第19話 エルロー地方完全平定
『ヴァルゼン公家歴10年 11月中旬 小都市エルローにて 晴れ』
【エルローの解放者、グレン男爵視点】
エルロー地方の村々を『保護』下に置いた俺たちは、ついに中心都市であるエルローの城門前まで進軍していた。
ミュラー伯爵の兵が立てこもっていれば、ひと騒動になる。俺は、イリア率いる『銀狼傭兵団』を先頭に、いつでも突撃できるよう備えていた。
だが、その緊張は、あっけなく破られた。
俺たちが到着するや否や、エルローの城壁には、いくつもの白旗が掲げられたのだ。
やがて、重い城門が、ギギギ……と、錆び付いた悲鳴のような音を立てて開かれていく。
「……イリア。血の匂いがしないな」
「ああ。どうやら、戦う気は毛頭ないみたいだね。拍子抜けだよ」
冗談抜きで、一滴の血も流れなかった。
開かれた城門から現れたのは、武装した兵士ではなく、一人の気品ある婦人だった。彼女は、数名の侍女だけを連れ、俺たちの前に静かに歩み寄ると、深々と礼をした。
「はじめまして。貴方様が、グレン男爵とお見受けいたします。私は、このエルローの街を預かっております、クララ・フォン・シュタインと申します。……エレーナの母です」
その言葉に、俺は慌てて馬から下りた。
「これは、ご婦人! 俺がグレンです! 妻のエレーナには、いつもお世話になっております。このような形でのご挨拶となり、申し訳ございません」
「いえ、これも乱世の定めというものでしょう。どうか、お気になさらないでください。街を戦火に巻き込まぬご配慮、感謝いたします」
クララ夫人は、毅然とした態度を崩さなかった。さすがはエレーナの母親だ。
俺は、周囲に兵がいないか見回しながら、本題を切り出した。
「それで、ご主人であるシュタイン子爵殿はどちらに? ご挨拶をと」
すると、クララ夫人は、わずかにその表情を曇らせた。
「……夫は、ここにはおりません。数日前、ミュラー伯爵に呼び出され、そのままミュラーブルクに。なにせ、夫はあの伯爵の筆頭側近ですので……」
「そうでしたか……」
厄介なことになった。
シュタイン子爵が、事実上の人質としてミュラーブルクに囚われている可能性がある。
俺は、クララ夫人に、そしてエルローの民に安心してもらうため、はっきりと宣言した。
「ご婦人、ご安心ください。俺たちは、このままミュラーブルクへ向かい、伯爵に『挨拶』をしてから帰る予定です。目的は、このエルロー地方の割譲を、正式に認めさせること。そしてもちろん、子爵のお身柄も」
「……それがよろしいかと思います。ですが、グレン男爵様」
クララ夫人は、俺の目をまっすぐに見つめた。
「どうか、お気をつけて。王家にも見捨てられ、領民にも背かれたミュラー伯爵は、今や追い詰められた獣と同じ。どのような卑劣な手を使ってくるか、分かりません」
「はい、お気遣い、感謝いたします! ――イリア! 全軍、ただちにミュラーブルクへ進軍するぞ!」
「待ってましたっ!」
エルローの民の歓声に見送られ、俺たちグレンフィルト軍は、最後の目的地であるミュラーブルクへ向けて、再び軍を進めた。
二日後、俺たちはミュラーブルクの堅牢な城壁が見える丘の上に陣を張った。
こちらの到着を察知したのか、城壁の上がにわかに騒がしくなる。
やがて、城壁の最上階に、二人の男が出てきた。
俺は、思わず目を細めた。
片方の男は、縄でぐるぐる巻きに縛られている。どことなく、妻のエレーナの面影を感じさせる、憔悴しきった中年男性だった。
(……間違いない。あれが、エレーナの父親、シュタイン子爵か!)
そして、その隣。
もう片方の男は、豪華な服を着崩し、剣を片手に、こちらに向かって何かをわめき散らしている。
顔は怒りと恐怖で歪み、口角からは泡が飛んでいた。
ミュラー伯爵だ。
「動くなぁっ! グレン! この雑兵上りが! それ以上、一歩でも近寄ってみろぉっ!」
ミュラー伯爵は、血走った眼で、おもむろに持っていた剣を、シュタイン子爵の首筋に突きつけた。
「分かっているのか! グレン! お前の妻の父、シュタイン子爵がどうなっても良いのかぁっ!?」
秋の冷たい風が、丘の上を吹き抜ける。
イリアが、隣で「……最低のクズ野郎だ」と吐き捨てた。
俺は、ただ、城壁の上で繰り広げられる狂気の沙汰を、拳を握りしめて見つめることしかできなかった。
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