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晩 酌

作者: 堀本廣







 平成7年10月2日、夜9時、石井雑貨店に電話が入る。

妻の酌で晩酌をやっていた石井光一は、心地よい酔いに水を差されるような気分に襲われる。

 電話の主は石井和助、10年前に亡くなった父の弟である。受話器をとった妻の伸江は不快さを顔に表す。

「和助おじさん・・・」伸江は手短にいうと、受話器を夫に手渡す。


 光一は和助が苦手である。叔父であるという以上に、押しの強い性格が好きになれないのだ。

「何の用か聞いて」光一は目の前に受話器を押し付ける伸江に言う。

「あなたに代わってほしいそうよ」

 伸江も和助が好きになれない。フーテンの寅さんよろしく、若い頃から各地を転々として過ごしている。話術が巧みで、引き込まれるような熱気が全身から伝わってくる。気が付くと、和助の術中にはまってしまっている。

 和助に関わりたくないから、受話器を汚れた物のように、夫の手に握らせる。

 光一は仕方なく「もしもし」受話器を口に当てる。

「いやあ、光ちゃん、久しぶりやなあ。元気か?明日の夕方、そっちにいくから一杯つきあってや」

 石井は戸惑う。本当は付き合いたくないのだ。

「どや、ええやろ、ええ金もうけの話もあるしな」

 和助は一方的に喋りまくり豪快な笑い声を残して、電話を切ってしまう。

 呆然とする夫に「あなた・・・」伸江は心配そうに言う。

「明日、夕方来るんだって・・・」

「私、面倒見切れませんからね」伸江は口を尖らす。

 和助は3~4年に一回は常滑に帰ってくる。落ち着く家がないので、石井の家に1週間ばかり泊まっていく。酒も強く、毎晩、夫の光一と熱っぽく語りあって、1升瓶を開ける事になる。語るといっても、和助の一方的なお喋りでおわる。各地を転々としているだけに、話題に事欠かない。身振り手振りを交えての話に、光一は真っ赤な顔で聞き役に回るのみ。

「良い金儲けの話があるんだって・・・」

 光一は迷惑顔の妻に言い訳するようにポツリと言う。

 いつも突然訪問するのに、今日に限って予約の電話を入れてくる。何事もなければいいが・・・。光一はこれ以上妻の側にいると気まずくなると感じ出す。

「まっ、明日頼むでな」腰をあげて、寝室に引き上げる。

 伸江は憮然とした表情で、小柄な夫の後ろ姿を見送る。

 9時半、長女の和子と長男の良一が帰ってくる。

「明日ね、和助おじさんが来るんだって」

 伸江は眉を曇らせて子供達に告げる。

「えっ!またあ!」和子が素っ頓狂な声を出す。

「俺、会う気ないからね」

 そんなことに関わりあいたくないとばかりに、2人は早々に2階の自分達の部屋に上がっていく。

 後に残された伸江は店を閉める。


 石井雑貨店は名鉄常滑駅北側の県道沿いにある。大正時代から続いた店であるが、十数年前から、スーパーやコンビニエンスストアが出来て、売り上げが半減している。昔は旦那衆と言われたが、今は見る影もない。

 主人の石井光一、48歳。妻伸江、45歳。和子22歳、良一18歳

 和子は常滑駅から百メートル程南に行った信用金庫の本店に勤務している。良一は常滑高校3年生。

 朝8時にに子供達が家を出る。

 店は8時半に開ける。常滑駅に名鉄セラが出来てからというもの、客足がバッタリと途絶えている。それでも近所の人や通りがかりのサラリーマンや職人たちが慌てて駆け込んでくることもある。

 店は中2階で、コールタールを塗りたくった板葺きの外壁だった。2年前に垢抜けしたミルク色のサイディングに張り変えている。窓もサッシに替え、道路から店内が見えるように工夫している。

 店の中も、薄暗い電灯から、蛍光灯に替えているが、店内は昔のままである。

店のガラス戸を開けると、真ん中にコンクリートの打ち込みの通路が奥まで続いている。

 左右は30センチばかり高くなった板の間となっている。店の広さは約20坪。天井はむき出しの梁が黒く煤けている。5寸角の柱が黒光りして天井を支えている。家庭用品や事務用品、大工道具などが所狭しと並んでいる。店の奥に中2階の天井裏に上がる階段がある。店内はすべて黒ずくめである。階段の所が3帖ばかり空いている。小さな机が置いてあり、電卓や帳面などが無動作においてある。

 店の通路を奥に歩くと、20坪程の庭に出る。店の北側に2階建ての母屋と、その西側奥に倉が控えている。

 母屋は店とつながっている。14帖の台所兼居間、次の部屋が石井夫婦の寝室、倉につながった方に、8帖2間が空き部屋となっている。10年前までは石井の父が使用していた。今は和助が来ると彼の部屋として提供している。部屋は南側の廊下でつながっている。子供達は2階を占有している。


 9時に光一がアルバイトに出かける。

歩いて5分の所に、大手運送会社の常滑営業所がある。数年前から、小荷物の配達を引き受けている。

 1日約50軒。午前中には帰ってくる。昼は4時ぐらいまで。共稼ぎの家庭が多いので、夕方は6時から配達となる。

 子供達の夕食は7時、光一は8時から晩酌となる。1合ほどちびりちびりとやるのが好きだ。

10月3日朝、夫や子供達を送り出して、伸江は店の机に向かって頬杖をつく。叔父の和助が来るかと思うと、うっとうしくてたまらない。こんな因果な家に、何故嫁に来たのか、45歳になって、そればかりを思うようになった。

 伸江は23年前の昭和48年に見合い結婚している。

 伸江の父は土管屋で働いていた。貧しくて、小さい時から新聞配達などをして家計を助けてきている。苦労する事には慣れていたが、石井家の嫁になると知った時には嬉しかった。

 石井雑貨店は、当時は金持ちとの風評があった。年老いてきた両親に親孝行が出来ると喜びを隠さなかった。

 夫となる石井光一との何度かの交際も〝良い人”と言う印象が強くなっていく。

 石井光一は小柄で大人しい。無口で、めったに口を開かない。その彼が喫茶店やレストランで、伸江を目の前にしている時は、人が変わったように喋る。

――将来、雑貨店からスーパーに脱皮したい――

 熱っぽく夢を語る。丸顔で愛想の良い顔に、うっすらと赤みがさしてくる。

・・・この人なら安心してついていける・・・

 伸江は面長の目鼻立ちのはっきりした顔をうっとりさせる。

 当時の石井家は父親の信一と光一の2人暮らしだった。母親は7年前に肺がんで死んでいる。食事などは隣家のおばさんが作ってくれていた。

 結婚後2年で和子が生まれる。その前後に、石井光一は半田市内の同じ雑貨店の仲間から協同仕入れに加わらないかと誘いを受ける。

 昭和50年前後、各地にスーパーの進出が著しくなっている。電気製品でさえも、メーカー系列のストアで購入するよりも安い。大量仕入、大量販売の波が小売店を襲っていた。石井雑貨店も売り上げが落ち込み、その対策を考えねばならない時代に入っていたのだ。

 そんなタイミングを推し量ったような誘いに、石井は1も2もなく乗った。毎晩のようにその仲間の家で会合を開く。集まった仲間は10人。大量仕入れするには少なすぎる。少なくとも百名は集めねばならない。

 その仲間は、10名がそれぞれ分担しあって、勧誘しようと力説する。

 和子を身ごもっていた伸江にも、この事は知らされていた。コンビニエンスストアのような事を夫がやろうとしている。伸江は光一の熱意に期待をかける。父親の信一は、隠居の身だからと、口を挟まない。

 石井家の将来は光一に託されていたのだ。

 1ヵ月後、伸江の期待は裏切られる。

1人が10名を勧誘する事になったものの、石井は一向に動こうとはしない。酒の好きな石井は晩酌をする。伸江は大きく出っ張ったお腹を気にしながら、夫に酌をする。勧誘の話を尋ねるが、誰を勧誘して良いのか判らんと答える。それだけならまだしも、何で俺が勧誘しなければならないんだと息巻く。

 間もなく和子出産。

 勧誘の件は遅々として進まない。その内に問屋の方から仕入れ価格を値引くからとの話が出る。明らかに共同仕入れへの妨害と切り崩しである。

 仲間の雑貨店から問屋の誘いには乗らないようにとの警告が入る。石井は妻に相談する。

 この時、伸江は抱いていた夫への信頼感が崩れるのを感じた。問屋の意向に従うための相談だったからだ。

 伸江は和子に乳を飲ませながら聞いていたものの、心の内に虚しさが拡がるのを感じるのみだった。

 夫は熱っぽく、なめらかな口調で言う。

 協同仕入れなど、所詮無理な話だ。各自が10名の会員を勧誘する事など出来る訳がない。問屋に任せておいた方が無難なのだ。

 2ヵ月前、夫はこれと正反対の事を言っていた。どんな仕事にも気苦労や困難が付きまとう。それを乗り越えてこそ大成するものなのだ。結果自分に気苦労を押し付けられたと知って尻込みしてしまう。

 相談とは名ばかりで、結局は今まで通り問屋を頼る事を、妻に納得させるための演説でしかない。

「あなたの好きにすればいいわ」

 妻の一言で「そうか、判ってくれたか」破顔して、もう一杯と徳利を突き出す。

 夫の晩酌は毎晩の事である。光一は協同仕入の事は無かったみたいな顔で妻に語り掛ける。

 少なくとも3割から4割の利益が出る商品の販売を手掛けたい。それについて、あれこれと調べている。

 夫はその事が現実になったかのように喋る。充血した眼だけがかっかと燃えている。伸江は冷ややかな目で夫を見ている。

 幼い時から苦労しているだけあって、伸江は夫の夢想を上の空で聴いている。

 今日まで、夫は色々な情報を集めては手を出している。自分からのめり込むのではない。セールスマンや、友人知人の勧誘に乗ってしまうのだ。

 3つばかり例を出す。

 燃費向上器――自動車のガソリン代を3割程度節約できるとのうたい文句に乗せられて、1台3万5千円を5台購入。器具を売るよりも、5台購入する人を3名捜した方がマージンが多くなると口説かれる。

 つまりマルチ商法で、3人勧誘すると1台1万円のマージンが入ってくる。その3人が、また9人を勧誘すると、1台3千円のマージンが入ってくる。その9人が27名を勧誘すると、1台千円のマージンが・・・。

 4台目からこの器具を購入すると、1台2万円となる。つまり1万5千円のマージンとなる。

 勧誘の下手な石井は、3人の勧誘者を見つけるどころではなく、店に並べて売りさばこうとした。結果は1台も売れず、器具は2階にお蔵入りとなる。

 浄水器――水道水が体に悪いと言われて久しい。出始めの頃の浄水器はヤシ殻の活性炭を使用している。今日まで色々な種類の浄水器が出ては消えている。

 販売価格35万円。仕入価格20万円。昭和54年頃の事である。10台仕入れて、何とか5台は売りさばく事が出来た。それも伸江が知り合いの主婦に売り込みして、何とか損害を最小限に食い止めている。

 後々、使っていると浄水能力が落ちるのではないかとの苦情が入る。残る5台は自分の家で使用する。

 24時間風呂――将来の日本は水不足になるとの、うたい文句に踊らされて、まずは自分の風呂で試してみたものだった。うたい文句通り、水の入れ替えの必要はない。確かに水道代が節約できる。電気代もそれ程かからない。

