人は世界の全てから影響を受けている
ストーリー原案:杉ノ香
執筆:竹月あゆ
9/8 わかりにくい箇所を複数修正いたしました
この物語はフィクションであり、実在の国、人物、団体とは一切関係ありません
タイムマシン6か条
一、操縦者が本来いる時空よりも未来に行ってはならない
一、服装と言葉遣いは過去と同じものにせよ
一、過去に未来の進化した動植物を持ち込んではならない
一、過去人含む全ての動植物を現在に持ち込んではならない
一、過去人と研究目的以外で交流してはならない
一、時空警察を除き、現在を変えようと過去に干渉してはならない
(国際時空法を一部抜粋)
タイムマシンが発明され、時空移動が可能となって早100年。タイムマシンの使用により、度重なる歴史改変が行われた。未来人で構成される時空警察が国連に国際時空法を制定させたことが今ではもう懐かしい。アメリカの外交官メリル・コリンズは新聞を自宅アパートの卓上スクリーンで読んでいた。新聞の大きな一面には、『国際時空法〜タイムマシンの制約〜』が書かれてある。
メリルの恋人――ターシャ・スミルノフがメリルの前に朝食のソイミートドッグを置き、卓上スクリーンの電源をぱちんと切った。
「ああ!良いところだったのに!」
「新聞は後からでも読めるでしょう?夢中になるのはいいけれど、はやく食べましょうね」
ターシャはメリルにそう言うと、目を閉じて神に祈りを捧げ始めた。
メリルはむぅと口を尖らせたが、ターシャと同じように祈った。
「恵み深い父なる神様、今日も新しい日を迎えられましたことを感謝します。御心に叶う働きができますようにお導きください。恵みに感謝して、この食事をいただきます。主イエスキリストの御名によって祈ります。アーメン」
メリルとターシャは配給品のソイミートをはさんだホットドッグに齧り付いた。大豆の味を誤魔化すために入れられたハーブが口の中で香る。
「今日からスイスだったかしら?」
「うん。お土産は何が良い?」
「それ何回聞いているの?ずっといらないって言ってるわよ」
ふふふとターシャは小さく笑った。
「いつか行ってみたいわ。きっと素敵な国なのでしょうね」
「マッターホルンとか、ベルンの旧市街とか、スイスは永世中立国だからきれいな景観が残ってるね。ターシャも絶対気にいるよ。でも、今回は観光には行けなさそうかな」
3年前から始まった我が国アメリカ合衆国とロシア連邦、その他大勢の属国を巻き込んだ戦争は膠着状態になっている。メリルはアメリカの外交官として、スイスへ行って、ロシアと終戦に向けて協議する予定だ。
「早く旅行に行きたいわ。この3年間、アメリカから出させてもらえていないもの」
ターシャはロシア系移民だ。彼女の両親はロシア人で、彼女は幼い頃にアメリカへ渡り、帰化した。そのため、アメリカ=ロシア戦争が始まって以来、彼女は監視対象としてアメリカから外に行けていない。
「私も仕事じゃなくてターシャと行きたいな」
メリルはターシャとスイスに行けたらどんなに楽しいだろうと残念に思った。
「でもまだメリルと一緒にいれるだけましかしら?」
隣人の母親はロシア人という理由で旦那と別れさせられたらしいとターシャは言った。
「それはひどいね。でも、ロシア人だからってこの街を出られないのはやっぱりおかしいよ」
メリルはしかめ面をした。
ロシア系移民とロシア系アメリカ人は住む場所を指定された。もれなくターシャは高校卒業からすぐに就いた仕事を解雇され、田舎町の小さなアパートに移ることを余儀なくされた。政府はロシア人をアーカンソー州のジェローム近郊のロシアタウンと新しく名付けられた街に詰め込んだ。当時既に付き合っていたメリルはターシャを追いかけ、ロシアタウンに引っ越した。もちろん、上司の外務省長官や同僚達からは難色を示されたが、メリルは頑なに恋人と別れることを拒み、挙句の果てにはターシャと一緒でなければ外交官を辞めると宣言した。そこで上司が折れて、ようやくメリルはロシアタウンから外務省への出勤を許された。
