第36話 レグナリア王と言う人物~ミュラーブルク野外にて~
『ヴァルゼン公家歴11年 3月上旬 ミュラーブルク 晴れ』
【公の右腕グレン子爵視点】
城壁の上から見下ろすレグナリア王の輿は、城門のすぐ近く、弓が届くギリギリの距離で止まっていた。
やがて、輿から一人の使者が現れ、城門に向かって「王は、グレン子爵との面会を求めておられる!」と大声で叫んだ。
「……だとさ。どうする、ダンナ?」
イリアが、槍の柄を握りしめながら俺に尋ねる。
敵は五千、こちらは二千。しかも、奪ったばかりの城で籠城戦だ。分の悪い賭けであることは間違いない。
「……応じよう。話くらいは聞いてやる」
俺は、イリアとソフィアだけを供につれ、城門をわずかに開けて外へ出た。
両軍が固唾を呑んで見守る、城と敵陣のちょうど中間地点。春とはいえ、まだ冷たい空気が肌を刺す。
そこで俺は、あの巨大な輿と、その上に鎮座する肉塊――レグナリア王と対峙した。
噂通り、王は恐ろしく太りきっていた。何重にも重ねられた絹の衣装が、その異常な巨体をさらに膨張させている。
だが、その肉に埋もれた瞳は、濁ってはいなかった。
まるで全てを見透かすかのような、冷たい知性を宿した光が、その奥から俺を射抜いていた。
「……余が、レグナリア王である」
か細く、息苦しそうな声だった。
王は、俺たちを値踏みするように一瞥すると、本題を切り出した。
「ミュラーブルクと、ミュラー伯爵の解放を求める」
「嫌だと言ったら?」
俺が短く返すと、王は意外なほどあっさりと答えた。
「どうもせん。このまま、五千の兵でこの城を包囲し続けるだけだ。そなたらが飢えるまでな」
「そうか……」
重い沈黙が、両者の間に流れた。
先に口を開いたのは、またしても王だった。
「グレン殿。どうだ、余の配下とならぬか? その武勇、惜しい。悪いようにはせんぞ」
「断る! 俺はヴァルゼン公の臣下だ!」
俺が思わず声を荒げると、王は肉のついた頬をわずかに緩めた。
「声を荒げずとも好い。そうか、残念だ」
「……あんたほどの男が、なぜミュラー伯爵のようなクズを助けに来た? あの男が、領民にした非道を知らんわけでもあるまい」
俺の問いに、王はゆっくりと答えた。
「アレは一応、余に挨拶に来た。ならば、こちらも応じるのが筋というものだ」
「なるほど……筋は通すってことか」
「そもそも」と、王は続けた。「この動乱、悪いのは『黒死の病』である。病が帝国を崩壊させ、人を狂わせた。悪人はおらん。皆、病に浮かされた犠牲者よ」
「たしかに……」
反論できない、奇妙な説得力がその言葉にはあった。
王は、ゼェ、と苦しそうな息をつくと、自らの巨大な腹を撫でた。
「余のこの体も同じだ。悪いのは、あくまでも病」
「……何が言いたい?」
「ミュラー伯爵も、そういう病なのだ。心のな」
王の知的な瞳が、俺をまっすぐに見据えた。
「次にアレが何かしたら、余はもう手を出さぬ。そなたの好きにして良い。だが、今回は余の顔を立て、一度は許してくれまいか? さすれば、この軍も引こう」
「……俺に、何か得はあるのか? 義父を殺された俺が、仇を許すだけの見返りが」
「余の『借り一つ』で、どうだ? このレグナリア王家の借りは、安くはないぞ。いつか必ず返そう。奪われた女たちも返す」
(借り、か……)
五千の精兵と事を構えるリスク。そして、王家の「借り」。
俺は、奥歯を噛みしめた。
「……分かった。今回はあんたの顔を立て、俺たちも引く。だが、次は絶対にミュラー伯爵を許さない」
「うむ。その時は、余も手を出さん。……感謝する、グレン殿」
こうして、俺たちグレンフィルト軍は、陥落させたばかりのミュラーブルクから撤収することになった。
城門から、捕らえていたミュラー伯爵が解放され、王の陣営へと逃げていく。その背中を、俺はただ黙って見送った。
奇妙な会談だった。
結局、義父の仇を討つことはできなかった。だが、不思議と悪い気はしなかった。
あの王の瞳が、なぜか俺の脳裏に焼き付いて離れなかった。
グレンフィルトへの帰路、あれほどぬかるんでいた大地は、春の日差しにすっかり乾き、俺たちの足取りを妨げることはなかった。
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