 これならという事で、とりあえず10台購入。販売価格24万円、仕入れ価格18万円。

 これも伸江の必死な売り込みで何とか全部さばける

 その後、風呂の湯に雑菌がウヨウヨいるのではないかとの、新聞やテレビで報道される。

 石井光一が、この様な商品に飛びつくにも理由がある。

その商品をてこにして、町の雑貨店から脱皮したいとの思いがある。スーパーのような大型店を切り盛りしてみたいとの夢がある。

 失敗しても懲りないのだ。病気の再発のように、3~4年に一度は手を出す。

持ち出す金も、少なくとも20万円。多くて2百万円になる。さずがの伸江も文句を言いたくなる。その度に父になだめすかされる。

 光一は一人っ子である。高校の時に母を亡くして、父の手1つで育てられた。息子が何をしようと文句を言わない。失敗しても黙々と尻ぬぐいしている。

 小さい時から甘やかされて、苦労無しで育ってきた光一は、問題が難しくなると、父に責任を背負わせてしまう。父もそれを当然の事として受け入れている。

 昭和62年に父が死亡。後ろ盾のなくなった光一は、さすがに百万円単位のお金は使わなくなった。それでも病気の再発のように、3~4年に一度は4~50万のお金を使っている。

 数日前、伸江の中学の同級生の野崎恵子から電話が入る。家の中でくすぶってないで、一緒に働かないかというのだ。

 彼女は数年前から半田市内の不動産屋で営業の仕事をしている。その会社には野崎のような、子育ての終わった主婦が6名ばかり働いている。会社が定期的に新聞の折り込み広告を入れている。来訪して来た客や、電話で問い合わせのあった客を訪問する。

 その会社は不動産の仲介が主で、大体1~2ヵ月で1件の割合で成約できる。固定給と合わせて、1ヵ月平均15万から20万円の収入だという。

「伸ちゃん、お店はやらないでしょう」

 野崎とは小さい頃から一緒に学校へ通った仲だ。言いにくい事もずけずけ言う。

 雑貨店の利益は1ヵ月10万円前後に落ち込んでいる。

「こんな薄暗いとこにいると、早く老け込んじゃうわよ」

 生命保険のセールスレデイと違って、人に嫌われる事もない。飛び込むをするでもなし。仕事としては楽だという。不動産の知識が身に付き、ご近所の人から相談に乗って欲しいと頼まれる事もある。

 伸江は野崎の誘いに乗ろう、思案している。

 娘の和子は好きな人がいて付き合っているという。夫には知らせていないが、結婚も近いようだ。

 息子の良一は来年3月に高校を卒業する。大学に行けという夫の勧めを辞退している。就職先を自分で見つけると言っている。

 このまま家に居ては、身も心もさび付いてしまう。ただ苦労するだけで、年老いてしまうと思うと、ぞっとするのだった。

 野崎恵子には、子供達の手が離れたらお願いしたいと言ってある。


 夕方4時に良一が帰ってくる。クラブ活動はバスケットをしている。夫や伸江が小柄なのに、良一は背丈がある。誰に似たのかしらと思う程親に似ていない。

 性格は明るい。1つの事を打ち込むタイプだ。学校の成績は中程度。魚釣りが好きで、早朝知り合いに連れられて沖釣りに行く。魚や海については詳しい。

 6時に学校でクラブ活動があるので、夕食を平らげて出かけてしまう。

 和子は5時半に帰ってくる。6時頃に母と娘は食卓に向かう。

「今夜和助おじさんが来るのよ。ちょっと挨拶したら」

 子供達も和助を嫌っている事は知っているが、仮にもおじさんだ。。無碍な扱いは出来ない。5年も会っていない。顔だけ出す様に言う。

「いやよ、それにね、これからサークルがあるのよ」

 和子は中肉中背の美人である。娘も両親に似ていない。性格は活発でハキハキしている。勝気な所がある。好き嫌いがはっきりしている。

 父親が頼りない。子供達は母の苦労を見て育っている。それだけに自立心が旺盛である。将来も親に頼ろうとは思っていない。

 和子は毎晩のように若者のサークル活動に出席している。1人でも多くの友人を作っておいて、将来に備えたいと考えている。


 7時、配達を済ませて光一が帰って来る。彼はそそくさと風呂を済ます。

 7時半、店のガラス戸を開けるブザーの音がする。

「こんばんわ」和助の大きな声が、奥の台所にも聴こえる。

「はーい、ただいま」伸江は小走りに店に走る。

「よう、伸ちゃん、元気?」

 伸江は和助の姿をみて、呆気に取られて立ち竦む。

そこにはダブルのスーツを着込んだ和助の大きな姿があった。


 和助は中学を出ると、職を求めて常滑を後にしている。土管屋が性に合わないからと言って、家を飛び出したのだ。

 4年から5年に1度帰って来る彼の話を聞くと、ダムの工事現場で働いたり、大工の真似事をしたり、口達者な事から、テキヤをやったり・・・。

 常滑の保示町で夏に天王祭が行われる。伸江は1度、屋台で客引きをしている和助を見ている。小学校の良一の手を引いて、沿道に立ち並ぶ屋台を冷かしながら回る。

 ねじり鉢巻きの和助は、声をからして身振り手振りよろしく、万能ナイフを売っていた。屋台の前は黒山の人だかりだ。

 缶切りや、ワインの栓抜き、カッターナイフ、ビールの栓抜きなどが組み込まれた万能ナイフが、台の上にズラリと並んでいる。

 和助は紙を取り出して、ナイフでスパスパ切っていく。カミソリで切ったような見事な切れ味を見せる。

 実演と抑揚のある口調がマッチして、見る者の注意を引き付けている。

 和助は器用な手つきで、木片を無造作に切り刻んでいく。刃こぼれのない事を見せるために、ナイフで和紙を縦に割いて見せる。和紙は簡単に2枚になる。

 巧みな話術と器用な手つきが相まって、ナイフがどんなに素晴らしいかを印象付けている。

 価格は5百円。高いのか安いのか判らないが、10年前の事で、大人が買うには無理のない金額だった。

 5~6人の人が購入していく。

「よう、長田とこのおばちゃん、旦那元気?ナイフ、俺が保証するからさあ、買って!」

 その声で、5百円玉がパラパラと和助の懐に入る。

「母ちゃん、僕もほしい」良一が母をせっつく。

「伸ちゃん、買ってって!」和助の生きのいい声に、伸江は仕方なく買う事にした。

・・・どうせ粗悪品に決まっている・・・

 伸江は小さい時から世の中の裏表を見てきている。

紙があんなに簡単に切れるのも、切り方や和助の器用さがあっての事だろうと見抜いている。それなりの練習も積んでいるに違いない。

 伸江の見抜いた通り、子供の良一では紙は簡単に切れない。。缶切りだとて、和助の実演だと、缶の方から切れていくと錯覚するほど、サッサと缶の蓋が開いていく。試しに伸江がやってみる。和助がやったようにはいかない。

 はっきりと粗悪品と判ったのは、3ヵ月ばかり経った頃である。ナイフの刃が欠けて、さび付いてきた事だ。ナイフのサビだけなら砥石で研げばよいだろうが、缶切りや栓抜き、ナイフ全体に錆がふいてきた。

 良一は一時の物珍しさで使ってきたが、今は伸江が栓抜きと缶きりに使っていいる。


 「伸ちゃん、驚いた?」呆然と見つめる伸江に、和助は破顔して言う。

 伸江が驚くのも無理はない。

 和助が石井雑貨店の入り口を開ける時は、決まって作業服で、無精ひげを蓄えている。ドングリ型の頭は3分刈である。作業用のゴム靴で、ドタドタと入ってくるのだった。

 今は紺のネクタイを締めて、黒光りの革靴に身を固めている。これでサングラスでもかけていると、やくざの用心棒と間違える。

「まっ、とにかく奥へ」我に還った伸江は和助を手招きする。

 14帖の台所には、すでに酒の用意が出来ている。

 天井や壁が黒ずんで煤けた感じだったのを、3年前に、部屋全体の改装を行っている。明るい雰囲気に変わっている。流し台も昔のタイルから、ステンレス製に替えた。変わらないのは畳と掘りごたつである。

 普通コタツと言えば畳半畳の大きさだが、石井家のコタツは一間四方、つまり1坪の大きさになっている。

 光一がコタツに入って、叔父の和助の到来を待っている。

「よう、光ちゃん、元気?」

 眉が太く、眼の小さい和助の姿を見て、光一も呆気にとられる。どうみても別人としか見えない。

「おじさん、その格好どうしたの?」

 和助はズカズカとコタツにもぐりこむ。

「えらい旦那衆になったみたいで・・・」光一の声は小さい。和助は大きな声で笑う。腹の底から笑うような豪快さがある。

 和助は小学校の時、知多半島の相撲大会で優勝している。体重は80キロあり、笑う時は体をのけぞらせて笑う。

 光一の父信一は5人兄弟である。和助は末っ子で、信一とは15歳の歳の差がある。

 今年63歳の筈だが、和助の顔色は良い。3分刈りの髪は白くなっているが、押しの強い体と大きな声は昔のままだ。飲んだくれで、有り金全部はたいてしまう。その為に、亡くなった父に無心している。

 常滑に帰ってきたのは、10年前信一が死んだ時と、5年前である。必ず返すからと言って、光一に無心している。

 気の弱い光一は、叔父の申し出を断れない。

 今日、また金を無心されたら、はっきりと断れと釘を刺されている。それを言えないなら、私がきっぱりと言う、と伸江に言い渡されている。

「おじさん、まっ、一杯どうぞ」伸江が料理を運んでくる。

「和ちゃんと良ちゃん、元気?」

「ええ、おかげさまで、2人とも、夜が遅くて・・・」

 伸江が申し訳なさそうに言う。

「叔父さん、その格好どうしたの?」

 光一は和助の変わりように興味がある。

「じつは、わし、今こう言う事やっとってなあ」

 和助は内ポケットから名刺を取り出す。

――新和興業株式会社、名古屋支店、販売主任、石井和助――

「何、おじさん、これ」

 和助は答える。4年前大坂で働いていた時、一杯飲み屋で知り合ったこの会社の社員の紹介で、入社したという。

 主に健康マットレスの製造販売を業としている。。

 バブル崩壊後も、業績は順調に伸びている。東京や仙台にも進出している。3ヵ月前に名古屋支店を設けた。

 自分は販売主任を命ぜられ、2ヵ月前に名古屋に来ている。常滑に来よう思ったが、忙しくて、今日ようやく来ることが出来た。

 今まで亡くなった信一兄貴や他の兄弟たちに迷惑を掛けっぱなしだった。やっと恩返しができるようになったと神妙に語る。

 光一と伸江は顔を合わせる。和助のこんな態度は初めて見る。

「あと30分ぐらいで失礼する」

 和助は壁に掛けられた時計を気にしている。

「えらい急だね」光一は面食らう事ばかりだ。

 いつもなら、夜中の1時頃までのみ明かす。奥の座敷に布団が敷いてある。朝9時頃まで寝ている。3~4日所在なさそうに、近所をぶらつく。

「そうそう」和助は言いながら、内ポケットからパンフレットを取り出す。豪華な色刷りである。

「明日は10時からさあ、多屋公民館で、健康マットレスの販売促進のキャンペーンをやるんだよ。よかったら顔を出してくれん?」

 それを見てくれれば和助のやっている事が判るという。

「まっ、パンフレットを見といてよ」

 和助は立上がろうとそわそわしだす。

「おじさん、寝る所は?」

「駅前の丸久旅館に会社の者が集まっているんだ。準備があるもんでなあ。じゃ明日」

 和助は風のごとくやって来て、風のごとく去っていく。光一と伸江は呆然と見送る。

「あなた・・・」伸江が拍子おれした声を出す。

 2人が飲み明かす酒と料理を用意した。11時までは2人の酒宴に付き合わねばならないと、気が張っていたのだ。

「まっ、帰ってくれて、やれやれじゃないか」

 これが夫婦の正直な気持ちだった。


 光一は伸江の酌でちびりちびりとやる。

 パンフレットを拡げる。健康マットレスの開発者、新和興業の社長の写真が載っている。苦節10年の末に健康マットレスを開発し、社会に貢献できる喜びが歌ってある。光一はこういう立志伝が好きだ。この類の本を読んでは陶然としている。

 健康マットレスの内部の仕組みがイラストで紹介してある。マットレスに人体のツボを刺激するようにと、イボイボがついているのがミソらしい。それにマットレスの裏側に何千ガウスかの磁石が張り巡らしてある。これらの相乗効果で、血行の巡りが良くなる。ツボの刺激で内臓が活発になるとか書いてある。