ターシャは食べ終わると、メリルの横に座り、こてんとメリルにもたれかかった。いつになく真剣な声でターシャは言った。
「ねえ、私で本当に良かったの?何も持たない私で」
「私がターシャじゃないとだめなの。一緒じゃないと死んじゃうもん」
「本当?」
「逆に、ターシャは私で良かったの?」
「私もメリルが良い。メリルじゃないとイヤ……」
ターシャはぽろぽろと涙をこぼした。メリルはターシャを抱きしめた。
「メリル、スイスで死なないよね?危なくないよね?」
彼女は、不安そうな声をしていた。メリルだって安全かどうかはわからない。交渉相手国はロシアだ。銃撃されるかもしれないし、毒で殺されるかもしれない。
「死なないよ。危なくないよ」
きっと、ターシャはメリルの言葉を心の底から信じてはくれないだろう。しかしメリルは目の前の愛おしい恋人をなんとか安心させたかった。それよりも、ロシア人が多く住んでいるからと、推測できる理由で3年間爆撃を受けていなかったこの田舎町の上空に飛行機やらドローンやらが飛んでいるのが気になるところだ。おそらく、外交官のメリルを威嚇するためのものだろう。メリルさえいなくなれば大丈夫なはずだ。
ターシャが泣き止んだ後、メリルはスーツを着た。鏡でカールのかかった金髪ボブをセットし、メイクをする。鏡の前には戦争が始まる前に遊びに行った夢のテーマパークでの写真が並べられている。写真の中の彼女はいつも、憂いを帯びた微笑みをしている。いつか彼女の思いっきり笑った顔を見てみたいものだ。
着替え終わると、ターシャがまじまじとメリルのパンツスタイルを見ていることに気がついた。
「好きだよね、こういうの」
メリルがそう言うと、ターシャはかっと赤くなった。
「ちょっと、やめてよ!確かに似合ってるけれど!」
メリルはケラケラ笑ってターシャの長い黒髪を撫で、キスを落とした。ターシャの髪はさらさらのつやつやで、いつまでも触っていたいとメリルは思う。
「そういえばいつ帰って来るの?」
メリルは首を捻った。どれだけ日数がかかるかわからないのだ。前から協議会を行ってきてはいたが、あまり成果を得られなかった。しかし、今回はいつもとは違い、我が国のハワード大統領もスイスに赴く。ロシアのソコロフ大統領までもやってきて、スイスの仲介を得て、互いに自国の要求をすり合わせるのだ。それに伴い、外交官たちはスパイ行為防止のために途中で帰国することを禁止された。
もうどちらも戦争を継続できるほどの国力が残っていないのである。大国同士がぶつかり合って、共倒れにならないように今回で決着をつけるようだ。しかし、このことは機密事項なため、あまり声を大にしていえないのだ。メリルが言い淀んでいると、ターシャは、もう大丈夫だよとそれ以上の返答は求めなくなった。ターシャは思慮深い女性だ。メリルの言いにくいことには突っ込んでこない。彼女のためにできるだけ早く戦争を終わらせなければ。
ピロンとメリルのスマホが鳴った。もうすぐ近くのジェローム空間移動港までの送迎の車がアパートに着くらしい。メリルはスーツケースを持ち、玄関へと向かった。
メリルは玄関前でターシャに口付けた。
「いってきます」
「いってらっしゃい。頑張ってね」
ターシャは憂いを帯びた笑みを浮かべていた。
ロシアタウンから外に出ると、爆撃を受けたのであろう街がある。枯葉剤をまかれ、葉っぱが枯れて木肌が変色している森林もある。子供の頃に起こった戦争を含めると両手で数えるだけじゃ足りない。しかし、さすが2大国というべきか。ここまで激化した戦争は見たことがない。荒れた土地に立っていた若い母親とその小さな痩せた子供がメリルの乗った車をじっと見ていた。メリルはジェローム空間移動港に着くと、チェックインをしてテレポートチケットを受け取った。今は軍事のみに利用される飛行機が、移動手段として使われていた時のシステムを流用しているらしい。メリルは空間移動機で直接スイスのジュネーヴに移動する手筈だ。
