魔力ゼロと判定され、辺境の修道院に捨てられた公爵令嬢ですが、どうやら私、『聖獣の声』が聞こえるみたいです
イリアナ・フォン・エルフィールドは、物心ついた時から「出来損ない」だった。
このエルフィールド公爵家、ひいては王国全体において、人の価値はほぼ「魔力量」によって決まる。
魔力量が多く、強力な魔法を使える者ほど尊ばれ、逆に魔力を持たない者は、たとえ貴族であっても存在価値がないかのように扱われる。
そしてイリアナは、十歳の魔力測定の儀で、無慈悲にも「魔力ゼロ」と判定されたのだ。
公爵家の恥。
父である公爵からは存在を無視され、母である公爵夫人からは冷たい視線を向けられ、優秀な魔力を持つ兄と妹からは事あるごとに嘲笑され、蔑まれた。
決められていたはずの侯爵家嫡男との婚約も、測定結果が出た途端に白紙に戻された。理由は明確に告げられなかったが、「魔力ゼロの令嬢など、家の格を下げるだけだ」と誰もが噂していた。
屋敷の使用人たちでさえ、彼女を侮り、まともに世話をしようともしない。
イリアナの世界は、生まれた瞬間から色褪せていた。
それでも、彼女は耐えた。
書庫の片隅で古い本を読むことだけが、彼女の唯一の慰めだった。
物語の中に登場する、魔法ではない別の力――精霊の囁きや、動物との絆、清らかな祈りの力――に、彼女は密かな憧れを抱いていた。
魔力がなくても、何か自分にできることがあるのではないか。
そんな淡い希望を、心の奥底で捨てきれずにいたのだ。
しかし、彼女が十六歳になった年、そのささやかな希望すら打ち砕かれる出来事が起こる。
「イリアナ、お前には辺境の聖リリアンヌ修道院へ入ってもらうことになった」
父である公爵が、何の感情も込めずにそう告げたのだ。
聖リリアンヌ修道院。
それは、王都から馬車で何日もかかる、帝国の最辺境にある古い修道院だ。
厳しい戒律と、質素な暮らしで知られ、貴族の娘が行くような場所では到底ない。
事実上、それは厄介払いであり、公爵家からの完全な追放宣告だった。
「……なぜ、ですの?」
かろうじて、イリアナは尋ねた。
「お前のような魔力なしを、これ以上家に置いておくわけにはいかん。修道院で静かに神に仕え、家の恥とならぬよう、生涯を終えるがいい」
父の言葉は、氷のように冷たかった。
母も、兄も、妹も、誰一人として彼女を庇う者はいない。
むしろ、厄介者がいなくなると安堵しているような表情すら浮かべていた。
(ああ、やはり……わたくしには、どこにも居場所がないのね……)
イリアナは、涙を堪えるので精一杯だった。
最低限の荷物だけを持たされ、ほとんど追い立てられるようにして、彼女は生まれ育った屋敷を後にした。
長い馬車の旅の間、彼女はずっと、窓の外の流れる景色を、虚ろな目で見つめていた。
***
聖リリアンヌ修道院は、噂通り、古く、質素な建物だった。
高い石壁に囲まれ、周囲には険しい山々と深い森が広がっているだけ。
修道女たちの暮らしも、祈りと労働を中心とした、厳しく単調なものだった。
新しく入ったイリアナに対しても、彼女たちは特に親切でも不親切でもなく、ただ淡々と、修道院の一員として受け入れた。
貴族令嬢としての特別扱いは一切なく、他の修道女たちと同じように、早朝からの祈り、掃除、洗濯、畑仕事、そして質素な食事という日々が始まった。
最初は、慣れない肉体労働と厳しい規律に戸惑い、辛いと感じることもあった。
しかし、不思議なことに、イリアナの心は、王都の華やかな屋敷にいた頃よりも、ずっと穏やかだった。
誰も彼女の魔力の有無を気にしない。
誰も彼女を嘲笑ったり、無視したりしない。
ただ、一人の人間として、そこにいることを許されている。
それだけで、イリアナにとっては十分すぎるほどだった。
そして、修道院での生活が数ヶ月経った頃、イリアナは自分の中に奇妙な変化が起こっていることに気づき始めた。
最初は、気のせいだと思っていた。
庭で草むしりをしていると、小鳥たちがすぐそばまでやってきて、何かを囁くように鳴いている気がする。
森へ薪拾いに行った時には、迷子になった子鹿が、まるで助けを求めるかのように、彼女の足元にすり寄ってきた。
そして、ある時から、それは気のせいではなくなった。
(……『木の実、あげる』……?)
肩に止まった小鳥の声が、言葉として頭の中に響いてきたのだ。
最初は驚き、混乱したが、それは一度だけではなかった。
修道院で飼われている老犬の「背中が痒い」という心の声。
森の奥から聞こえる、狼たちの遠吠えに混じる「縄張りを守れ」という意志。
動物たちの感情や、単純な言葉が、断片的にイリアナの中に流れ込んでくるようになったのだ。
(これは……一体……?)
