第21話 ヴァルゼン公、西を睨む
『ヴァルゼン公家歴10年 11月下旬 公都アイゼンブルク 曇り』
【ヴァルゼン公視点】
俺は、執務室に広げた広大な軍用地図を睨みつけていた。
我が公都アイゼンブルクは、決して安泰ではない。
北には、旧王都『レグニス』。アードラー帝国の崩壊後も、レグナリア王家の「権威」だけは未だに生きている。今は老いた獅子のように動かぬが、いつその牙がこちらを向くか分からぬ。
東には、いまだ健在の『ドラッヘンブルク』。若きライナルトは酒浸りとの報せもあるが、あの老獪なゲルハルト伯が控えている限り、油断はできん。
そして、最も厄介なのが、西だ。
西の果てにあるという、ユニテス教会の宗教都市『浄火の都』。
『神の下の統一』こそが平和への道である、などと説くあの連中は、殉死を恐れぬ狂信者の集まりだ。厄介なことに、あの教義は戦乱に疲れた民や、秩序を求める貴族の一部にまで深く食い込んでいる。
『大陸の再統一を目指す』などと称して、政治的にもあからさまな干渉を始めていた。このアイゼンブルク城内にさえ、密かに教えに染まった者がいるという報告もある。
早めに潰さねばならぬ。この俺の手で、直接。
だが、俺の体は一つしかない。
北の王都は放置するとしても、東西に同時に手を打つ必要がある。
そう、今まではそれを任せられるだけの人材が、この俺の元にはいなかったのだ。
「……今までは、な」
地図の上、東の国境線に位置する『グレンフィルト』の駒を指で弾き、俺はニヤリと口の端を上げた。
コン、コン。
その時、部屋のドアが静かにノックされた。
入ってきたのは、我が妻、カタリーナだった。
「あなた、グレン男爵がお見えになりましたわよ」
「おお、来たか! 待っていたところだ。さっそく呼んでくれ!」
カタリーナに促され、部屋に入ってきたグレンのやつは、いつもより随分と暗い、疲れ切った顔をしていた。エルロー地方での一件は、報告書で読んでいる。
「どうした、グレン。まるで葬式帰りのような顔ではないか。何かあったようだな? 申してみよ」
俺が促すと、グレンはぽつりぽつりと、あの忌々しいミュラー伯爵との対峙について語り始めた。
エルロー地方を無血で解放したこと。そして、その代償として、妻の父であるシュタイン子爵が人質としてミュラーブルクに囚われていること……。
報告を終え、うつむくその姿は、英雄のそれではなく、ただ義父を救えなかった男の姿だった。
俺は玉座から立ち上がると、無言でグレンの肩を叩いた。
「……よし、飲もう」
俺は侍従に命じて、最高級の酒と杯を持ってこさせ、再びあの軍用地図の前にグレンを座らせた。
「公……俺は……」
「いいから飲め。貴様の悔しさは、その顔を見れば分かる。だがな、グレンよ。いつまでも下を向いている暇は、俺たちにはないぞ」
俺は、杯に酒をなみなみと注ぎ、地図の「西」を指し示した。
「俺は、近々、西へ向かおうと思う。あの厄介な宗教都市、『浄火の都』を潰すつもりだ」
「西へ……? そんなに状況が悪いのですか?」
「ああ、悪いな。アイゼンブルクの内部にまで信者とやらが増えている。俺が直接、この城から膿を出し、連中の本拠地を叩く。……そこでだ、グレン。お主には、東へ向かってもらいたい」
「東、でございますか?」
「そうだ。お前が手に入れたエルロー地方の、さらに東。最終的には、あの『ドラッヘンブルク』を陥落させてほしい」
俺の言葉に、グレンは目を見開いた。
「……公。恐れながら、申し上げます。今の俺には、金も、兵も、足りません」
「うむ、それもそうか」
俺は即答した。
「ならば、お前がダリオから抱えている借金、その全てを俺が肩代わりし、帳消しにしてやる。これでどうだ」
「……! ですが、公。ドラッヘンブルクを攻めるとなれば、今の『銀狼傭兵団』だけでは……。本音を言えば、その前に、妻の父の仇でもある、あのミュラーブルクを落としたい」
「ふはは! それもそうか!」
俺は、その返事を待っていた。
「よし、金はもっとやる! ダリオに俺の手形を渡しておこう。必要なだけ傭兵団を雇え! 東のことは、今後すべて貴様に一任する。ミュラーブルクを先に落とそうが、ドラッヘンブルクと和議を結ぼうが、貴様の好きにやってみるが良い!」
俺は、さらに続けた。
「あと、いつまでも『男爵』というわけにもいかんな。それでは、他の貴族どもが言うことを聞かん。グレンよ、今日この時から『子爵』を名乗るが良い!」
グレンは、しばし呆然としていたが、やがて杯を置くと、床に片膝をついて深々と頭を垂れた。
「ははっ! ありがたき幸せにございます!」
その顔には、もう先ほどの陰りはなかった。
俺たちは、それから夜が更けるのも忘れ、東の攻略と西の討伐について、酒を飲み、語り明かした。
翌朝、俺が目を覚ますと、グレンはもう客間にはいなかった。
侍従に聞けば、夜明けと共にグレンフィルトへ帰っていったという。
(ふっ、相変わらずよのう。あの男は)
嵐の中を突き進むことしか知らぬ、実に俺好みの男だ。
俺は、覚悟を決めた。
(さて、俺も始めるとするか)
まずは、この公都アイゼンブルクにはびこる、『浄火の都』の信者どもを狩ってやるとしよう。
窓の外では、いつの間にか、しとしとと冷たい雨が降り始めていた。
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