メリルは空間移動機に搭乗した。空間移動機は、ほんの10分ほど揺られていれば世界中のどこでも行けるすぐれものだ。ホテル産業の衰退が危惧されたが、レジャー施設などに形を変え、意外と生き残っている。空間移動機は亜空間の中の専用に整備された道である時空航路を通っていく。窓の外を見ると、ぐにゃぐにゃした不思議な白い空間が広がっていた。空間移動機は自動運転に対応しており、実は行こうと思えば過去にも未来にも行けるらしい。もともとタイムマシンとして開発していたものが、世界中への移動手段として応用されたそうだ。メリルは過去に一度大学の国際政治学の研究のために行ったことがある。タイムマシン6か条を厳密に守りながらも、当時の世界情勢などの研究資料を得ることができたが、それよりもかなり時空酔いが激しかったことをよく覚えている。
メリルがジュネーヴに到着すると、既に上司のリアム・T・ターナーがジュネーヴ空間移動港にいた。
「来たな。コリンズ」
「お疲れ様です。ターナー長官」
ターナーは後ろに撫でつけられた髪を撫でた。
「コリンズ以外はだれもここに到着していないから、まだもう少し待ってくれ。全員が空間移動港に着いたら迎賓館に移動するぞ」
「承知いたしました」
「最近、ロシアタウンのロシア人がスパイ活動をしているという噂が流れているようだ。あんまり怪しまれることはやめてくれよな」
「……承知いたしました」
メリルはターナーの言葉に不服そうな顔をした。ターシャとの連絡を制限されるのはかなり辛い。ターシャと電話で話したり、メールをしたりするのが今のメリルの一番の楽しみなのに。
「そんな顔をするなって。すぐにまた会えるさ」
「それとこれとは話が違います」
「コリンズならやればできる子だと信じているぞ」
「私は本当は毎日家に帰りたいのですが」
「そうか?俺は嫁の目から逃れられてハッピーなんだが」
「ターナー長官とは違うので」
「でも連絡は1日1回までに絞ってくれよな」
メリルは毎日ターシャに電話をしようと決意した。
外交官全員が空間移動港に集まった後、1時間ほど車に乗ってジュネーヴ迎賓館に到着した。メリルはすぐに明日の会談に使う書類の最終チェックなどの仕事に取り掛かった。夜になってご飯やお風呂などを済ました後、ターシャの声を聞きながら寝落ちした。
次の日の昼頃、アメリカのジェームズ・ハワード大統領と外務大臣がジュネーヴ国際空間移動港に着いた。さらにロシアの大統領イリーナ・ソコロフも到着した。ハワード大統領とソコロフ大統領はどちらもスイスのマーティン大統領と熱い抱擁をかわし、マーティン大統領の案内で両国の大統領は米露会談の会場であるジュネーヴ迎賓館についた。
やがて、米露瑞首脳会談が始まった。
語学堪能なメリルは通訳としてハワード大統領の背後についた。ターナーも大統領の補佐としてメリルと共にいた。敵国首脳同士の対談ということでたくさんの記者達がやってきており、シャッターのフラッシュが眩しい。大統領達はさっき同じ空間移動港にいたにも関わらず、記者向けに再度挨拶を始めた。
アメリカのハワード大統領とロシアのソコロフ大統領が固い握手を交わす。
「ミスター・マーティン、お招きいただきありがとうございます。そしてミスター・ハワード、お会いできて嬉しいです」
「はじめまして、ミセス・ソコロフ。私もです」
ハワード大統領もソコロフ大統領も目を細めずににこにこしているのだから、さすがプロだなあとメリルは思った。
両者とも終戦に向けての高い意欲を示し、質問し合っていた。途中、ハワード大統領が冗談を言う事があり、メリルは寒気をしながらもそれを伝えたが、露瑞両国の大統領は微笑んでくれて、和やかな雰囲気になった。自国民向けに公開された会談はメリルが思っていたよりも平和に終わった。
その数日後の夜、会食形式で大統領たちは自国の権益や賠償金などについてすり合わせることになった。米露瑞の首脳たちと各国の外交官たちが杯を交えながら話をする。おそらく、ここでさすがに毒が仕掛けられることはないだろう。自ら盛ったことを主張しているようなものだ。
