昼夜逆転の妻
はじまりました新連載。
今作もどうぞ最後までお付き合いくださいませ。
よろしくお願いいたします。
「はっ……またやってしまったのっ……!?」
夕刻、とうに日も沈み夜の帳が降りた頃にマリー・ルゥ十八歳は飛び起きた。
夫人の一人寝のためのものなのに、優に三人は寝られるのではないかという広いベッドの上でへなへなと項垂れる。
「今日こそは明るいうちに起きて、陽の光を拝もうと思っていたのに~……!」
口惜しそうにベッドに突っ伏すマリー・ルゥに、専属侍女であるエイダ(年齢不詳。おそらく二十代前半)が言った。
「奥様、おはようございます」
突っ伏したことによりマリー・ルゥの淡い珊瑚色の髪が寝具の上にふんわりと広がる。
そしてそのまま顔を少し動かし、紅珊瑚色の瞳をエイダに向けた。
「おはようございますじゃないわよぅ~、もう夜じゃない……!」
「お目覚めになったのですから“おはようございます”でしょう」
「夜におはようだなんておかしいわっ……どうして起こしてくれなかったのっ……?」
マリー・ルゥの恨みがましい抗議なんぞ何処吹く風でエイダがしれっと答える。
「だって就寝されたのが夜明け前なのですよ?お身体のためにも、たっぷり十二時間はお眠りにならないと」
「そんな事してるから昼夜逆転の生活になるのよ~!」
「まずは体調の回復を心掛けないといけないというのに、奥様が翻訳のお仕事をされるからですよ。いくら旦那様が結婚後もお仕事を続ける事をお許しになったからって」
限りなく黒に近い深緑の瞳をジト……とマリー・ルゥに向けてエイダがそう言うと、向けられた本人はゴニョニョと言い訳をする。
「だって……今翻訳している物語が本当に面白くて……個人で翻訳したものを出版社に売りつけるスタイルだから〆切は存在しないのだけれど、つい夢中になってしまうの……」
マリー・ルゥは今は結婚して伯爵夫人ではあるが、元は子爵家の令嬢だった。
物心がつく前に実母が病で亡くなり、父が後妻を迎えた事によりお決まりの“邪魔な先妻の娘”ポジションで肩身の狭い思いをしてきた。
父は気の弱い人で、美人だけど苛烈な性格の後妻の言いなりであった。
後妻が後継となる男児を産んでからは尚更だ。
継子であるマリー・ルゥを後妻が冷遇するのを目の当たりにしても、見て見ぬふりを決め込んでいた。
マリー・ルゥに対する後妻の接し方を見れば、さっさと他家に養子に出されてもおかしくはなかったが、それを為されなかったのは偏に今は夫となったアルキオ・オルタンシア伯爵との婚約が生後間もなくに結ばれていたからだろう。
その後妻と父は、マリー・ルゥが全寮制の女学院に入学した直後に事故で帰らぬ人となったが、当然なのか薄情なのかは分からないが微塵も悲しくはなかった。
そして当主急逝によりすぐに、既に成人していたアルキオがマリー・ルゥの婚約者として子爵家を取り仕切り(傍系、縁者は弱小男爵家もしく平民であった)、残された異母弟共々彼の庇護下に入った。
現在の生家……ヘリオット子爵家は、アルキオが人選した新しい家令が若年の異母弟を支えながら、なんとか貴族家としての体裁を保っている。
両親に加え異母弟との関係も希薄であったマリー・ルゥにとってはそれも最早他人事であるが。
もし、女学院卒業後にアルキオと結婚しなかったとしても、マリー・ルゥは生家を頼るつもりは更々なかった。
女学院の在学中に出会ったとある古書の翻訳で生計を立てたいと考えていたからだ。
考古学の女性教授の研究室で見つけたその一冊の古書。
ずっと孤独だったマリー・ルゥの心を慰めとなった古の物語……。
西方大陸史でも古代に分類されるそんな大昔の古い書物で、現在用いられている言葉とは違う全世界の言語の元になったと言われる古代文字で記されていた。
最初は教授が翻訳したものを読ませて貰っていたのだが、続編や他のものも読みたくて、マリー・ルゥはそのために古代文字を習得したのだった。
