第20話 ミュラーブルクの人質
『ヴァルゼン公家歴10年 11月中旬 ミュラーブルクにて 曇り』
【エルローの解放者、グレン男爵視点】
ミュラー伯爵の狂気に満ちた叫びが、秋の冷たい風に乗って丘の上まで届く。
城壁の上、縄で縛られ、首筋に剣を突きつけられているのは、紛れもなく妻エレーナの父、シュタイン子爵その人だった。
「くそっ……! 人質とは、貴族のやることか! 卑怯者め!」
俺が怒りに任せて罵ると、城壁の上から、縛られたシュタイン子爵が必死の形相で叫び返してきた。
「婿殿! ワシに構わず攻撃しろ! このような卑劣漢に屈してはならん! エルローの民を……娘を頼むぞ!」
「うるさいぞ、この裏切り者がぁっ!」
ミュラー伯爵が、子爵の顔を荒々しく殴りつける。
そして、再び血走った目で俺を睨みつけた。
「なんとでも言え、この雑兵上りめが! 聞こえなかったのか! 今すぐ、このミュラーブルクから全軍撤退しろ! さもなくば、こいつの首が飛ぶぞ!」
イリアが隣で弓を引き絞ろうとするのを、俺は手で制した。
距離が有りすぎる。そして、万が一にも外せない。
俺は、込み上げる怒りを奥歯で噛み殺し、できるだけ冷静な声を張り上げた。
「……分かった。撤退しよう。だが、取引だ」
「取引だと?」
「俺たちは、この城から撤退する。その代わり、エルロー地方は俺がもらい受ける! 今、この場で割譲を認めろ!」
ミュラー伯爵は、一瞬何を言われたか分からないという顔をしたが、やがて歪んだ笑みを浮かべた。
「……ふん、好きにしろ! あんな裏切り者たちの地方なぞ、くれてやるわ! どうなっても良いわ!」
「その言葉、たがえるなよ」
俺は、城壁の上でぐったりとしているシュタイン子爵を見据え、最後の言葉を叩きつけた。
「もし、シュタイン子爵の身に何か一つでもあったら、俺は必ずお前を殺す。地の果てまで追いかけてでも、必ずだ!」
こうして、俺たちグレンフィルト軍は、ミュラーブルクから撤退を開始した。
兵士たちの間に言葉はない。エルロー地方を手に入れたというのに、それは勝利とは到底呼べない、非常に後味の悪いものだった。
撤退の途中、俺は小都市エルローに立ち寄った。
城門で待っていたクララ夫人(エレーナの母)は、俺の後ろに夫の姿がないのを見て、全てを察したようだった。
俺が、ミュラーブルクでの一部始終を報告すると、夫人は気丈にも崩れ落ちそうになる体を侍女に支えさせ、ただ無言で涙を流した。
「申し訳、ございません……。俺の、力が足りず……」
「……いいえ、男爵様。あなたは、この街を救ってくださいました。夫も……きっと、それを望んでいたはずです」
震える声で絞り出す彼女の言葉が、余計に俺の胸を締め付けた。
俺は、エルローの守備兵をイリアの部下に任せると、重い足取りでグレンフィルトへの帰路についた。
グレンフィルトの館では、エレーナが俺の帰りを待っていた。
彼女は、俺の暗い表情と、後ろに父親の姿がないのを見て、その聡明な瞳を不安に揺らした。
「お帰りなさいませ、あなた。……お疲れのご様子ですね。母上は、ご無事でしたか? それで……父上は……?」
俺は、どう切り出すべきか言葉を選べず、ただ、ミュラーブルクで起きたことをありのままに話した。
人質、脅迫、そして、父の「ワシに構わず撃て」という叫び。
エレーナは、最初は気丈に耳を傾けていたが、やがてその両目から大粒の涙がこぼれ落ち、その場にうずくまった。
「すまない……俺が、もっとうまくやれていれば……」
俺が手を差し伸べようとすると、エレーナは首を横に振り、俺の胸に顔をうずめて泣きじゃくった。
「いいえ……! あなたのせいでは、ありません……! 分かっています……でも、父上が……あの卑怯者の手で……!」
俺は、ただ、震える妻の肩を抱きしめることしかできなかった。
その夜、執務室に商人レオが訪れた。
「男爵様。エルロー地方の完全なる割譲、お見事です。これで我が領地の穀倉地帯と税収は、実質、倍になります。文句なしの大勝利ですぞ」
淡々と告げるレオの言葉に、俺は窓の外の闇を見つめたまま答えた。
「……勝利、か」
「……シュタイン子爵の件は、誠に遺憾です。ですが、ご安心を。ミュラー伯爵が子爵を害する可能性は低い。今や、彼に残された唯一の交渉カードですからな」
レオの冷静な分析は正しいのだろう。
だが、あの狂気に満ちた伯爵の目が、俺の脳裏に焼き付いて離れなかった。
「ああ。だが、あの男が正気だという保証がどこにある」
俺は、レオに向き直った。
「レオ、ヴァルゼン公には俺から直々に報告する。それとは別に、ダリオ商会の総力を挙げて、ミュラーブルクの内部の情報を集めろ。借金がいくら増えても構わん。子爵の安否と、伯爵の動向を、一日も早く」
「……承知いたしました」
レオが、いつもより緊張した面持ちで部屋を出ていく。
俺は一人、暗闇の中でミュラーブルクの方角を睨みつけた。
後味の悪い勝利が、俺の腹の底に、妻の涙の熱と共に、冷たい怒りの炎を点火していた。
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