食事には、小麦、牛肉、土から育てた野菜、ぶどうの使われたワインなど、何十年も前から手に入れられなくなっていた高級食材が使われていた。
そうそう食べられるわけではない料理にありつきながら、メリルはむさくるしいおっさんたちよりもターシャと食べたいものだと思った。
大したトラブルもなく会食が進み、グラスの中のお酒も減ってきた。米露の大統領達も楽しそうに歓談している。場が盛り上がってきた頃、急にソコロフ大統領がメリルにロシア語で話しかけてきた。
『ところでミセス・コリンズ。貴方にはロシア人の恋人がいらっしゃるだとか』
メリルの血の気がすっと引いた。メリルの弱みはすでに握っていると言いたいのだろうか。メリルは内心警戒しながら顔に笑顔を貼り付けた。
『ええ、いますね』
『だからロシア語がお上手なのですね。言語を上達させるにはその国の恋人を作れば良いと聞きますから』
『お褒めいただき光栄でございます。もっと精進して参ります』
ロシア人の特性上初対面の人には笑わないのだがソコロフ大統領は微笑んできた。しかし目が笑っておらず、圧がとても強い。きっと聞きたいことはそれだけではないのだろう。メリルは話しかけてきた中年の女への警戒レベルをぐっと上げた。
『なぜ、敵国の恋人と別れずに付き合い続けているのです?』
メリルは眉をひそめた。どうやら爆弾を落とされたようだ。いまや、米瑞の大統領までもがメリル達の会話に聞き入ろうとしている。
『……確かに、貴国の軍は我が国の軍は争っていますが、私の恋人は直接的な関係はありません』
『では、もしも彼女がスパイでしたら?』
『私を狙う意味がございません。公私はしっかり分けております』
『あら。それは本当ですか?』
メリルはソコロフ大統領を見据えた。この女は何を考えている?自身のことを見透かそうとする女に腹が立った。
『敵国の恋人がいる外交官は、確かに恋人と別れるでしょう。しかし、彼女がスパイだったとしても、私は彼女と添い遂げたいと思うでしょう。私は彼女のいない人生なんて到底考えられません。それほどまでに彼女は魅力的です。そのため、私は恋人と一緒にいるという選択をしました』
メリルは毅然とした態度で言い切った。
『ただそれだけのことです』
すると、ソコロフ大統領は声をあげて笑った。
『あらまあ!素晴らしい!そんなに恋人に惚れていらっしゃるのですか。羨ましいわ』
ソコロフ大統領がお茶目にウインクをした。大統領はメリルににこにこと笑いかけている。ターシャだって初めて会った時はつゆほども笑わなかったのに。メリルはかなりドン引きした。
その次の日、メリルの仕事が終わった頃、メリルはターナーから午後3時にロシアタウンが銃撃を受けたことを知らされた。ターナーが空間移動港にいた時に言っていた、あの噂を信じたアメリカ人によってロシア系移民の10人が殺され、20人近くが怪我をした。爆弾や火炎瓶も使用され、建物が破壊されているらしい。殺害を免れた人々は地下に避難していると聞くが、ターシャは無事なのだろうか。メリルはとにかくターシャのことが気がかりだった。十中八九、ロシアタウンにはスパイはいるだろう。しかし、メリルが見ていた限りではスパイではないであろう人々が大半である。差別を煽るようなテレビ番組や演説は戦争においては敵国への憎しみを増長させるため、確かに有効である。だがメリルにとって、それは忌み嫌うものであった。
終戦へ話がまとまっている中、ロシア側にこの事件の情報が渡ったらかなりまずいということで、メリルはターシャとのやり取りを禁止された。メリルは帰らせてくれとターナーに詰め寄った。
「コリンズ、確かに君は仕事ができるから、ロシア系移民のターシャとの同棲を特別許された。だが今回ばかりは話が違う」
「でもほんの半日ほどで戻ってこれます!」
ターナーは国に帰らせてくれと半狂乱になりながらわめく若き外交官を諌めた。
