第32話 公の右腕グレンと、異国の商人バルザフ
第32話 公の右腕グレンと、異国の商人バルザフ
『ヴァルゼン公家歴11年 2月中旬 グレンフィルト 晴れ』
【成り上がり子爵グレン視点】
長く続いた冬が、ようやく終わりの気配を見せ始めていた。凍てついた大地も、日中の陽光にはわずかにぬかるみを見せる。
春になれば、軍を動かす。
ヴァルゼン公より東方攻略の全権を任された俺は、その約束を果たすべく、館の会議室に主要なメンバーを集めていた。
重々しいオーク材のテーブルを囲むのは、俺の妻であり相談役のエレーナ、金勘定係の商人レオ、そして二つの傭兵団の隊長であるイリアとソフィアだ。
「さて、皆に集まってもらったのは他でもない。冬が終われば、俺たちは東へ打って出る」
俺は、広げられた地図の上を指で叩いた。
「目的地は大きく二つある。一つは、妻エレーナの父君、シュタイン子爵が囚われている『ミュラーブルク』。もう一つは、カレドン家の本拠地『ドラッヘンブルク』だ。……だが、ご存じの通り、ミュラー伯爵は人質をとっているし、ドラッヘンブルクは難攻不落だ。困ったものだ」
俺が溜息交じりにそう言うと、真っ先に手を挙げたのはイリアだった。
「はいはーい! アタイにいい作戦があるよ! こういう時はね、ごちゃごちゃ考えずに、弱い方から叩くのが一番なんだよ!」
「それでしたら、必然的にミュラーブルクから、ということになりますけど……」
ソフィアが冷静に分析する。
だが、その言葉に、エレーナが青い顔でか細く手を挙げた。
「……はい。ですが、そこには、お父様が人質として……」
エレーナの言葉に、それまで威勢の良かった会議室の空気が、シンと静まり返った。
誰もが、人質をどう救出するか、その答えを見つけられずに黙り込んでしまう。
その重い沈黙を破ったのは、会議室の扉をノックする音だった。
商人レオが、緊張した面持ちで入ってくる。
「みなさん、軍議中まことに失礼いたします。グレン子爵様、今すぐお耳に入れたいことが」
「良い。ここに居る者は全員、信用できる。言ってみろ」
「はっ。ミュラーブルクに囚われている、シュタイン子爵のことです。……この件について、確かな情報を持ってきたという者を、証人としてお連れしました」
「構わん。通せ」
レオに促され、部屋に入ってきたのは、俺も初めて見る男だった。
年の頃は二十歳前後。日に焼け、精悍な顔つきをしている。東方の異国風の上等な服を着こなしており、ただの行商人ではないことが一目で知れた。
「お初にお目にかかります、グレン子爵様。私は、東方の商人バルザフと申します。いやはや、噂には聞いておりましたが、このグレンフィルトは、実に活気のある良い街でございますな」
「お世辞は良い。本題を申してみよ」
俺がそう促すと、バルザフは芝居がかった陽気な表情を一瞬で消し、深く頭を下げた。
「はっ。……申し上げにくいことですが、シュタイン子爵は、先日、ミュラーブルクの地下牢にて自決された、とのことです。……心より、お悔やみ申し上げます」
時が、止まった。
「ああっ……お父、様……!」
エレーナの悲痛な叫びが響く。
彼女は、その場に崩れ落ちそうになり、俺は慌ててその体を支えた。
「エレーナ! しっかりしろ!」
「誰か! エレーナを寝室へ!」
「エレーナちゃん……しっかり!」
「イリア、手を貸して。エレーナちゃんを運ぶわよ!」
イリアとソフィアが、泣き崩れるエレーナを両脇から支え、慌ただしく会議室から連れ出していった。
残された部屋には、気まずい沈黙が流れる。
俺は、怒りと悲しみで震える拳を握りしめ、バルザフに向き直った。
「……さて、バルザフ殿。何か欲しいものはあるか? 謝礼はレオからも出そう。だが、これは俺個人からだ」