 パンフレットには最後の方に販売代理店募集とある。価格などは一切書いてない。

「販売代理店か・・・」光一はパンフレットを眺めまわしている。

 伸江はまた悪い虫が起こらねば良いがと不安になる。


 10月4日朝9時、石井光一は運送会社に電話を入れる。午前中急用が出来たので、配達の仕事は昼の1時にお願いしたい。

 電話を切るなり、多屋公民館に一緒に行ってくれと、伸江に迫る。

 伸江はしぶしぶ応じる。嫌だと言ったところで、行くと言うまでねちねちと迫って来るだけだ。

 意志力が弱いくせに、一旦こうと決めたら、梃でも動かない。1人で動きたくないのだ。一蓮托生というよりも、何が何でも引きずり込んでしまいたいと思っている。父が死んでからこの傾向は一層強くなっている。

 9時半、店を閉めて出かける。歩いても10分で行ける。多屋公民館は県道沿いに位置している。

 バスケットボールでもやれそうな大きな駐車場がある。その奥に2階建ての総面積80坪の古びた建物がある。築30年は経っている。建物の真ん中に玄関があり、三々五々、人が集まりつつある。

 玄関わきに、新和興業、健康マットレス販売促進キャンペーン中の垂れ幕が下がっている。

 玄関を入ると、眼鏡をかけた若い男が「いらっしゃいませ、2階です」声を掛けながら、来客に、のし紙に入ったボールペンを手渡している。濃紺の背広に紫のネクタイが鮮やかである。

 2階に上がる。会場は20帖程の大広間。折りたたみ椅子が並んでいる。前の方の壁に黒板があるが、そこは、白い垂れ幕で覆われている。

「光ちゃん、よう来てくれたね。あんたたちはこっちへどうぞ」

 和助が相好を崩して、のっしのっしと歩いてくる。

2人は和助に手招きされて、後方の隅の椅子に座る。

 ぞろぞろと入ってくる人達は主に老人だ。中年の主婦も混じっている。平日とあって、若い男の姿は無い。

「よくこんなに集まったねえ」光一は感心する。

「そりゃ朝から1軒1軒回っちゃ、宣伝して来たからなあ」和助はそれだけ言うと「ちょっとごめんや」言いながら行ってしまう。

「ありゃまあ、石井さんとこの光ちゃんじゃねえか」

しゃがれた声が飛んでくる。70歳位の老婆が、曲がった腰を延ばして歯のない口を開けている。

「まあ、伊藤さんちのおばあちゃん、お久し振りで・・・」伸江は愛想が良い。立ち上がって頭を下げる。

 彼女は夫の光一よりも少し背が高い。面長の目鼻立ちの整った顔をしている。パーマをかけた髪が揺れるほど、頭を下げる。

 光一は座ったまま、ぺこりと軽く会釈するのみ。愛想が悪いというよりも人見知りタイプなのだ。こんな性格でよくもまあ、物を売りたがるものだと、伸江は感心している。

 伸江が陽なら光一は陰である。この会場にも伸江が夫を引っ張ってきたような感じを与える。光一はその事も計算に入れている。ずるい男であった。

 見知っている人が大勢いる。身内的な雰囲気が溢れている。

「和助さあ、立派になっただなも」そんな声が飛び出す。どっと笑いが起こる。和助は得意そうに頭を下げて回る。

 9時10分、白い垂れ幕の横のドアが開く。

 2人の男が、ドアの奥から次々と品物を運び入れる。ほとんどがプラスチックの家庭用品や、赤や白の子供の玩具である。最後に毛布やマットレスが運び込まれる。それらの品々は、垂れ幕の下に山積みにされる。10台のマットレスは壁に立てかけられる。

 9時10分、入り口のドアが閉められる。

 正面の白の垂れ幕を背にして、恰幅の良い、60がらみの男がマイクをもって挨拶する。

「こんにちわ、皆さん、お忙しいところわざわざお越しいただきまして・・・」紋切り型の口上が始まる。

 男は総髪の髪型をしている。長く伸びた髪を後ろで束ねている。紺の縦縞のダブルのスーツを着こなしている。柔和な顔付で、声もソフトである。

 男達は和助を含めて5名。マイクを持つ男が中心人物らしい。他の4名は左右に並んでいる。

「私、霧島といいます」総髪の男は自己紹介する。

「私共の会社は新和興業と申しまして・・・」

 声に張りがある。会場の1人1人に目をやりながら、ゆっくりと喋る。聞いていて飽きのこない話し方だ。

――健康マットレスを売り出して日も浅い。皆さんに知ってもろらうために、今日のような販売促進のキャンペーンを催している。皆さんに色々な景品を差し上げるが、ただでは上げない。私共の質問に答えていただいた人だけにあげる――

 その前に、会社の紹介と、健康マットレスとはどのようなものか、映画をお見せしたい――

 霧島の声が終わるか終わらぬ内に、会場の中央に設置された映写機から、正面の垂れ幕に映像が映し出される。南と北の窓全部に暗幕がひかれる。暗い場内に、スピーカーから流れる、割れた音楽が響き渡る。

 すべて手際よく運んでいく。

 映像には新和興業のネームの入った看板と会社とおぼしきビルが映し出される。すぐにも新和興業の社長の挨拶、健康マットレスの製造過程に変わる。

 次に健康マットレスの効能が述べられる。

 不眠症が治った。50肩が良くなった。食欲増進、快便、その他色々な効能書きが映し出される。

 利用者の感謝の表情が次々と表れては消える。

 最後に社長が健康は何よりも大切なものと、にこやかに述べて、映画は終わる。この間約15分。

 室内の蛍光灯が付けられる。暗幕は引かれたままだ。映画を観終わって、ほっとする間もなく、

「健康マットレスについてお判りにいただけましたね」

 霧島は分厚い唇をヒルのように動かす。

「さあ、これから、私の質問に答えてくださいね。すばらしい景品をさしあげますよ」抑揚のある大きな声で、会場内を見渡す。

「健康に関心のある方、手を挙げてください」

 声が一段大きくなる。

 会場内は、自分の周囲を見渡しながら、おずおずと手を挙げる人で満ちている。

「はい、手を挙げた人には景品をあげますよ」

 石井和助を含めた4名の男達は景品を配って回る。和助は光一にも持ってきた。箱を見るとゴマすり器である。2~3百円で買えるようなものである。それでも多くの老人たちは子供のように喜色を浮かべながら受け取っていく。

「まだまだ質問しますからね」

 受け付けにいた若い男は、子供をあやす様に甘ったるい声で言いながら景品を手渡していく。

 和助を省く3人の男は20代の若さだ。1人は眼鏡をかけ、1人は赤ら顔、1人1人に声を掛けながら景品を渡していく。

 皆に景品がいきわたると、会場は静寂になる。

「では、質問しますよ」

 霧島は明るい顔で声を張り上げる。

「家族の皆に健康になって欲しいと思う人、はい、手を挙げて!、手を挙げる時、はいっ!と言ってね」

 霧島は分厚い唇を大きく開ける。子供のように、ぱっと手を挙げてみせる。4人の男達もそれに見習う。

「ハイッ、ハイッ・・・」会場内の声は大きくなる。

 次に手渡されたのは手鏡である。ゴマすり器より少しマシな程度である。

「次、行くよ。健康になる為には、少々お金がかかっても良いと思う人、ハイッ

手を挙げて」

 霧島の言葉は乱暴になってくる。

会場内から一斉に元気な声があがる。ぱっと多くの手があがる。

「みんな、元気良いね、よしみんなにあげちゃうよ」

 景品が配られる。ムンムンする熱気が場内に盛り上がってくる。

「次いくよ」

「ハイッ!」

「おばあちゃん、まだ早いよ」霧島はわざと困った顔つきになる。

 おばあちゃん、気まずくそうに首をすくめて見せる。笑いの渦が巻き起こる。

――伊藤さんとこのおばあちゃんじゃない・・・――

 伸江は喜色一杯のおばあちゃんを見る。家の中では邪魔扱いにされ、お茶を飲みながらの、日向ぼっこの姿を見ている。ご主人に先立たれ、しょんぼりと遠くを見ているおばあちゃんが、人が変わったように元気いっぱいなのだ。童心に還ったように、声を張り上げて、精一杯手を挙げている。

 その目で光一を見る。

 光一は物に憑りつかれた様に会場内を見ている。完全にこの場の雰囲気に取り込まれているのだ。

「あのおばあちゃん、絶対に病気にはならないね」司会役の霧島は言葉巧みに、雰囲気を盛り上げていく。

 再びどっと笑いの渦が起きる。

 他愛ない質問で、色々な景品が配られていく。

「景品の欲しい人、ハイッって手を挙げてね」和助や3人の男達は声を張り上げている。

 奪い合う様に景品が会場内を飛び交う。

 異常な熱気に包まれて、伸江さえも、景品に飛びつきたくなる。和助は伸江たちにも景品を配る事はを忘れてはいないが、もっと欲しい、そんな欲求に我を忘れそうになるのだ。光一はっ夢遊病者のような表情をしている。

「さあ、最後の景品、この毛布!」

 霧島や4人の男達は高々と毛布を持ち上げる。

「そんじょそこらにある毛布と訳が違うよ」

 1枚数万円もする外国産の一級品だと力説する。

 皆、喉から手の出そうな顔つきで見ている。

「どんなにすばらしい毛布か、私ウソつかない。皆に見てもらう」霧島のおどけた口調に、会場内はワッとどよめく。

「毛布を触ってみたい人」

 ハイッ、ハイッと手が挙がる。手際よく毛布が配られる。チャック式のビニールの包装を解いて、毛布を取り出す光景があちらこちこちらで見られる。

「ほんと、うちの毛布と全然違う」

「肌触りがいい」

「柄もいいわ」

 毛布を褒める声が飛び交う。

「みんな、判るだろう、安物じゃないんだよ」

 誰しもが頷く。

 霧島は安物ではないと強調する。

 みな、固唾を飲んで、霧島の言葉を待つ。

「いいこと?今日ここに来てもらたのはね、素晴らしいマットレスがあるってことを知ってほしかったの、判るね!」

 マイクの声は耳障りな程大きいが、これも苦にならない。会場内の全ての顔が霧島の分厚い唇に釘づけになっている。景品をしこたまもらい、皆の顔は血走っている。

「毛布の欲しい人!」

「ハイッ!」先を争う様に手が挙がる。

「みんなにあげたい。でもタダではあげられない」

 霧島は後ろに立てかけてあるマットレスを自分の側にどんと置く。

「マットレスがすばらしい商品だと思う人!」

「ハイッ!」一斉に手が挙がる。

「これはね、30万円なの、今日は毛布をつけて20万円で分けちゃう。欲しい人」

「ハイッ!」7~8分通りの手が挙がる。手を挙げない人は知り合いが手を挙げるのを見て、しぶしぶ手を挙げていく。ほぼ全員と見ていい。

 手を挙げない数人の者がいる。彼らは困惑した表情でもじもじしている。手の余る程の景品を抱えながら、何か悪い事でもしたような、気まずい思いであたりを見回す。手にした毛布をどうしようかと、思いきって手を挙げる者もいる。 