そしてその古の物語の内容というのが……。
「まさか古代の人も官能小説を読んでいたなんて、驚きでしょう?元々友人に借りて以来、ティーンズラブ小説が好きだったものだから、私すっかり夢中になってしまったの」
エイダにそう言いながら、マリー・ルゥはベッドから起き出した。
薄桃色のネグリジェがサラサラと衣擦れの音を立てる。
エイダは乱れた寝具を整える片手間に返事をした。
「古代人も現代人も何も変わりはありませんよ。生殖のための行為は生物にとって大切なもの。興味があってそれを面白おかしく書き記すのは何時の時代も変わりません」
「何だか実際に当時を見てきたような現実的な言い方ね。それに生殖のための行為だなんて……ちっともロマンチックじゃないわ」
マリー・ルゥが軽く頬を膨らませるとエイダは次にモーニングティーという名のイブニングティーをマリー・ルゥに手渡す。
「オルタンシア伯爵夫人ともあろうお方が頬を膨らませないでください。その上ロマンチックだなんて、まるで処女みたいな言い方をするじゃないですか。もう結婚されている身であるのに」
エイダにそう言われ、マリー・ルゥは途端に訝しげな表情になった。
「……ねぇ、本当に初夜は済んでるの……?私、全く覚えてないんだけど……」
「その質問、何度目ですか?旦那様のお話では奥様が意識を失われたのは、きちんと契りを交わされて少ししてからだそうですよ。その証拠がシーツに如実に残ってましたから私も確認済みです。……大丈夫ですよ。いずれ時が来れば全てを思い出し、ご納得されることでしょう」
「シーツに……TLや官能小説によくある“破瓜の証”というやつね!」
「何をそんなに興奮されてるんですか」
「だって私の身に小説と同じことが起こるなんて!……まぁ覚えてなければ経験したとは言えないのだけれど……」
マリー・ルゥはアルキオと結婚したその日の夜、所謂初夜に突然原因不明の高熱を出し意識を失った。
その日から六日と六時間六分が過ぎた頃にようやく意識を取り戻したのである。
しかし、高熱の所為かはたまたそれ以外に何か原因があるのか、結婚式当日の夜の記憶が全く無い。
その夜の分の記憶がまるまる失われてしまったのだ。
挙式と披露パーティーの後、次の日から向かう新婚旅行先へのアクセスが便利だからと、その日はアルキオが住む本邸ではなく王都の外れの別邸に入ったのは覚えている。
その後の白身魚のポワレが絶品だった美味しいディナーも覚えている。
エイダに入浴を手伝って貰い、これも小説のままだと感動した薄いナイトドレスに身を包んだのも覚えている。
だけど夫婦の寝室に入った直後からの記憶がプツリと途絶えてしまっているのだ。
何かこう……とても大切な、重大なことを忘れてしまったような気がしてならないのだが、それが一体何なのか。それ自体を忘れてしまっているのでどうしようもない。
マリー・ルゥはエイダに尋ねた。
「私を診てくれた医師は他に何か言ってなかったかしら?記憶の白濁は高熱のせいでおそらく一過性のものだとは聞いたんだけれど……」
「記憶の混濁ですね。奥様、お気を抜かれるとあいさに官能小説で用いられるワードを使用されています。私以外の相手だと少々マズイですよ」
「エイダ以外の相手だなんて……この別邸には私とエイダの他、三名の使用人しかいないじゃない」
というかエイダが官能小説用語を知ってるなんて驚きだわ。もしかして翻訳した原稿を読んでる?
とマリー・ルゥは思ったが、それには触れないでおくことにした。
「今後の事を申しているのです。本邸に移られたらどうするんですか」
「本邸に移る……本当にそんな日がくるのかしら……?」
初夜以来、高熱を出し記憶を失った妻を、夫となったアルキオは「まだ体調が万全ではないから」と別邸に留め置いたままだ。
仕事で多忙を極めるアルキオが時折この別邸を訪うが、現状放置され気味の新妻マリー・ルゥなのであった。
明日の朝も更新アリマス。