「すまない。君の恋人が心配なのはわかるが、お前が今ここで一時帰国するとロシア側に勘ぐられてこのことがバレてしまうかもしれない。そうなったら戦争が続いてしまう。お願いだ。耐えてくれ」
メリルはひやひやしながら帰国の日を待ち望んだ。
メリルはなぜかソコロフ大統領に気に入られ、事あるごとに意見を求められた。ロシア人の恋人がいるため気に入られていると見られ、ロシアに有利なことを言うかもしれないと思われることもあったが、メリルは必ずアメリカ側の権益を守るような発言をした。ソコロフ大統領は満足そうに頷いた。
『貴方が我が国の外交官であったら良かったのに』
たまにそう言われ、何か良いように使われているような気がして、メリルは鳥肌が立つのであった。
終戦協定が締結されたのはそこから1週間後のことだった。
世界的な大ニュースを伝える記者達の前でハワード大統領とソコロフ大統領が抱擁をかわした。
「今回はありがとうございました。ミセス・ソコロフ」
「ええ。有意義な時間でしたわ」
アメリカとロシアの大統領が文書にそれぞれサインし、戦争が終結した。
メリルたちはすぐにホワイトハウスに直結している空間移動港に向かった。
賠償金を得られなかったからか、国民からの期待に答えられず、ハワード大統領はかわいそうに会見で集中砲火を浴びた。メリルは会見が終わると、ロシアタウンにとんで帰った。
メリルは愕然とした。爆弾をなげられ、焼けたアパートが目の前にあった。崩れていて危ないとはわかっていても、住んでいた部屋にあがる。
「……ターシャ?」
部屋には誰もいなかった。壁が破壊され、窓ガラスが割れ、ターシャとの思い出の写真は床に落ちている。ターシャはどこかに避難しているのだろうか。
メリルが玄関口でドアを開けたまま呆然としていると、隣の部屋から見知らぬ老婆が出てきた。荷物整理をしていたようだ。
「あんた、ここに住んでたターシャ・スミルノフの姉妹かい?」
それにしては似てないねえと、老婆はメリルの顔をじろじろと見た。メリルが恋人だと言うと、納得したようだった。老婆は隣人の母らしい。ちょうど3週間前にロシアタウンとは違うロシア人街にある家が爆撃を受け、息子の家に身を寄せていたそうだ。ちょうどメリルと入れ違いになっている。どうりで見覚えが無いわけだ。
「スミルノフはもういないよ」
「では、どこに?」
今すぐにでもターシャに会いたい。会って、抱きしめたい。
「まさか、知らないのかい?あたしは25番地にある教会に埋められたって聞いたよ。若いのに、かわいそうに……。あの子は1週間前の銃撃で死んじまったんだよ」
メリルは目を見開き、老婆の情報提供に礼も言わずアパートを飛び出した。
その後、どのようにして教会のターシャの墓に行ったのか覚えていない。
――ターシャ・スミルノフここに眠る
「ターシャ!」
メリルはターシャの墓に抱きついて慟哭した。動機と吐き気がして気持ち悪い。どうして、メリルは愛する人ではなく、ターシャを殺したアメリカ国民の平和を取り戻したのだろうか。彼女は戦争によって誘発された暴力によって殺された。これでは戦死と一緒じゃないか。戦争があったから、ロシア人を敵だとアメリカ人はみなしたのだ。戦争があったから、ターシャが死んだのだ。ターシャはスパイとは無関係だったのに。ターシャは優しい人だった。美しい人だった。ターシャの死に直接関与した人も、戦争も、対立を煽った政治家も、絶対に許すことができない。メリルは生まれて初めてすべてを憎んだ。
メリルは、過去に行って、戦争を起こした愚鈍な支配者たち、独裁者たちの祖先を皆殺しにすることにした。大学の国際政治学の研究で過去に行く際、口酸っぱく言われていた言葉を思い出す。
――現在を変えようと過去に干渉してはならない
