第37話 ともだち
『ヴァルゼン公家歴11年 3月中旬 グレンフィルト 晴れ』
【グレンの妻エレーナ視点】
あの人が、帰ってきました。
ミュラーブルクでの一件――レグナリア王の介入により、父の仇を討てずに撤退したという報せは、すでに早馬によって知らされていました。
ですから、私はただ、夫の無事な帰還を祈って待つことしかできなかったのです。
城門が開き、四つの丸が描かれた旗が街へとなだれ込んでくる。兵士たちの顔には、勝利とも敗北ともつかない、ただ疲労の色が浮かんでいます。
その先頭で馬を降りた夫の姿を見た瞬間、私は張り詰めていた息をようやく吐き出しました。
(……よかった、ご無事で)
私が駆け寄ろうとした、その時でした。
私は見てしまったのです。
兵士たちからの帰還の挨拶を受け、少し照れくさそうに頭を掻いているあの人。
その背後で、イリア様とソフィア様が、まるで示し合わせたかのように、夫の外套の裾を……それぞれ、ほんの指先で、少し恥ずかしそうに掴んでいるのを。
それは、戦友に向けるものとは明らかに違う、女の仕草でした。
あのミュラーブルクの城で、夜、何があったのか。
察しは、ついてしまいました。
(……そう、ですわね)
心臓が、きゅう、と冷たくなるのを感じました。
ですが、私は貴族の娘。そして、今や子爵の妻。
あの人はもう雑兵ではなく、ヴァルゼン公の右腕と呼ばれるほどの貴族なのです。女性が複数人いても、この乱世では、家を繁栄させるためには仕方のないことなのかもしれません。
そうです。仕方ないのです。
そうなると、私の視線は、夫ではなく……私の「ともだち」だと思っていた、イリア様とソフィア様に、自然と向いていました。
私は、すう、と息を吸い込むと、館に入ろうとする三人を、できるだけ穏やかな声で呼び止めました。
「二人とも、ちょっとよろしいかしら?」
「あっ、ハイ……」
イリア様が、まるで訓練中に叱られる新兵のように、びくりと肩を震わせます。
対照的に、ソフィア様は、やれやれといった風に優雅なため息をつきました。
「ふうっ、参ったわね……。やはり、奥方様の目は誤魔化せませんでしたか」
私は、二人の顔を等しく見つめ、にっこりと微笑んで差し上げました。
ただ、目は笑っていなかったかもしれません。
「順番は、きちんと守るようにしていただかないと、困りますわ」
私の言葉に、イリア様の顔がさっと青ざめました。
「エレーナちゃん……あの、その……なんか、ちょっと怖いよ」
「はい、奥方様。肝に銘じますわ」
ソフィア様だけは、どこか面白がるように、恭しく頭を下げました。
この恐ろしいまでの静かな修羅場に、ようやく気づいたのでしょう。今まで黙り込んでいた夫が、叫ぶように言いました。
「す、すまないっ! 俺は、今すぐヴァルゼン公の所へ報告に行ってくる!」
あの人は、五千のレグナリア王家軍からさえ逃げなかったというのに。
私から逃げるように、馬に飛び乗り、再び城門の外へと駆け出して行ってしまいました。
嵐が去った館の入り口で、私は改めて、残された二人の「ともだち」に向き直りました。
「さあ、お二人とも。こちらへ。お茶でも飲みながら……ゆっくりお話を伺いましょう」
それから私は、二人を応接室に座らせると、説教とも、お願いともつかない、妻としての長い長い話を始めるのでした……。
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