 と、会場の端から、小太りの中年の婦人が、すくっと立あがる。

「もう帰っていいですか」言うなり会場の後ろの出入り口に歩いていく。

「ちょっと、お客さん、もらうだけもらって、帰るってのは無いでしょう」

 霧島はマイクの声を張り上げる。小太りの女は引きつった顔で何も言わずに、両手にしこたま抱えた景品を落とすまいと会場から消えていく。

 彼女に続こうとして、立ち上がった2~3名は、霧島の声に、帰るのを諦める。

「それでは皆さんに、景品を入れるビニール袋をあげますね」

 その声に、4人の男達は大きな袋を手渡しながら、1人1人に契約書とボールペンを手渡していく。

「マットは後で届けますからね」

「ハンコはもっとらんだがね」

 伊藤さんとこのおばあちゃんが声を張り上げる。

「わしもだがや・・・」会場のあちらこちらから声が漏れる。

「ハンコはいらない。名前と住所だけでね」

 4人は周りをまわりながら、書き終わった契約書の回収にかかる。


 壁に掛かった時計が11時半を指している。窓の暗幕が引かれて、室内の明りが消える。出入り口のドアが開かれる。

 山ほどの景品を持った老人たちはワイワイ言いながら帰っていく。伸江は知り合いの人、1人1人に頭を下げる。

 ニコニコ顔の和助が毛布を手にしながら近づいてくる。マットレスを買わされるのかと伸江は緊張する。

「光ちゃん、おおきにな。これもって帰ってや」

和助は伸江に毛布を渡す。

「わし、これから集金にまわらんならん。これで失礼するでな。また暇が出来たら寄らせてもらうでな」

 客を送り出した4人が近寄ってくる。

 霧島は深々と頭を下げる。

「今日はお忙しいところ、ありがとうございました」他の人も右に倣う。

 マットレスを買えと一言も言わないので、伸江はホッとする。


 沢山の荷物を手にしながら、光一と伸江は帰り道を急ぐ。景品と言っても大したものはない。雑貨を扱っているから価値はよく判る。

 光一の顔はまだ陶酔をさ迷っているようだ。

「あなた・・・」伸江は光一に呼びかける。

「これ、催眠商法ね」

「催眠?」光一はそれ何と言った顔になる。

 しばらく沈黙が続く。

「マットレスがあんなに売れるとはなあ」光一は感心している。伸江は呆れ顔で夫の顔を見る。言うべき言葉が無かった。


 夜8時、光一が伸江の酌で一杯やっている所に、霧島と、受付にいた若い男が入ってくる。

「今日はどうもありがとうございました.これはほんのお礼でして」

 若い男が持ってきたマットレスを堀コタツの横に置く。

「こんな高価なもの、頂く義理はありませんわ」伸江は辞退する。

「いえいえ、今日来ていただいて、お客様の中には大勢、石井さんを知っておりましてな、お陰で沢山契約がとれました」

 話を聞くと、会場に来た人は56名、毛布をもって帰った人は55名だったが、結局マットレスを買った人は38名、家の者から要らないからと言われたのが17名で毛布の返品があった。自分達は押し売りではないので、無理な契約はしない。

 石井和助やあなた達ご夫婦のお陰でこれだけ売れた。通常は20台前後のマットレスが売れるのみ。

 もっとも売るのが目的ではないが、売れればそれにこした事はない。

「和助おじさんは?」光一が尋ねる。

「明日から岡崎で販売促進会をやる事になっているので、その準備に出かけています」

 光一は2人の男に一杯勧める。

 霧島は石井雑貨店の売り上げの現状について尋ねる。

 光一は店の経営は先細りで、食っていけないから、配達の仕事をやっていると答える。

 霧島は言葉巧みに、自分の会社の事を話していく。

 社長は苦労人で、健康マットレスの開発に多額の資金と5年の歳月を費やしている。

 本社は大阪で、今、東京と福岡、仙台に支社を設けている。3ヵ月前に名古屋に支社を設立。岐阜や三重県、関市、その他、1週間に1度の割で販売促進のキャンペーンをやっている。

 キャンペーン中の売り上げは、20台平均。定価30万円のマットレスだが、宣伝の為に20万円で販売している。自分達の給料や景品、会場費などを差し引くと、利益はほとんど無い。

 むしろ――。霧島は語気を強める。

 販売促進のキャンペーであっても、1台20万の売り上げの中から、販売代理店には3万円を差し上げている。

 10月は岡崎の予定だったが、石井和助のたっての願いで、常滑で行う事になった。

 岡崎ではすでに販売代理店が決まっている。販売代理店の応援の為に販売促進のキャンペーンを行わねばならないのだという。

 光一はうっとりとした顔で聞き入っている。

 伸江は気が気ではない。いつ代理店をやりたいと切り出すかと、不安な表情で夫を見ている。

「その販売代理店ですが・・・」

 案の定、光一は7・3に分けた髪をゴシゴシかきながら尋ねる。伸江はしっかり者だが、根は小心者だ。夫を立てるというよりも、しゃしゃりでて、旦那を尻に敷いてると言われたくないのだ。伸江は黙ってこの場を見守るしかない。

 霧島は光一の質問を待っていたかのように喋り出す。

 販売代理店は1つの町や市に対して、販売権を確保する。1つの地域に対し販売権利金として50万円を支払ってもらう。もっとも、人口密度にもよるので、その辺は調整しているが、大体人口4万人から5万前後の市や町を1つの地域としている。

 常滑市で販売代理店になると、半田や知多市で販売促進のキャンペーンが行われるとして、マットレスの契約者が常滑の人と判れば、1台3万円の権利金が支払われる。

 将来、販売代理店をやめれば50万円はお返しする・。

 我々としても代理店に損をさせては会社としても成り立たないから、販売促進のキャンペーンなどを通じて市場の拡大を図っていく。

 同時に、今後、健康マットレスの他に、浄水器、空気清浄機その他、健康に関する商品の開発中である。

 それらも市場に送り込んで、代理店さんに儲けてもらうよう努力している。

 石井光一はいちいち頷きながら、うっとりした顔つきで霧島の分厚い唇に見入っている。

「マットレスは30万円と聞いたが、代理店への卸値は?」

「百台までは15万円。それ以上の仕入れになれば12万円ですが・・・」

 ただしと、付け加える。販売代理店になってもらうには、最低5台購入してもらう。これは販売代理店契約が複数になっても同じだ。

 光一は言っている意味が飲み込めないのか、眉を顰める。

 霧島は光一の心中を察して微笑する。

「つまりですね・・・」

 常滑市だけの販売代理店でも5台、常滑市、半田市、知多市、東海市の5市の地域の販売代理店になってもらっても、最低5台は購入してもらうという意味だ。

 「1ヵ月に何台売らねばならぬというノルマは?」

「1年間に最低でも10台は売っていただきたいが、ノルマではありません」

 霧島は言葉を続ける。

 1年間に10台しか売れないというのは、その地域に売れない何かの特殊性があるか、あるいは販売代理店の営業努力が不足しているかのどちらかと見る。

 売れない原因を究明して、代理店が売る努力をしていないと判断した場合は代理店をやめてもらう。無論権利金は返す。

 その地域の特殊性で売れないと判った場合は、会社の責任で、我々が売る努力をする。

 伸江ははらはらした気持ちで夫を見ている。光一は乗り気で身を乗り出している。

「契約はどうしたら」光一の口から決定的な言葉が飛び出す。

 霧島は1歩身を退く。

 自分は代理店募集の為に来たのではない。1度このマットレスを使ってみて、その上でよかったら、名古屋支店に来社していただきたい。支店長から詳しい話を聞いて欲しい。

「代理店の募集はしているのでしょう」

 霧島は若い男に目で合図する。

 若い男はカバンの中から、3冊ばかりの経営や店舗関係の雑誌を取り出す。コタツの上に拡げてみせる。そこには新和興業の販売代理店募集の広告が載っている。こういう方法で募集しているのか、光一は感心している。

 応募の反応はあるのかという光一の問いに、若い男は、全国的規模だがと前置きして、1ヵ月に15軒ぐらいという。

・・・1年に180軒、1軒の権利金が50万円として、年間9千万円・・・

 光一は計算だけはしっかりしている。


 9時半、霧島たちが帰った後、光一はテレビに見入っている。2人の子供はすでに帰宅して2階の自分の部屋に籠っている。

 昔は家族4人でコタツを囲んだものだった。今、子供達は5時か6時ごろに帰宅早々夕食を済ませると、サークル活動だの、クラブ活動だのと言って出かけてしまう。たとえそうでなくてえも、父親の愚にもつかない自慢話や失敗ばかりしている商売の話は聞きたくないのだ。

 子供達に疎んじられている事は、光一も薄々気付いている。色々な事に手を出して失敗しても、いつか大成して、さすが父ちゃんと言われたい。前途不安な石井雑貨店を大きなチエーンストアにしたい。残された人生で光一に残された夢はこれだけしかなかったのだ。

 自分では夢を語っているつもりでも、妻の伸江には、壊れたレコードのように、愚痴の繰り返しにしか聞こえない。気が小さいくせに、思いつめたら諦めない。

「ねえ、伸江、このマットレスの話、どう?」

 そらきた、と伸江は夫を見る。販売代理店をやりたいのだ。自分勝手にやればよいものを妻の同意を求めようとする。反対してもやりたいくせに・・・。

 伸江は腹の中で呟く。

「どうって、何?」伸江はわざととぼける。

「代理店の事さ、いい話じゃないか」

「良いかどうかは、やってみないと判らないと思うわ」

 伸江は意地悪く反対する。光一の顔はたちまちの内に曇る。

「お前はなあ、気持ちがひねくれているんだ」したたかに酔っているので感情のブレーキが利かない。また一杯入っていないと、こういう話はしない。

「もうちょっと、相手の言う事を素直に信じたらどうだ」

 伸江は小さい時から辛苦の中で生きてきている。夫の言う様なうまい話などないと思っている。必ずどこかに落とし穴がある。今まで何度も落とし穴に落ち込んでいるのに、いまだに懲りないのだ。かと言って、面と向かって夫にたてつくつもりもない。貧しい出の伸江を、亡父、石井真一が拾ってくれたのだ。その恩義がある。

「とにかくマットレスを使ってからにしたら」

「もちろん、そうするつもりだ」

 光一は面子を立てることが出来て、矛を収める。

「明日名古屋に行ってさ、よく聞いてくるわ」

 光一はそれだけ言うと、寝室に入っていった。

 後に残った伸江は跡片付けをする。彼女の頭の中にはこれから起こるであろう被害を、いかにしたら最小限に食い止める事が出来るかの思案が目まぐるしく働くのだった。

 翌朝9時、霧島から貰った名刺を見ながら、光一は新和興業名古屋支店に電話を入れる。午前中に来社する事を伝える。了解を取ると、運送会社の方には、昼からの配達を伝える。

 新和興業名古屋支店は、名古屋駅東口のビル街の中の中小企業センタービルの南横の5階建ての3階に事務所がある。入り口のドアを開けると20帖の広さがある。思っていたよりも広い。カウンター越に、10余りの事務机が並んでいる。右手に間仕切りで仕切られた応接室がある。左手に支店長室のプレートが付いた間仕切りの部屋がある。

 カウンター越に受付の女の子が頭を下げる。

「今朝電話した石井光一だが」と用件を述べる。

「受け賜わっております。こちらへどうぞ」受付の女の子は紺の制服姿である。石井を応接室の1つに案内する。時計を見ると11時である。事務机の前には誰もいない。壁に棒線グラフの紙が貼ってある。営業社員の売り上げを示しているらしい。その横に社訓のような標語が掲げてある。

 応接室に案内されてソファの腰を降ろす。

「直に支店長が参ります」受付の女の子は応接室のドアを閉める。すぐにお茶を持ってくる。入れ替わりに支店長が入ってくる。

 恰幅が良い。どことなく石井和助に似ている。大柄な身体と、ドングリのような頭と太い眉である。和助の違い、品が良く、穏やかな表情をしている。

「この度は大変お世話になりまして、有難うございます」深々と挨拶をする。石井光一は小柄な体で、慌てて立ち上がる。

「こっちこそ、結構な物をいただきまして」バッタのように頭を下げる。

「さっ、どうぞ」支店長は手刀を切るように、手を差し伸べる。石井に腰掛けるように促す。石井は恐縮して座る。

 支店長はゆったりと腰を降ろすと名刺を取り出す。

――新和興業名古屋支店、支店長、浜島徳一――

「すみません、私、名刺を持っていないもんですから。石井の弁解を支店長は微笑して聞く。

「和助主任とは、幼い頃から仲良しとか・・・」

「仲良しという程ではありませんが、おじですから」

 支店長はふくよかな顔に笑顔を絶やさない。太い眉の下の大きな眼が光一を見下している。威圧感はない。親しみのある表情だ。もともと寡黙なのか、引き締まった唇を一文字に結んだままなのだ。