メリル・コリンズは、国際時空法で一番重罪とされる、タイムマシンを使って現在の改変をすることを決意をした。時空警察に逮捕されるのは目に見えているが、そんなもの知ったこっちゃない。ターシャの死を取り消さなければ。メリルは空間移動港に向かい、こっそりと誰も乗っていない空間移動機をジャックした。戦争を起こした支配者たち、独裁者たちの祖先を子供のときに暗殺しようとも考えたが、大体のぼんぼんはみんなSPに守られている。きっとメリルのほうが返り討ちに合うだろう。しかし、彼らの祖父母たちはどうだろうか。24時間守られている人はごく少数だろうし、武器だって火力が断然違う。生まれてこないようにしてしまえばメリルの勝ちである。やつらさえ生まれなければ、戦争は起こらず、ターシャも死ななかったのだ。メリルは空間移動機もとい、タイムマシンの操縦桿をぎゅっと握り直した。ぐにゃぐにゃとした時空公道は非常に通りにくい。すぐに時空酔いに負けそうになる。それでもやがて、過去にたどり着く。やつらの系譜はすでに調べた。ターゲットはすべてリストアップしてある。祖父母のうちどちらか簡単な方を殺せばいい。メリルは拳銃の引き金を引いた。女子供もいたが、みんな殺した。メリルの気がすむまで殺した。絶対に諸悪の根源が生まれてこないように。メリルの手が真っ赤に染まる。未来で、かつて平和をもたらした外交官は歴史に牙をむいた。
メリルは一通りターゲットを殺し終えると、タイムマシンに乗って自身が元いた時空に戻った。きっと、ターシャは生きているはずだ。はやる気持ちを抑えながら、メリルは自分のアパートに向かった。銃撃によって破壊されていない。メリルがスイスに向かう前の外観そのものだ。
すると、アパートのホールから黒髪の女性が出てきた。
「ターシャ!」
メリルはターシャに駆け寄った。彼女が無事に生きている。それだけで涙が出るほど嬉しい。
「あれ?メリルちゃん?」
ターシャの黒髪は短くなっており、戦争がなくなったからか、肉付きがよくなっている。
「メリルちゃん、久しぶりね!大学ぶりじゃない?元気にしていたの?」
「え?」
メリルは銃で撃たれたかのような衝撃を受けた。ターシャは大学には行っていなかったはずなのに。彼女は不思議なことに、メリルとは同棲していないかのように振る舞った。ターシャとは仕事で外国に行ったとき以外は毎日顔をあわせていたのに。
「メリルちゃん?大丈夫?さっきから固まっているけど」
「ああ、ごめんね。かんがえごとをしていただけ……だいじょうぶだよ」
メリルはぎこちなく微笑んだ。
「そう?なら良いんだけど……ねえ、今ひま?お茶しに行かない?」
「わたしはいけるけど、ターシャはどこかにいくよていがあったんじゃ……?」
「私買い物に行こうとしてただけだから大丈夫よ!ねえ、ここらで新しいカフェがオープンしたの。さ、行きましょ」
おしゃれなカフェに着くと、ターシャは紅茶とショートケーキを、メリルはブラックコーヒーとパンケーキを注文した。遺伝子組み換え作物を使用しているわけではないのにとても安い。ターシャはケーキを頬張りながらメリルの知らない思い出話に花を咲かせた。メリルはただ相槌を打つことしかできなかった。彼女は誰だ?メリルはそう思った。過去に干渉したら、現在はこんなにまでも変化するものなのか。
ターシャは1つ思い出したように言った。
「ああそうだ!私結婚したの!」
職場結婚をしたという彼女の左手の薬指に指輪がはまっている。見ないふりをしていた現実を突きつけられた。そこでメリルの心はぽきりと折れた。ターシャはとても幸せそうだ。メリルなんかといたときよりも。ずっと。
「おめでとう」
ありがとうと照れくさそうに笑ったターシャの周りでぱっとひまわりの花が開いたかのように思えた。 ああ、違う。この子は私のターシャじゃない。ターシャは憂いを帯びた微笑みをしていた。こんなに朗らかに笑ったことはない。ターシャと同じ顔、同じ声。なのに、仕草が、性格が、ぜんぜん違う。子供のころから続いた戦争もまた、ターシャの人格を形作っていた一部だったのだ。メリルは、ターシャは死んでもう二度と生き返らないことを悟った。
「あ〜今日は楽しかった!ありがと、メリルちゃん!」
