというところか? どれ、話は後だ。先に風呂へ入ってこい。臭くてかなわん」
公の城に備え付けられた大浴場は、湯気がもうもうと立ち込め、戦でこびりついた泥と脂を洗い流すには十分すぎた。
俺が慌ただしく体を洗っていると、がらり、と扉が開き、ヴァルゼン公ご本人までが入ってきた。
「背中を流せ」
「ははっ」
もう慣れたものだった。
あらかた体を洗い終えていた俺は、公の前に回り込むと、その鍛え上げられた広い背中を洗いだした。
やがて二人で湯船に浸かり、こわばった筋肉がようやくほぐれていく。
そこで俺は、ミュラーブルクでの出来事を、ありのままに語り始めた。
俺たちがハシゴで城壁を駆け登り、一度はミュラーブルクを陥落させたこと。
そこへ、五千ものレグナリア王家軍が、突如として介入してきたこと。
そして、あの肉塊のような王と直接会談し、ミュラーブルクを明け渡す代わりに、王家に「貸し」を作ったことまで、全て。
俺の話を黙って聞いていた公は、湯気の中で目を閉じ、やがて静かに口を開いた。
「……して、そのレグナリア王の人となりは、いかがであった?」
「そうですね。見た目は肉塊でしたが……非常に理性的でした。なんというか、頭の良い本をたくさん読んでいる人? ああいう人って、なんて言うんでしたっけ」
「学者、か?」
「そうです、学者みたいでした。病が全て悪いのであって、悪人はいない、と」
「そうか。面白いことを言う王よな。……お主、その王に『貸し』を作ったのであるな?」
「はい! 次にミュラー伯爵が何かしたら好きにして良い、と」
その言葉を聞いた瞬間、ヴァルゼン公は、湯船の中でカッと目を見開いた。
「うむ、ワシも会いたくなってみたぞ! グレンよ、王都レグニスへ行ってみるか?!」
「……は? 公、正気でございますか? つい先日まで、敵対行動を取っていた相手の懐に飛び込むと?」
「ははは、良いであろう? おぬしが貸しを作った王が、どんな顔でワシを迎えるか、見ものではないか!」
公は、まるで子供が新しい遊びを見つけたかのように、愉快そうに湯を叩いた。
「よし、決まりだ! とりあえず、今日は呑むぞ! そして、明日行くとしよう! ……よいかグレン、お主は早起きだからな! いつものように、俺を置いて帰るなよ? ちゃんと待っておれ! おぬしは、もう俺の右腕だからな!」
「は、はあ……」
俺の返事も待たずに、公はザバッと湯船から上がっていった。
こうして、翌日の昼過ぎ。
さんざん酒盛りに付き合わされ、二日酔いで重い頭を抱える俺と、なぜかスッキリとした顔のヴァルゼン公は、わずか数十騎の護衛の兵だけを連れて、王都レグニスへと向かったのだった。
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