 仕方なく、光一は和助の事、今日ここに来た理由などを述べる。支店長はいちいち頷きながら聞き入っている。

 30分位たった頃だろうか、受付の女の子がコーヒーを持って入ってくる。

「さっ、どうぞ、やった下さい」支店長は手刀を切る。光一は自分の言う事を喋るだけ喋る。ほっとして、コーヒーを口に運ぶ。

 石井光一がコーヒーを飲み終わるのを待って、支店長は口を切る。あなたのお店の景気はどうか、息子さんの将来とか、石井の身辺の事ばかりだ。販売代理店の話が出てこない。

「実は・・・」石井はたまりかねたように、話を切り出す。

「そうでしたね」石井さんのお話に関心がありましたので、失礼しました」

 支店長は応接室のドアを開けるおt、受付の女の子に書類を持ってくるよう声をかける。

「ごらんの通り、皆、出はらっておりまして・・・」

 受付の女の子が書類の入った封筒を持って入ってくる。支店長はそれを受取ると、中の書類を取り出して、テーブルの上に並べる。

「霧島課長からお聞きになったと思いますが・・・」

 石井光一は頷く。聞いた事を全て話す。その上で「お願いが・・・」と付け加える。

 販売代理店の地域は常滑だけでは物足りない。出来たら半田、武豊、知多市、東海市と阿久比町ぐらいは加えてほしい常滑を含めて6地域になるので、1地域50万円の権利金として、3百万円になるが、マットレス1台の購入価格15万円として、5台分で75万円、占めて3百75万円の資金が必要になる。今手持ちが3百万円しかない。何とかこれだけの金額でお願いできないか――。

 石井は売る事が下手でも、値引きの交渉は上手い。腰も低い。態度も柔らかい。相手は石井の粘り腰に負けて要求をのむことになる。

 支店長は、ドングリのような顔の大きな眼を一層大きくする。あきれた様に石井を見ている。 

 石井の上ずった声を、一応聴き終わると微笑する。

「よく判りました。石井主任の甥御さんですし、主任からも、本人が来社してきたらよろしく頼むと言われておりますし・・・」

 ただし石井光一の要求をそのまま飲み込むことは出来ない。6地域の権利金と、マットレス5台分で3百50万円で手を打ってくれという。

 石井はそれでよいと頷く。

 霧島課長から聞いたと思うが・・・。支店長は念を押す事を忘れない。

 販売代理店をやめた時、権利金は返却するが、半年後になる。

 それに――と、支店長の顔が厳しくなる。

 1地域に1回は販売促進のキャンペーンをやるが、それを当てにしないで欲しい。確かに1台売れれば3万円の報奨金を支払うが、実質赤字なのだ。定額30万円のマットレスを20万円で売って、しかも仕入れ価格3万円の毛布を景品として差し上げている。その他多くの景品を無料で配り、5名の社員の給料も支払わなければならない。その上に報奨金を支払うのだ。

 私共の会社はまだ小さく、無名だから、宣伝の意味で販売促進のキャンペーンをやっている。それを期待してもらっては困る。あくまでも自分の力で打って欲しい。

「どうです。やれますか」一瞬、支店長の眼がギラリと光る。

 ここまで来た石井光一は引っ込みがつかない。やるしかないと腹をくくるが、売り方については不安が残る。

「自分で売ると言っても、飛込でもしなきゃいかんですか」

 支店長の顔が柔和になる。

 販売代理店契約と同時に、1地域につき、1万枚の新聞折り込み、つまりチラシを提供する。折り込み料はそちら負担だが、販売代理店さんの話では、これだけで、月に3台から5台、多い時には10台はさばけるとのことだ。

 あとは買ってくれた人の口コミ、3ヵ月から4ヵ月は苦しいと思うが、キャンペーンでの売り上げの1台3万円はそれを乗り切るための、私どもの誠意と思ってほしい。代理店さんが栄えてこそ、私どもも栄える事が出来る。

 こう言う話には、石井光一は弱い。人を疑わないというより、教祖の言葉を無批判に信ずる信者のように、陶酔した表情で聞き入っている。

 伸江は甘い話には必ず裏があると信じている。夫にその事を話すと、お前は気持ちがひねくれていると怒り出す。自分のやる事をけなされて、露骨に嫌な顔をする。そのくせ、妻に同意させようとする。


 支店長の巧みな言葉に、石井光一はうっとりしてる。小柄で丸顔の石井は、好き嫌いの表情が数津に出る。警戒心もない。良く言えば無邪気、悪く言えば馬鹿丸出し。色々なセールスマンから何度騙されたか判らない。

 馬鹿は死ななきゃ治らない――この言葉は石井光一のためにある様なものだ。


 支店長の大きな眼は石井光一の表情を読み切っている。

「よろしいですか、石井さん、知多半島のほぼ全域の販売代理を、あなたにお任せしますが、要はあなたの力で売る努力をしてほしいんです」

 石井は自分がベテランのセールスマンになったような気分に浸っている。その石井の顔を見て、支店長は見せたいものがあると言って立ち上がる。

 ドアを開けて、どうぞと手刀を切るように、石井を支店長室に案内する。支店長室は広々としている。応接用のソファやテーブル、支店長用の大きな机が並んでいる。

 壁には棒線グラフの紙が貼り付けてある。10名の社員の名刺と日程表まである。

「石井主任のところを見てください」

 石井和助は霧島課長と3名の若手社員と一緒に行動している。

 今日から3日間は、岡崎、その次の3日間は蒲郡、その次は豊橋、その次は・・・、実に2ヵ月間のスケジュールがびっしりと組まれている。

 棒線グラフの石井和助の9月の売り上げが25台となっている。5名で販売促進のキャンペーンを行うにしても、売り上げは個々に配分し合っているらしい。

 私共が名古屋に来て、まだ日が浅い。その為に社員が一丸となって奮戦努力している・代理店募集も、他に5名の社員が夜遅くまで走り回っている。

 支店長は石井に、ソファに腰を降ろすよう、手刀を切って促しながら言う。内ポケットから煙草を取り出す。石井に1本どうかと勧める。石井は煙草は吸わない。

 支店長は気持ちよさそうに、胸の奥まで煙を吸い込む。フーと口から吐きす。

「ただ――、ですね、石井さん」念を押す様に言う。

 現実を言うと、販売代理店になったからと言って、誰もが成功するとは限らない。辞めた者も少なからずいる。仕事には相性というものがある。

 1地域で1年間10台は売り上げてほしい。6地域だから年間最低でも40台から50台は売り上げを確保して欲しい。それが達成できなければ、販売代理店はやめてもらう。それか、どうしても代理店を続けたいというなら、我々が経営に介入する事になる。1台の売り上げにつき、3万円のリベートを頂戴する事になる。

 石井はその条件は願ったり叶ったりである。

実際問題、やってみない事には、売れるかどうか判らないのだ。プロの力で売ってもらった方が、たとえ3万円取られたとしてもその方が良いのだ。

 石井は支店長の説明に納得する。

 後日契約の日を連絡すると伝える。支店長は慌てなくても良いから、家族とじっくり相談してくださいという。

 帰りは名鉄百貨店で買い物をして、常滑に着いたのが昼の3時を過ぎていた。

 夕方7時半まで配達の仕事をする。


 その夜の晩酌に、石井光一は心地よく酩酊した。。

 妻に、今日、新和興業名古屋に行った事を話す。

 支店長は石井和助とよく似た大柄な人だが、品もあり信頼するに足りる人だとほめる。

 自分としては、是非販売代理店をやりたいが、どうかとうっとりとした眼つきで言う。

 伸江は良いとも悪いとも言わない。どうせ反対したところでやるに決まっている。独断でやって、失敗して後で恥をかくよりも、家族の同意を得てやって、万が一にも失敗したとしても、自分だけが恥をかく必要はない。

 こんな妙な理論が夫の心の中に巣くっている。要は妻がやると同意したからやったのだと呆れるような言い逃れだ。妻とは一心同体なのだと確信する事で、多額のお金を投入する不安を少しでも和らげようとする気持ちがある。

 伸江の心の内を知ってか知らずか、光一は酔いに染まった真っ赤な顔で喋っている。普段は無口なくせに、晩酌の時は能弁になる。外で飲む時は、専ら聞き役なのだ。

 今回もお金が4百万円近くかかると聞いて、伸江は暗然とする。そんな大金出せる訳がない。気持ちを引き締める。

 過去20数年、間こんな事の繰り返しだった。父の信一が生きていた頃は、息子の不始末の尻拭いをしてくれていた。父亡き後、さすがの光一も慎重になった。と言っても、麻薬みたいなもので、回数が減ったにすぎない。

 被害は多くて50万円ぐらい。3~4年に1度の事だから仕方がないと諦めもしてきた。

 今回は額の桁が1つ違う。1年間の店の利益と夫の配達の収入に匹敵する。

 時計は9時を回っている。子供達はまだ帰ってこない。

「もう1本いきますか」伸江は酒を勧める。

 名古屋で余程良い話を聞いてきたのであろう。。酒の力を借りて、妻を口説こうとしている。素面の時では、面と向かって話を切り出さない。大きな金が出ていくのだ。後ろめたい気持ちがあるかのように、眼を伏せて話をする。そのくせねちねちした話し方で、妻がウンと言うまであきらめない。

「いや、今日はもうええわ」珍しく切り上げる。お茶を飲んで酔いを醒まそうとする。

 伸江はテレビの方を向いたまま、何も言わない。

「代理店をやるが、ええんだな」

 光一は念を押す様に言う。伸江はゆっくりと夫の方を向く。

「あかんと言っても、やるんでしょう。やりたければ自分でやって、家の金は使わないでね」

 父亡き後の石井家の家計は伸江が握っている。しっかり者の伸江は2人の子供が独立するまでは夫に憎まれても、頑張らねばと考えている。

「自分でやれとはどういう事だ。家の為にやるんだぞ」光一の眼がぎらつく。

「あなたがやれと言えば、私も協力します。ただ、お金は出せないと言ってるんです」

 妻の思わぬ反撃に、光一はたじたじとなる。いままでこんな口調で言われた事がないのだ。

 「お前・・・」妻の意外な面を見せられて、おろおろする。

「いいですか、和子はもう年頃ですよ。良一も来年の春には卒業ですよ」

 伸江は一歩も引かぬ構えで夫を見る。声に力が漲っている。

 夫が和子の結婚相手を探している事は知っている。嫁がせるにしても、石井家としては、後ろ指を指されたくない。娘にも恥ずかしい思いはさせたくない。結納金も嫁入り道具もそれ相応に用意したい。

 良一だとて、夫は大学に行かせたと望んでいる。その生活費や学費とて馬鹿にならない筈だ。

「あなた、今の我が家、一体いくらあると思ってるんですか」伸江の声が鋭くなる。

 屋敷だとて、築百年以上たっている。屋根瓦の痛みも激しくなってきている。

「瓦だって、もうそろそろ葺き替えしなきゃならないですよ。判っているんでしょう」

 妻にそこまで言われて、光一は何も言えない。一家の大黒柱として、やるべきことはやらねばならない。

「あなた、自分のお金、持っているんでしょ」

 妻に指摘されて、光一は大きな眼で伸江を見る。口を開けるが、言うべき言葉が出ないので、口を閉じる。


 結婚して間もなく、伸江は何回となく代理店募集という誘いに身を乗り出す夫に振り回されて辟易してきた。それを省けば良い夫と信じている。

 常滑市内に大型のスーパーが出来るに従い。店の売り上げは減少している。それをカバーするために、大手運送会社の常滑営業所から、市内の小荷物配達の仕事を引き受けている。責任感が強く、言われた事は、キチンと済ます。