「はて? 謝礼でございますか? それならば、既にレオ殿より、十分すぎるほど頂戴いたしましたが?」
「シュタイン子爵は、俺の義理の父だ。その最期の情報を届けてくれた礼だ」
「……さようでございましたか。それは、重ねてお悔やみ申し上げます。……では、厚かましいお願いですが、このグレンフィルトにおける『免税特権』をいただきたく存じます」
「なんだ、そんなことか。それなら三年でどうだ?」
「ははっ! 十分すぎるほどでございます。……それより、グレン子爵様。この大陸を、ご自身で手に入れるおつもりはございませんか?」
バルザフの目が、商人のそれから、何か別のものに変わった。
「ふむ。それなら、ヴァルゼン公に申せばよかろう。俺はヴァルゼン公の臣下だ」
「いえいえ。ヴァルゼン公ではなく、このグレンフィルトの発展を見込んでのことでございます。あなた様になら、それが可能かと」
俺は、椅子を蹴立てるように立ち上がった。
「だれか! 反逆者だ、この者を捕らえよ!」
その声に反応し、エレーナを運び終えたイリアとソフィアが、凄まじい速さで部屋に駆け戻ってきた。
二人は有無を言わさずバルザフの両腕を背後にねじ上げ、その場に強制的に跪かせた。
だが、バルザフは慌てる様子もなく、むしろ愉快そうに喉を鳴らした。
「ハッ! こいつは驚いた! さすが、これだけの街を一代で造り上げた『ヘルデンの英雄』様だぜ。試すような真似をしちまって、悪かった。俺の目に狂いはねぇ。アンタには、確かに芯がある!」
その粗野な口調に、俺は思わず口元を緩めた。
「フッ、お前、猫をかぶっておったな。正直に言えば、今の口調の方が好きだぞ」
「ハハッ! そりゃどうも! じゃあ、こういう取引はどうだ? 別にヴァルゼン公に下克上を仕掛けろ、なんて無粋なことは言わん。だが、アンタはこれから、公の懐刀として、さらに広大な領地を得ることになるだろう。街のモンが、アンタのことを見えないところで何て呼んでるか知ってるか?」
「知らぬな」
「『公の右腕』だとよ!」
公の、右腕。
その言葉は、不思議と俺の胸にストンと落ちた。
「……分かった。二人とも、放してやれ」
「ふぅ~っ、おっかないねえちゃんたちだぜ、まったく」
バルザフは、砂を払うように服を整えると、再び俺に向き直った。
「じゃ、グレンさんよ。改めて取引だ。アンタが将来手に入れる領地で、俺たち商人が商売する時は、税金を安くしてくれ。他よりも、ずっとな。これでどうだ?」
「……それならできる。ヴァルゼン公を裏切ることにもならん。わかった、その取引、乗ろう」
「話が早くて助かるぜ! とりあえず、これから始まる戦……面白そうだから、俺も一口乗らせてもらうぜ。よろしくな、右腕殿」
バルザフは、手をひらひらと振りながら、嵐のように会議室から出て行った。
レオが、心配そうに俺に尋ねる。
「よろしいのですか? あの者、信用できるとはとても思えませんが」
「今は乱世だ。あのような者がいても不思議ではない。利益がある限り、縁は続くだろう。……それより、レオ。出撃先が決まったぞ」
俺は、地図の上の『ミュラーブルク』を、強く指さした。
人質は、もういない。
義父の弔い合戦だ。もはや、何の躊躇いもない。
「全員に告ぐ! 三月になったら、ミュラーブルクへ出撃するぞ!」
「「「ハッ!」」}
イリア、ソフィア、レオの、力強い返事が響いた。
それから数日も経たないうちに、公都アイゼンブルクから早馬が届いた。
ヴァルゼン公が、あのザンクト・ブリギッタを、完璧な兵糧攻めの末に陥落させたという、勝利の報せだった。
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