第1話 功名の一矢、戦を決す
『ヴァルゼン公家歴10年 6月13日 天、にわかに黒雲立ち込める』
【雑兵の青年グレン視点】
陽炎が揺らめき、丘の向こうの景色を歪ませていた。
地平を埋め尽くすのは、敵軍、カレドン侯が率いる大軍勢。天を突くように掲げられた無数の軍旗が、まるで意志を持った森のようにうごめいている。
その数、およそ二万。いくつもの貴族からなる連合軍だ。
対する我らヴァルゼン公軍は、わずか四千。誰の目にも、このヘルデン丘陵の戦いは、ヴァルゼン公の圧倒的な敗北で終わるはずだった。絶望的な兵力差が、兵士たちの顔から血の気を奪っていく。
だが、その渦中にあって、我らが主君だけは不敵な笑みを浮かべていた。
「見ろ。天が我らに味方しておる」
その言葉を合図にしたかのように、空がにわかに曇り、ぽつり、ぽつりと大粒の雨が落ちてきた。ヴァルゼン公の笑みは、恐怖に狂った者のそれではない。確固たる何かを信じきった、預言者のような顔だった。
ほどなくして、泥まみれの斥候が馬を駆って現れた。
「申し上げます! 敵軍、豪雨により進軍を停止! 丘陵手前の窪地にて、隊列が乱れております!」
敵は、我々が立てこもる丘を攻めあぐね、最悪の地形で足を止めたのだ。兵たちの間に、わずかなどよめきが広がる。
俺は固く槍を握りしめ、ごくりと唾を飲み込んだ。足元では、降りしきる雨が地面をぬかるみに変え、鉄の脛当てに泥が重く絡みついてくる。
(なんとか手柄を立てて、キレイな嫁さんをもらうんだ!)
四千の兵は数としては少ない。だが、皆、何かしら野心を持った兵たちだった。
しかしその心の声を、口に出す者はいない。
豪雨の中、仁王立ちする公の背中が、まるで戦神そのもののように見えたからだ。
「行くぞ! 臆した豚どもに、狼の牙というものを教えてやれ!」
腹の底から響くような号令。
ヴァルゼン公は、振り返りもせずに黒い外套を翻し、自ら馬を駆って丘を駆け下りていく。その背を追うように、我らも雄叫びを上げて突撃を開始した。
『ワアアアアアアッ!』
戦場がにわかに騒がしくなった。
俺は泥を跳ね上げ、敵陣の混乱の中心へと突き進む。
敵兵の驚愕に歪んだ顔が、すぐそこに見えた。
狙うはただ一つ。敵の大将、カレドン侯が掲げる黄金の竜を染め抜いた旗印。
本陣はまだ遠い。だが、この奇襲で敵の指揮系統は麻痺している。
(もう少しだ……もう少しで、敵将の顔が見える!)
俺は、この戦で手柄を立てて成り上がるため、ただそれだけのために、この無謀な戦に参加したのだ。
思考よりも早く、体が動いていた。俺は背負っていた長槍を泥濘に突き立てて捨てると、代わりに古びた弓を掴んだ。
遠くに、敵将と思しき金色の鎧が見えた。
矢を番え、雨に濡れる弦を強く引き絞る。
息を殺し、乱れる呼吸を無理やり整えた。
(風は……南西から。強い。距離、およそ四百。届くか……いや、無茶だ)
常識が、不可能だと告げている。
それでも、俺の指は勝手に弦を離れた。まるで、見えざる何かに導かれたかのように。
空気を切り裂き、矢が唸りを上げる。
矢羽が雨滴を弾き、まるで白い光の尾を引いているかのように見えた。
次の瞬間――
遥か前方の敵本陣から、天を突くような悲鳴が上がった。
土煙と水しぶきの中で、あの黄金の竜旗が、ゆっくりと傾いでいく。
だが、まだだ! 矢は確かに届いたが、致命傷には至っていないかもしれぬ!
俺は弓を放り投げると、突き立てていた槍を手に取り、再び敵陣へと突撃した。
「うおおおおぉぉッ!」
恐怖は消え、ただ功名心だけが俺を突き動かす。
混乱する敵兵を突き飛ばし、肩で弾き、ただひたすらに前へ。
見えた。馬上で肩から矢を突き立てられ、苦悶に顔を歪める男。豪華な金の鎧、間違いない、敵将カレドン侯だ。
俺は獣のように跳躍し、槍を奴の鎧と鎧の隙間――首筋めがけて突き出した。
「ぐ……ぁっ!?」
肉を貫く鈍い感触。槍の柄を通して、奴の命が消えていくのが分かった。
だが、これだけでは足りない。この手柄を、誰にも奪わせはしない。
俺は落馬したカレドン侯に馬乗りになると、腰のダガーを抜き放ち、ためらうことなくその首を掻き切った。
返り血で顔を濡らしながら、俺はその首を高く掲げる。
「敵将! カレドン侯! 俺が討ち取ったぞ――ッ!」
俺の絶叫は、奇跡的に戦場に響き渡った。
その声を聞いた敵兵が、味方が、そしてヴァルゼン公が、一斉に俺を見た。
戦は、終わった。
大将を失ったカレドン軍は、赤子の手をひねるように崩れていった。
戦後、ヴァルゼン公の前で首実検が行われた。
俺は泥の上に膝をつき、震える体で頭を垂れていた。
「見事な首だ。だが、この奇襲の中、貴様一人の手柄と言い切れるか?」
公の側近が、疑いの目を向ける。
その時、別の兵士が一本の矢を恭しく差し出した。
「公、これをご覧ください。カレドン侯の肩に、深く突き刺さっておりました」
ヴァルゼン公は、その矢を手に取ると、怪訝な顔をした。
矢尻のすぐ近く、矢軸の部分に、何やら奇妙な印が彫られていたからだ。それは、暇つぶしに俺が彫った、誰にも読めない、俺だけの落書きだった。
公は、矢と俺の顔を交互に見比べると、狂気的だったあの笑みを、今度は歓喜に満ちたものへと変えた。
「――見事なり! 雑兵! 貴様の名は何と申す! 取り立ててやろう!」
心臓が跳ね上がるのを感じながら、俺は必死に声を絞り出した。
「グ、グレンと申します!」
(これが、始まりだった)
俺の人生が、大きく動き出した瞬間。
後に歴史家たちによって『ヘルデンの奇跡』と呼ばれることになる戦いは、名も無き一兵卒が放った、ただ一筋の矢から始まったのだ。
「とても面白い」★四つか五つを押してね!
「普通かなぁ?」★三つを押してね!
「あまりかな?」★一つか二つを押してね!