 競艇やパチンコのような賭け事はやらない。誘われて一杯飲み屋による事があるが、3ヵ月に1回ぐらい。後は年に1度の同窓会に誘われるだけだ。

 毎晩、家で晩酌をやる程度だ。1合から2合くらいで、酒は〝鬼殺し”で充分。灘の特級酒などと贅沢な事は言わない。

 買うものと言えば〝経営”に関する月刊誌位なもの。

 問題なのはその本の広告に出ている代理店募集なのだ。代理店や販売店についての資料を取り寄せる。眼を細めて読み漁る。

 店の売上金には手を出さないし、配達でもらってくる給料袋も封を切らずに手渡してくれる。夫への月々の小遣いは5万円、時たま喫茶店でお茶を飲むくらいなので、小遣いは1万円もあれば足りると、伸江は読んでいる。


 俯いていた光一は、「判った、4百万円は自分で出す。それなら文句ないな」

顔を上げて宣言した事だ。

 今度は伸江が目の玉を大きくする番だった。

 夫が金を持っているとしても百万から2百万円までと踏んでいた。

・・・そんなに持っていたのか・・・

 言い出した以上は何も言えない。勝手にしろ、心の中で吐き出したものの、釈然としない。百万円でいいから家の中に入れてくれたらどんなに有り難い事か・・・、

 そんな時、子供達が帰ってくる。階段を上がる足音がする。

「さっ、片付けますよ」伸江はさっさと立ち上がる。コタツの上の食器類を台所に運ぶ。

 光一は丸い顔をつるりと撫ぜて、奥の寝室に引き込む。


 10月9日、新和興業名古屋支店から、浜嶋支店長が中年の頭の中央の禿げあがった男を伴ってやってきた。

 朝10時、まず5台のマットレスが奥の倉の中に運び入れられる。店の奥で販売代理店契約が交わされる。

 3百50万円が支払われる。5万枚の新聞の折り込用のチラシが渡される。全ての契約に関する行為が終了する。

 伸江がコーヒーをもって入ってくる。伸江は夫がどういう内容の契約を交わそうと口を出さなかった。

「長野君、名刺を」支店長に催促されて、光一と伸江に名刺を差し出す。

〝販売代理店促進課、課長、長野定一”

「これから長い付き合いになると思います。何か用があれば、長野をよろしく」

 浜嶋支店長は品の良い顔に微笑をたたえる。

 「今後ともによろしくお願いします」長野課長は、禿げ上がった頭を光一と伸江に向けて頭を下げる。小さな眼をしきりにパチパチさせる。眼が痛いのか、あるいは癖なのか、眼の周りを指で撫でている。実直そうな感じである。無口なのか、ほとんど喋らない。

 光一が話しかけると、大袈裟に頷いて覗き込むように見る。

 光一は妻の方をチラリとみる。

・・・信頼できそうじゃないか・・・光一の表情を読み取る。

・・・人は見かけでは判らないわ・・・伸江は夫を見返す。

 伸江の気持ちが光一に伝わったかどうかは明らかではない。

 新聞折込のチラシの束の中から1枚取り出して、光一に見せる。販売代理店として、石井雑貨店の名前と住所が入っている。

「6万枚の予定でしたが、石井主任からのたっての願いで、8万枚持ってきました」

「それはどうも・・・」石井光一は浜嶋支店長に頭を下げる。

 伸江はこれで自分は用済みだと思って奥の座敷に消える。

「石井さん、1つご注意申し上げますね」

 支店長はチラシの束の上に、きちんと両手をそろえる。

「このチラシを1回や2回新聞に入れたからと言って、すぐに効果が現れると思わないでくださいね」

 大きな眼を石井に注いでいる。言葉が続く。

 会社も商品も知名度が低い。良い商品だからと言っても、必ず売れるとは限らない。知名度をアップするために、あちらこちらで販売促進のキャンペーンをやっている。3ヵ月か4ヵ月先になると思うが、知多市か東海市でキャンペーンをやるつもりだ。しばらくは辛抱が肝心だ、

 石井は支店長のにこやかな顔を信じて、大きく頷く。最初から10台も20台も売れるとは思っていない。3ヵ月から4ヵ月で5台入れれば良い思っている。

 それから長野課長の商品説明が行われる。パンフレットを見ての説明だから簡単なものである。長野課長はしきりに眼をパチパチさせて、陰に籠った声で喋る。30分で説明が終わる。

「お店の中に、マットレスがズラリと並ぶようになると良いですね。支店長は煤けた天井や黒光りした柱を見る。蛍光灯があっても、店全体は薄暗い。

「儲けたら、お店を改造されると良いですね」

「私もそうしたいと思っています」

 伸江がお茶を持って入ってくる。

 支店長は急に話をやめる。この話に伸江が賛同していない事を察知しているようだ。

「奥さん、我々も精一杯頑張りますから、これからもよろしく」支店長は頭を下げる。

「こちらこそ」伸江は相手に対して不愉快な態度はとらない、愛想よく深々と頭を下げる。


 浜嶋支店長と長野課長が帰ったあと、百冊くらいあるパンフレットを伸江に手渡す。

「これを知り合いの所に配ってや」

 伸江は黙って受け取る。

毎度の事だが、夫は決して自分で売り込みはしない。挨拶回りは伸江にやらせる。自分は店に座ったまま、買い手が現れるのを待つのみ。

 たとえ夫の金でも、3百50万円をはたいている。1台でも売り上げて、被害を最小限に食い止めねばならない。このマットレスで成功するとは思っていない。

 光一は昼から配達の仕事に出かける。伸江は店を閉めて、知人、親戚などにパンフレットを配って回る。

「30万もするだかな。エライ高いもんだなあ」

 一応に驚きの声が漏れるのみ。マットレスの価格の高さもさることながら、こんな海のものとも山のものとも判らぬものに手を出した石井雑貨店への驚きもある。

 軽四に乗って、半田市、知多市まで出かける。4時頃までに40冊ぐらいはさばける。

 マットレスを見たいとか、興味があるという人は皆無、ましてや買おうという人は絶無である。

 知人や親戚だから、一応話は聞いてくれる。これが赤の他人だったら、玄関先で追い払われるのがオチである。

――失敗――の2文字が脳裡に鮮やかに浮かび上がってくる。

「反応はどうだった?」

 晩酌の席で、石井光一はせっつくように尋ねる。

伸江は性格上、話を誇張したり、相手の意に添うような話し方はしない。今日1日の反応をありのままに話す。

 話を聞いている内に、光一の顔は渋くなる。誰でも嫌な話は聞きたくないが、事実は事実として受け止めねばならない。光一にはそれが出来ない。

 お前の説明の仕方が悪かったとか、30万円が高ければ今回は特にサービスするから、いくらなら買ってくれるかと言えと、ねちねちと説教する。

 伸江は辛抱強く聞いている。小さい頃から苦労の中で育っている。忍耐力は人一倍強い。それでも言うべく事はきちんと言う。

 光一の愚痴っぽい説教が終わると、

「そんなら、あなた一緒についてきてくださいな」

キッと夫を見据える。余程自分で行って説明して来いと言おうと思ったが、どうせ自分1人では行く勇気がないのだ。

 一緒にと言われて、嫌という訳にもいかない。。気まずい雰囲気になるが、伸江は素知らぬ顔で酌をする。

 翌朝、子供達が出かけた後、

「あなた、今日は武豊のおじさんのところや、友達のところを廻りますけど、一緒にいいですね」

 伸江は念を押す。光一は仕方なさそうに俯く。伸江は運送会社に電話を入れる。配達の仕事は昼からにお願いしますと一報する。

 夫と共に軽四に乗り込む。助手席の光一は終始無言である。

 武豊のおじさんとは、伸江の母の兄にあたる。今年70歳を超えているが、庭いじりや近所を散歩するなど元気がいい。水越宗一といい、中学を出て、水越建築の大工見習になる。28歳の時、請われて水越家の養子になる。

 長男夫婦と3人の孫と、連れ添いのばあさんの7人暮らし。長男は大工を嫌い、地元の大手製鉄所に勤めている。

 家は通称六貫山という、武豊でも一番西よりの高台にある。そこからは伊勢湾や三河湾が見渡せる。5年前に自分の最後の仕事として、自宅を建て替えている。

「伸ちゃん、あんたとこも建て替えるなら、ええ大工紹介したるでな」そういわれて久しい。

 伸江には何でも相談できる頼もしい味方なのだ、が今回の事については、迷惑を掛けるだけになるかもしれないと心苦しく思うのだった。

 水越家は百坪の敷地に、総2階の入母屋、60坪の建物である。

 突然の訪問である。平日とあって、おじさんとおばさんしかいない。子供達は学校で、長男は会社、若奥さんはスーパーに買い物に出かけている。

 木の香りもかぐわしい14帖の応接間に通される

「おじさん、今日、ちょっと相談に来たの」

 伸江は、おばさんがお茶を運んで、おじさんの側に腰を降ろすのを待って、健康マットレスについて話す。

「あなた、説明して」

 伸江は後ろに控える夫を促す。

 光一は今日ばかりは背広にネクタイ姿である。彼は伸江よりも背が低い。かしこまって座っている。緊張しているのか、おじ夫婦にペコリと頭を下げるのみ。小さな体が余計小さく見える。

 光一は伸江に促されてパンフレットをテーブルに拡げる。パンフレットを見詰めたまま、小さな声で、マットレスの説明を行う。うつむいたままで、おじ夫婦の方を見ようともしない。

 おじは呆れた顔で伸江を見る。

・・・おじさん、ごめんなさいね・・・伸江は胸の内で両手を合わせて、眼でおじに詫びる。

・・・わかったよ・・・おじの顔がかすかに頷く。

 おじ夫婦は最後まで黙って聞いてくれている。光一は説明が終わると、また引っ込み思案のように俯いてしまう。買ってくれとも、何も言わない。

「おじさんこのマットレス、どう?」伸江は仕方なしに口を切る。

「買ってやりたいのはやまやまじゃがなあ・・・」

 白くなった眉を撫でる。

「伸ちゃん夫婦のことじゃから、あけすけに言った方がよかろうて、なあ、ばあさんや」

 隣のおばさんに同意を求める・

 一言でいえば、30万円という値段は高すぎる。健康か何かは知らないが、気安く買える値段ではない。

 4~5万程度の物なら、お義理で買っても良い。が、その値段では2の足を踏む。それに息子夫婦にすすめられて、家族みんながベッドを買ってしまっている。今更買えと言われても、いらないものはいらないというしかない。

 ただ――、欲しい人がいるかも知れないから、パンフレットを置いて行ってくれ、紹介するからというのもだ。

 伸江は数冊のパンフレットを置いていく。まだ回らねばならない所があるからと断って、夫を促して退場する。

 軽四に乗り込み、六貫山を南に下る。

「富貴の駅前に行きますからね」助手席の夫に声をかける。光一は俯いたまま返事もしない。

 〝武豊のおじさん”の言葉が余程身に応えたのか眉をひそめている。

 伸江はこれで夫が諦めてくれることを願っている。

3百万円の権利金は返してくれるという。損害はマットレスの50万円だ。自分達で使えばいい。

 富貴の駅前に到着。富貴駅は名鉄河和線の特急が止まる所だが、その割にホームが小さい。東西に走る幹線道路の北側にプラットホームがある。年代を感じさせる古い駅だ。

 駅の西側、幹線道路の北側に住宅街が広がっている。その一角に伸江の中学時代の旧友がいる。今日訪問する事は伝えてある。

 20年前に購入した建売住宅に住んでいる。線路と家の間は4メートル幅の道路となっている。軽四を道路の隅に止める。

 玄関のチャイムを押す。同時に6両編成の赤の特急電車が駅に停車する。

 玄関の引き戸が開く。

「房ちゃん、お久しぶり・・・」伸江はにこやかに挨拶する。

「伸ちゃん、お元気?昨日電話もらった時はびっくりしちゃたわよ」

 玄関の上がり框で大柄な眼鏡をかけた房子が、大きな口を開ける。

「まあ、上がりなさいよ。今私1人だけだから、遠慮しないでね」

 伸江は特急電車に見惚れている夫の手を取る。

「あら、旦那さんもご一緒?」

「すみません、房ちゃん、今日、ちょっとお願いがあってお伺いしたの・・・」

「まあ、とにかく、上がって、旦那さんもどうぞ」10帖の応接室に通される。

「コーヒーでいいかしら」房子の声は張りがあって大きい。

「かまわないでね、房ちゃん」伸江は遠慮がちに言う。

「何言ってるの、幼友達じゃないの」

 コーヒーが入る。しばらくの雑談の後、伸江は用件を切り出す。

 房子は眼鏡の奥の大きな眼で真剣に聞いてくれる。いちいち頷いてくれる。無理な話でも親身に聞いてくれるのは有難い。持つべきは友人だと、伸江は感謝している。

 光一は伸江の横で、借りてきた猫のように小さくなっている。伸江の説明が終わる。光一はパンフレットを拡げて、商品説明に入ろうとする。

「旦那さん、ごめんなさいね、説明を聞いても判らないし、それに30万もするものを、買う余裕もないの」房子はハキハキという。

「欲しい人があったら紹介するから、パンフレットを置いて行ってくれる?」

「房ちゃん、ごめんね、無理に押しかけて来て」

「ううん、力になれなくて、こっちこそごめんね」

 話はまた雑談に戻る。

 「そうだ!」房子は思い出したように、大きな声を上げる。

「そういやあ、1人、ベッドが欲しいって、言ってた人がいた。電話で聞いてみるね」

 房子は受話器を取り上げる。プッシュボタンを押していく。

「もしもし、ああ、お啓、私、房子、どう旦那さんとうまくやってる。そう、良かったじゃない。実はさあ、あんたベッドを買うって言ってたじゃない。買った?まだ?そう・・・」