魔力ではない。
こんな力、聞いたことがない。
イリアナは戸惑いながらも、この不思議な能力を誰にも話さず、密かに動物たちとの交流を深めていった。
彼らの声に耳を傾け、彼らの求めるものを与える。
それは、これまで誰からも必要とされなかったイリアナにとって、初めて感じる喜びであり、生きがいとなりつつあった。
そんなある嵐の夜。
修道院の古い礼拝堂で一人祈りを捧げていたイリアナの耳に、森の奥深くから、苦しげな、そして助けを求めるような声が響いてきた。
それは、普通の動物の声ではなかった。
もっと清らかで、神聖で、そして切実な響き。
(……行かなければ)
イリアナは、強い衝動に突き動かされるように、嵐の中、一人修道院を抜け出し、声のする方へと向かった。
道なき道を進み、深い森の奥へ。
やがて、小さな泉のある、神秘的な雰囲気の場所にたどり着いた。
そして、彼女はそれを見つけた。
泉のほとりに、一頭の美しい生き物が倒れていたのだ。
月光を受けて白銀に輝く体毛、額から螺旋状に伸びる一本の角、そして深い叡智を湛えた瑠璃色の瞳。
それは、まさしく伝説に謳われる聖獣――ユニコーンだった。
しかし、その美しいユニコーンは、足に深い傷を負い、苦しげに息をしている。
おそらく、嵐の中で何か危険な魔物か何かに襲われたのだろう。
『……助けて……』
ユニコーンの、か細い心の声が、イリアナの頭の中に直接響いてくる。
イリアナは、恐れることなくユニコーンに駆け寄った。
「大丈夫……! わたくしが、必ず助けますから……!」
彼女は、修道院で習った薬草の知識を思い出し、近くに生えていた止血効果のある薬草を摘み取ると、それを自分のハンカチで包帯代わりにし、ユニコーンの傷口にそっと当てた。
そして、祈るように、その傷に優しく手を触れた。
その瞬間、イリアナの手のひらから、淡い、温かな光が溢れ出した。
それは魔力とは違う、清らかで、生命力に満ちた光。
光が傷口を包み込むと、ユニコーンの苦しげな呼吸が次第に穏やかになり、傷もみるみるうちに塞がっていく。
『……あたたかい……。ありがとう、優しいヒト……』
ユニコーンは、感謝を伝えるように、その額の角をイリアナの手にそっと擦り寄せた。
イリアナは、自分の身に起こった奇跡に驚きながらも、ユニコーンが無事なことに安堵し、優しくそのたてがみを撫でた。
これが、イリアナと聖獣との、最初の出会いだった。
そして、彼女の人生が、再び大きく動き出すきっかけとなったのだ。
***
ユニコーンとの出会いから、さらに数ヶ月が過ぎた。
イリアナは、頻繁に森を訪れ、回復したユニコーン――名前はルーンというらしい――と心を通わせるようになっていた。
ルーンは、最初は警戒していた他の聖獣や精霊たちにもイリアナを紹介し、彼女はいつしか、森の生き物たちにとって特別な存在として受け入れられていた。
そして、不思議なことに、イリアナが修道院に来てから、この辺境の地には次々と良い変化が起こり始めていた。
修道院の畑は、これまでになく豊作となり、珍しい薬草も自生し始めた。
近くの村では、原因不明の病が癒え、家畜は元気に育つようになった。
あれほど頻繁に出没していた森の魔物たちも、なぜか修道院の近くには寄り付かなくなった。
修道女たちは、これらの奇跡を「聖リリアンヌ様のお導きだ」と喜び、感謝の祈りを捧げていたが、古参の修道院長だけは、その奇跡の中心にいるのが、あの物静かな公爵令嬢イリアナではないかと、薄々感づいていた。
彼女が森の動物たちと親しく語らい、あの聖なるユニコーンすら懐かせている姿を、何度か遠目から目撃していたからだ。
(あの方は、もしかしたら……魔力ではなく、もっと別の、大いなる力をお持ちなのかもしれない……)
そんなある日、王都から一通の手紙が修道院に届いた。
それは、イリアナの兄からのもので、内容は時候の挨拶と、申し訳程度の近況報告だったが、その行間には、エルフィールド公爵家の現状が芳しくないことを匂わせる記述があった。
父である公爵の事業が失敗続きであること。
優秀だったはずの妹の縁談が、直前で破談になったこと。
そして、跡継ぎである兄自身も、原因不明の体調不良に悩まされていること……。
手紙を読んだイリアナの心は、静かだった。
かつて自分を虐げた家族の不幸を喜ぶ気持ちはなかったが、同情する気持ちも湧いてこなかった。
彼らは、魔力という価値観に縛られ、大切なものを見失っただけなのだ。
(わたくしは、もう、あの家とは関係ない)
イリアナは、手紙を静かに暖炉の火にくべた。
そして、窓の外に広がる、緑豊かな辺境の景色を見つめた。
ここには、華やかなドレスも、きらびやかな夜会もない。
あるのは、質素な暮らしと、厳しい自然、そして、心を通わせられる優しい動物たちと、聖獣ルーンだけだ。
でも、それで十分だった。
いや、これ以上ないほど満たされていた。
(わたくしの力は、魔力ゼロなんかじゃなかった。この力で、この場所で、わたくしは生きていく)
魔力至上主義の世界で「出来損ない」と蔑まれ、全てを奪われ、捨てられた公爵令嬢。
しかし、彼女が辺境の地で見つけたのは、魔力よりも遥かに尊い、聖獣と心を通わせる奇跡の力だった。
その力が、これからこの辺境の地に、そしていつかは王国全体に、どのような影響を与えていくのか。
そして、彼女の価値を見誤り、手放した者たちが、その事実に気づき、後悔する日は来るのだろうか。
イリアナは、肩に止まった銀翼鳥を優しく撫でながら、穏やかな、しかし強い決意を秘めた瞳で、遠くの空を見つめていた。
彼女の本当の物語は、まだ始まったばかりなのだから。
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