「ううん。こちらこそ。ありがとう」
メリルは、メリルはターシャに別れを告げ、アパートを後にした。メリルの足は自然と25番地の教会に向かっていた。15時の鐘が鳴る。ちょうど、この町で銃撃が始まった時間。メリルはターシャの墓があったところにへたりこんだ。
時空警察の若き警部イリーナ・ソコロフはコリンズ外交官の取り調べの報告書を空中スクリーンで読んでいた。
取り調べに対し、戦争が起こらないようにしたかったと彼女は供述した。確かに、歴史改変後では、暗殺された人たちの中にはたまたま有力な数カ国の首脳達もいたため、世界が混乱し、実権がたまたま穏健派に渡って戦争は起きなかったようだ。
タイムマシンが開発され、時空移動が可能になって早200年。過去人のタイムマシンの使用により、度重なる歴史改変が行われたため、時空警察が国際時空法の制定を要求したことが今ではもう懐かしい。時空警察は未来と過去を行き来し、時を超えた犯罪者たちを取り締まる。その役割を全うするため、改変された歴史の影響をすぐに受けることは少ない人が選ばれている。改変から少し経っただけの今は、元の記憶は残っているのに、改変後の世界での新しい記憶が頭の中で並列して気持ち悪い。イリーナが時空警察になってから何回かあったため、慣れてはいるものの、できれば早く元の記憶には消えてもらいたいものだ。生きづらいことこの上ない。そういえば、改変者は元いた時空に戻っても、過去の記憶が変わることはないそうだ。歴史を変えた報いだと思う一方、かわいそうだなと同情してしまう。世界では、コリンズ外交官に殺害された人々の血を引く国民たちは消え、他の人の記憶からもなくなってしまった。逆に、2XXX年からの30年で起こった戦争の総称である、第四次世界大戦が勃発しなかったことにより、戦争で亡くなるはずだった国民たちの子孫であろう人が多数現れた。いや、元から存在していたことになったと言った方が正確だろう。朝起きると、日本国首相が突然全く知らない人になっていたのには驚いた。なんでも、日本は政治家の家系の者が国会議員に当選しやすいらしい。改変前の首相はただの一議員になっていた。
もともとの歴史では、メリル・コリンズは第四次世界大戦の終結に尽力し、みごと平和をもたらした偉大な外交官であった。そんなコリンズ外交官がこのように無差別に殺人を行った理由は、本当に戦争を止めるためだったのだろうか?首相暗殺は納得できるが、まだ一般人殺害と戦争防止の関連性が見えない。他に目的はないのだろうか?未だにコリンズ外交官は口を割らない。
数千万人の命を取りこぼしながら数千人の命を繋いだ英雄と数千人の命と引き換えに数千万人の命を救った犯罪者。数字だけ見れば、犯罪者のほうが英雄のようだとイリーナは少し思ったが、その考えは甘いような気がする。救った人数が多ければ多いほど良いと思ってしまうが、それは本当に良いと言って良いのだろうか。歴史改変前までのイリーナはそれでも良いと断言できるほど過激な思想の持ち主だったという記憶がある。人は世界の全てから影響を受けているようだ。今のイリーナにはその選択が正しいとはあまり考えられなかった。3年ほど前だろうか、第四次世界大戦を止めるためにはどんな手段を講じても構わないと思っていたイリーナは空間移動機に乗ったのだったか……。しかしそこから歴史改変前の記憶がない。きっと時間が少し経ったために改変前の記憶が曖昧になってきているのだろう。
昔も今も、イリーナにとって戦争はいただけない。第四次世界大戦という存在がなくなった地球はかなり暮らしやすい惑星になった。戦争によって刷り込まれた差別もなければ、荒廃した土地もない。しかし、彼女が取った行動は本当に正しかったのだろうか。戦争を止めるのに他に別の方法はなかったのだろうか。(もちろん、外交的にであったとしても、戦争を未然に防いでいたならば我々は黙っちゃいなかっただろうが……)
コリンズ外交官の裁判が、明日始まる。
イリーナは報告書にサインした。