 房子は電話口でにこっと左手の親指と人差し指で丸を作って見せる。

「健康にいいマットレスがあるのよ。常滑のね、昔の友達、そこがさあ、マットレスやっているのよ。話きいたってくんない?いい?じゃあ、今から行かせるから、お願いよ。うんそうね、また一杯やろうよ。亭主の悪口をさあ、肴にしてさあ、じゃあね」

 受話器を降ろすと、房子は住宅地図を持ってくる。場所は房子に家から車で5分位な所だ。

 伸江たちは房子に礼を言いつつ、彼女の家を後にする。目的の家に着く。富貴駅から南西の方向にある団地の中だった。建物も古い。随分昔に開けた団地のようだ。

 玄関のブザーを押す。「はーい」声と同時にドアが開く。伸江は房子から紹介された者だと告げる。歳も伸江と同じくらいだろうか。顔も体もまるまると肥えている。

・・・お相撲さんみたい・・・表現は悪いが、伸江の第一印象だ。

「まあ、上がって・・・」女は2人を和室に招き入れる。

「買い物に行かなくちゃならないの、説明だけにしてね」

 房子の友人でも、伸江から見ると赤の他人だ。警戒心もあるだろう。探るような眼で伸江と光一を代わる代わる見ている。

 伸江は突然の来訪を謝した上で、健康マットレスの簡単な説明をする。

「あなた・・・」伸江は夫を促す。マットレスの構造と、実際の効能は夫が説明する役だ。

 光一はパンフレットを拡げる。パンフレットに書いてある文章を棒読みする。眼は伏せたままだ。

 女は風船のように膨らんだ頬を、ぷっとふくらます。

「ちょっと、説明はそれくらいにして、一体いくらなの」

 イラつく声に、光一は怯えたような眼を上げる。

「30万円ですが・・・」力のない声で言う。

「30万!高いわねえ」

「もうちょっとサービスしますが・・・」光一は口ごもる。

「高い事は判っております。でもそれだけの価値はありますよ」伸江が助け舟を出す。

「ちょっと待ってね」

 女はよっこらしょと、声を出しながら、テーブルに両手をついて、大儀そうに立ち上がる。部屋を出るとすぐにも何枚かのパンフレットを持って戻ってくる。また大儀そうに腰を降ろす。

「これ、ベッドのカタログよ。房ちゃんの友達というから、はっきり言うわね」

 女は豪華なダブルベッドの写真を拡げてみせる。

 これが20万円、これが15万円、と指で写真をつついていく。

「これが30万円のものよ、フランス製・・・」

 販売価格が50万円だという。それを30万円に負けてくれるという。伸江さえ、喉から手が出そうな写真のカタログを見せつけられる。夫のパンフレットのマットレスが貧弱に見える。

 2人は言い返す言葉を知らない。

 来訪を謝して、早々に引き上げる。

「次は上ゲ駅近くの・・・」伸江は車を運転しながら、助手席の夫をチラリとみる。対応してくれた女性たちの返答が余程堪えたのか、俯いたままだ。伸江の声に、寂しそうに顔を上げる。「もういい、帰ろう」ポツリと言う。

 伸江は何も言わない。。黙って常滑方面に車を走らせる。

これで懲りてくれたらと願うばかりである。夫に言いたい事は山ほどあるが、言えばむきになるだけだ。

 自宅に着くまで光一は何も喋らない。家に着いても黙って車を降りる。昼食を黙々と済ます。昼からの配達の仕事も無言で出かける。

 店にはどうせお客はこない。伸江は店を閉めて、武豊の知人宅を回る。事情を説明してパンフレットを置いていく。

 その日の夜一杯やりながら、夫は「新聞の折り込みをいれる」ポツリと漏らす。1合飲んだだけで、9時には布団にもぐりこんでしまう。

 後片付けしている内に、娘の和子が帰って来る。しばらくして息子の良一も帰ってくる。

「母さん、マットレスの方、どうだった」子供達も気になるらしい。

 伸江は今日に出来事を話す。和子が声をひそめて言う。寝ているとは言え、父に聞こえるとまずい。

 和子は結婚を前提に付き合っている人がいる。伸江にだけは打ち明けている。光一に言えば反対されるに決まっている。光一は名古屋の知人に、玉の輿に乗れる相手を探してくれるよう依頼している。

 和子はすらりとした美人である。信用組合に勤務している関係上、接待マナーを心得ている。お茶やお花も一通り身に着け得ている。勘も良い。中堅企業の御曹司と一緒になっても、見劣りはしないと、光一は評価している。

 金持ちに嫁がせれば、石井家も鼻が高いというものだ。

 良一も、来年高校を卒業すると、就職を希望している。

 2人の子供の人生進路を光一は知らない。

 息子を名古屋の国立の大学に入らせるつもりでいる。

 2人が小さい頃は家族全員でコタツを囲んで食事をしたものだ。それがいつの間にか、伸江と光一だけになっている。2人の子供は父に見切りをつけている。相談相手はしっかり者の母親だけである。


 10月下旬の土曜日、石井光一は常滑市内全域に新聞の折り込み広告を入れる。枚数は1万5千枚。

 電話番は伸江に任せられる。1日目、反応なし.2日目、1人電話があったものの、商品説明を聴くだけで終わる。 

 4日目、多屋の公民館近くに住む男が、眉間に皺を寄せて店に入ってくる。朝の9時とあって、光一も店にいた。

「光ちゃんよう、あんたとこ、このマットレスの販売をやっとるだかや。チラシ見ただがや」

 不機嫌そうにチラシをひらひらさせながら、店の上り框に腰を据える。何事かと聞けば、多屋公民館でのキャンペーンで、おじいちゃんがマットレスを買ったという。おじいちゃん、沢山のお土産が貰えると喜んで公民館に行った。毛布やら、手に余るような景品をビニール袋に詰めて帰ってきた。只でもらえたとほくほくしている。

 夕方、霧島とかいう、図体のでかいやつが、マットレスを持ってきた。

「わしらあ、びっくりしてなあ、何だあこりゃと大騒ぎになっただがや」

 霧島の奴、契約書をひらひらさせて、20万円出せと迫る。おじいちゃん、奥でおろおろしている。

「こんな高けえもの、買えるわけねえがや」

 男は太い眉の下の眼を怒らせる。

「おらあなあ、けたくっただがや」

 霧島の奴、ニコニコ顔をこわばらせやがった。

 契約書を俺の眼につきつけやがった。そこには代金を支払わなかった場合は、法的手段に訴えられても文句はいわないと言うような事が書いてある。

 クリーンオフ制度がある事は知っていたので、俺はよっぽど言ってやろうかと思った。

 霧島の奴、俺を睨みつけやがった。「これ以上事を荒立てると損ですぜ」

ぞっとするような凄みのある声だった、あの時、いらんと突っぱねていたら、20万円は払わずに済んだかもしれんが、俺はこいつはヤクザだと思ったんだ。怖くなって黙って金を払っちまったんだ。

「光ちゃん、マットレスを買わされたものに、ようきいてみなよ。みんな泣いとるだぜ。ありゃ、詐欺だがや」

 詐欺と言われて、光一は真っ赤になる。男の気迫に押されて俯いてしまう。

 男は言いすぎたと思ったのか、

「そりゃ、磁石が体にいいって事は判るがな」

 伸江は男にお茶を出しながら、ペコぺコ頭を下げる。

 男は石井和助の事も知っている。この善良な夫婦は、おじの和助に騙されたのだろうと考えている。

 男は言うだけ言って、鬱憤が晴れると、声も穏やかになる。

「光ちゃん、あんなもん売ってたらやけどするで」

男はお茶を飲み干すと店を出ていった。

 伸江と光一は男の後姿を見送って、身じろぎもしない。薄暗い店の中だけが、時間が凍りついている。

 柱時計が10時を打つ。光一は黙って立ちあがる。  

「配達に行ってくる」ポツリと言うと、重たげな足取りで店を出ていく。


 11月、12月、翌年1月上旬と、新和興業から貰ったチラシ広告の全てを新聞の折り込み広告に投入する。

 知多市、半田、武豊と人口密度の高い所を選んで入れたが、反応なし。チラシには価格が書いてない。詳しくは販売代理店までお問合わせをしか記入されていない。

 30万円では高いという声があったら、20万円にするつもりだった。1軒の電話もないのでそれも無駄に終わる。

 石井光一は、価格はともかくとして、健康マットレスの品質は信じている。ここまで来た以上信じなければならないと思っている。

 夫婦の会話でも、マットレスの事は出てこなくなった。晩酌の時でも、光一は伸江の酌を受けながら、テレビに見入るのみだった。伸江も夫が言い出さない限り、マットレスの事は口にしなかった。


 平成8年1月中旬、石井光一は新聞の折り込み広告の反応がない事を確かめると新和興業名古屋支店に電話をする。電話口に出たのは長野販売代理促進課長である。眼をパチパチさせる姿を思い浮かべて、石井は新聞の折り込み広告が無駄に終わった事を伝える。その上で、出来るだけ早く東海市か知多市で販売促進のキャンペーンを行ってくれるように頼む。

 電話口の向こうから、長野の重たそうな口調がかえって来る。後2か月くらい待って欲しい。出来るだけ期待に添いたいが、日程が詰まっていると話す。

 石井は4月にはお願いしたいと伝える。

 知人、友人、親類等にばらまいたパンフレットの効果はゼロである。この上は販売促進のキャンペーンをやってもらって、元を取るしかないと思う様になっている。

 2月上旬、彼は半田駅西の国道沿いの指玉家具店に寄る。ここは30年ぐらい前は常滑で営業していた。父の代から取引があり、今でも家具はここで購入している。社長とも顔なじみである。

 社長は石井光一よりも2つ年上の51歳だ。頭部の髪はほとんど抜け上がり側頭部だけがわずかに残っている。金縁の眼鏡をかけ、太った体を大儀そうにソファに横たえている。温厚な顔立ちが親しみを感じさせる。

 応接室に通された石井は、健康マットレスの事を、一部始終話す。社長は面長の顔を石井にむける。真剣に聞いてくれる。

「30万円という値段が高いか安いかは一概には言えませんがね・・・」

 言いながら「1つ言えることは、30万円のマットレスがどの程度の物かお見せしましょう」大儀そうに立ち上がる。

「どうぞ、こちらへ」応接室を出て、2階の売り場に向かう。指玉家具の2百坪はあろうかと見える1階部分はタンスや調度品が展示してある。2階がマットレスやベッドが並んでいる。

「30万円ぐらいでしたら、この程度です」

 社長が指さすダブルベッドは眼を見張る様な豪華なものだ。

「腰を降ろしてみてください」社長に言われてベッドに尻を載せる。固いような感覚だが、威圧感がない。

「マットレスの命はスプリングですのでね」

 社長は石井を手招きしながら、奥へと歩く。1万円のシングルのマットレスが立てかけてある。石井の扱っている健康マットレスとよく似ている。

 社長はマットレスを床に敷くと、寝てみるように促す。石井は言われた通りにする。フワフワで、頼りない感触がある。

「スプリングがね、弱いんですよ」

 社長は側のベッドの上に腰を降ろす。安いマットレスでもスプリングの固いのもある。ただスプリングの質が悪いために、バネがすぐに悪くなる。4年か5年くらいは大丈夫だが、その内にバネが伸てしまう。マットレスの布地を突き破ろうとする。

「まっ、安かろう悪かろうですな」

 店員が「社長、お電話です」と呼びに来る。

「どうぞ。ご自由に見ていって下さい。判らんことは店の者に聞いて下さい」社長は一礼して去っていく。

 石井は店内を廻ってみる。色々な種類のベッドが置いてある。ウォーターベッドがある。価格は10万円。

 シングルのベッドがある、価格は8万円。1万円のとくらべると、外観的には大差がない。

「ちょっとすみません」石井は店内を見回っている若い店員に声をかける。店員は石井が社長の知人と心得ている。にこやかに近づいてくる。

「このマットレスですね。向こうの1万円とどう違うんですか」

 店員は以下のように答える。

 このマットレスはアメリカ製で、特許製品である事、マットレスの中には、直径2センチほどのスプリングがぎっしりと詰まっている。上からの圧力や重圧に対してスプリングが上下に伸縮するようになっている。

 マットレスやベッドは一般的には、網の目のように張り巡らされた針金の内側にスプリングが配置されている。スプリングの数や大きさ、太さなどで、良し悪しが決まる。1万円のものは、スプリングが大きく、数も少ない。

 店員は1万円のマットレスの所に石井を手招く。

「マットレスを持ってください」

 言われて石井は持ち上げる。

・・・軽い・・・石井は頷く。

「次はこちら・・・」店員は6万円のマットレスを持ち上げるように言う。

・・・重い・・・石井はここに来た甲斐があったと思った。

 マットレスの良し悪しは目方で判るのか、目からうろこが落ちた気分だ。

「アメリカ製の8万円のを持ってみてください」

 店員に言われて持ち上げようとするが、ずっしりとしている。マットレスに抱き付くようにして、ようやく持ち上げる。

「重たければ重たい程良い訳ですね」

「必ずしもそうとは言えないですが・・・」歯切れが悪い。

「さっき、社長がスプリングの品質の事を事を言われたと思いますが・・・」

 店員は言う。

メーカーは、スプリングんの品質向上に力を注いでいる。軽くて丈夫で安いものをだ。ベッドも50万も60万もするものを買う人は少ない。20万円から30万円ぐらいで価格設定したものだよく売れる。

「お客様がベッドをお買いになるとしたら、メーカー品をお勧めしますね」

品質が保証されているし、お客の苦情にもすぐに対処してもらえるから安心できるという。

 石井は自宅に帰り、マットレスを持ってみる。両手で軽々と抱えられる。以前持った時は、こんなものなのだろうと、深く考えなかった。

・・・物が悪いのかも知れない・・・暗然とした気持ちになる。


 2月下旬、気の晴れぬ光一に、追い打ちをかけるような事態が起こる。

 良一が就職すると言い出したのだ。卒業を間直に控えて、光一は息子が大学進学の準備に勤しんでいるとばかりに思っていた。

 大学入試は1月上旬から2月下旬の間に行われる。公立、私立に関わらず、大学に入って、末は一流企業か官庁に入ってもらいたい。それが光一の夢であった。

「俺、南知多のビーチランドの入りたいんだわ」

「あんなとこ!」光一は絶句する。それでは将来の出世街道の夢を捨てるようなものではないか。

「あなた、良一の好きにさせてやって」

 伸江は夫に頭を下げる。。

「お前までが・・・」

 光一はマットレスの件で弱気になっている。妻には随分と苦労を掛けている。

「良一の好きな道に歩ませたいのよ」

 光一は良いとも悪いとも言わない。晩酌の酒をぐっと飲み干す。

「父ちゃん、俺、もう決めたでな」

 良一は大柄で目鼻立ちがはっきりしているところは母似である。小さい時から母の苦労を見て育っている。3年間バスケット部の練習を1度も休んだことがない。意志が固い。思いつめたら後には引かない。性格的には父に似ている。

「勝手にしろ」光一はこれだけ言うのがやっとだった。

 良一は釣りが好きで、朝まだ暗い内から海に出かける。お陰で石井家はあまり魚を買った事がない。

 南知多ビーチランドも1ヵ月に1回は行っている。。海に関する仕事がしたいと、母には漏らしていた。

――自分の好きな事をやっていた方が幸福なんだ――

 伸江は息子の好きな道を歩ませたかった。

 良一は言うべきことを言うと、サッサと2階に引き上げていく。光一は充血した眼で後を追う。

――一生懸命に育ててやったのに――

 口をへの字み曲げている。裏切られた思いで胸の内がむかついている。

伸江はそんな夫の気持ちがよくわかるが、仕方のない事だと思っている。

「俺みたいな生活をさせたくないんだわ」酔っていて声が大きい。自分の実りのない人生を振り返ってみて、せめて息子だけはとの親心なのだ。

 数日後、娘の和子が珍しく早く帰ってくる。 

 夜8時、コタツの中の両親の間に割り込むように座る。

「父さん、私、結婚するから」まっずぐに父を見て言う。

 結婚を前提に付き合っている人がいる事は、伸江も知っている。

――父さんに話して――和子から何度も言われているが、夫がマットレスで苦しい思いをしている。妻に相談せずに1人で悩んでいる。娘の結婚の事も切り出せずに、今日まで伸び伸びになっている。

 突然の事で伸江はびっくりして和子を見る。

 娘は少々気が強い。良一は穏やかだが、意志が強い。一旦こうと決めたら必ず実行する。和子は思いつめて突っ走るタイプだ。

 ただ、頭が良い上に、その事によって生じる結果を考える冷静さも兼ね備えている。自分が不利とおもったらさっさと身を退く。

 信用組合に勤めて、礼儀作法は教えられている。気の強さをその内に押し込める処世術も身に付けている。

「結婚って、誰と・・・」

 光一はうろたえる。娘の結婚相手は名古屋の中堅事業の御曹司にと、知人に依頼している。

 娘は誰に似たのか、色白の美人である。安く売る手はないと考えている。知人から2人か3人、トヨタ系列の社長から相談が舞い込んでいると言われている。金持ちと結婚すれば、本人のためにもなるし、石井家としても鼻が高い。光一としても名誉挽回の切り札と思っている。

 和子は若い者の集まりのサークルに入っている。市役所主宰の文化活動や、ボランティアなどに積極的に参加している。その会の中に、名の売れていない陶芸作家が数人所属している。光一もそれくらいの事は聞いて知っている。

 和子は結婚相手に陶芸作家の名前を上げる。

光一は会った事はないが、名の売れていない作家である事は知っている。

 陶芸作家で名前が売れて、作品だけで食っていける者はほんの一握りしかいない。その他大勢は、焼き物の問屋や製陶所の下請けで食っている。生活も苦しい筈だ。将来、名を上げる保証もない。

「和子、そんな者と一緒になると苦労するぞ」

 光一はもうすぐ、名古屋の知人が良い話を持ってくるから待てと制する。

「父さんの話、乗る気はないわ」

 和子は柳眉を逆立てる。きりっとした眼で父を見据える。

「あなた、良一も和子も、自分の足で歩いているのよ」

 伸江は光一を説得する。2人とも両親の言いなりになる子供ではないと力説する。 

 光一は、自分の夢が次々と破られていくのに、腹立たしかった。叱ったところで言う事を聞く娘ではない。和子の芯の強さは母親譲りだ。母の苦労をみて育っている。父を軽蔑するとまではいかないまでも、軽く見ている。

 光一には子供達の態度からそれくらいは察している。それに対して何も言えない自分が腹立たしかった。

「勝手にしろ!」吐き捨てるように言うと、

「酒!」伸江に酌をしろと命じる。」

「ハイ、ハイ」伸江は和子に2階へ行くようにと、目で合図する。和子は黙って立ち上がると、2階の自分の部屋に引き上げていく。

「あんな奴と一緒になると、後悔するぞ」

 和子の後ろ姿に吐き捨てるように言う。


 4月になる。息子の就職も決定する。和子の結納の式も無事終わる。結婚式も10月下旬の吉日と決まる。

 4月下旬、石井光一は新和興業名古屋支店に電話する。知多半島での、マットレスの販売促進のキャンペーンをやって欲しいと依頼する。

 電話に出た長野課長は、陰に籠った声で、後2ヵ月待って欲しい、6月中には必ず東海市でやるからという。

  

 石井は了解した旨を伝えて、電話を切る。

 キャンペーンで得た金で元を取り、販売代理店を解約して、権利金の3百万円を返してもらおうと思っている。それでマットレスと縁を切ろうと思っている。

 それから2日後、多屋の稲葉耕作が血相を変えて、店に飛び込んできた。手にしたマットレスを店の土間にポンと投げ出すのだった。

 朝9時である。店には光一と伸江が店の商品の売り上げの勘定をしている最中だった。

 びっくりした2人は稲葉耕作を見る。

稲葉は光一と同年である。肥満体で、食う事だけが楽しみだという。多屋地区で沢山の借家をやっている。農協の鬼崎支店で働いている。食うに困らない。

 今日は農協が午前中休みだから来たと言いながら、立ったままで声を荒げる。

「このマットレスなあ、粗悪品だぜ」

 大人しい耕作が声を震わせている。余程の事に違いない。

「まあ、耕作さん、座ってくれんかな」

 伸江はペコペコ頭を下げながら、上がり框に座らせる。

「一体何があったんだも、聴かせくれや」

伸江の低いが落ち着いた声に、耕作はどすんと腰を落とす。

「去年の多屋公民館の事は知っとるだらあ」

「ええ、よう知っとるで、私らも行きましたから」伸江は相槌を打つ。稲葉のおばあちゃんが、子供のように笑いながら手を上げていたのを覚えている。

「まあ、一杯お茶を飲まんかな」

 伸江は如才がない。人間、いつまでも怒っている事が出来ない。包み込むように、柔らかく接していれば、大人しくなるものだ。

「おばあちゃんがよう、何かわけのわからんものをどっさりと貰ってきてよう、毛布もタダだげな、と言いやがって帰ってきたんだわ」

 その日の夕方、新和興業の誰誰とか言う者が、マットレスを持ってきた。代金として20万円請求した。

「おらあ、あん時、びっくりしただがや。おばあちゃんこれ何や!って、けたくったっただわ」

 おばあちゃん、、おろおろしていたが結局20万円はおばあちゃんが払う事でケリとなる。

 問題はそれからである。

 おばあちゃんはマットレスを使ったが1週間と経たぬうちに、何か体に合わんと言って、マットレスを放り出す。20万という大金を払っているので、仕方なく俺が使う事にした。

「おらあ、体重が85キロあるだがや」

 稲葉耕作は小さな眼を怒らせる。

 伸江と光一は畏まって真剣に聞いている。

「マットレスがなあ、フワフワでなあ、何か中に浮いとるようで、物足りない感じでなあ」

 その上自分は汗かきで、寝相が悪い。マットレスから何度転げ落ちたか判らない。仕方がないからマットレスの左右に柵を設けることにした。これで少しは良くなった。

 今年の2月頃、何となく体が痛い。おかしいと思ってよく見てみると、マットレスが波打っている。

「こりゃひどいがやと思ってな、新和興業に電話を入れただがや、半年の保証期間があるからなあ」

 電話口の向こうで、

 そんな筈はない。1年や2年で悪くなるものではない。使い方が悪いのではないかと言われた。

 自分は正直に体重の事を話した。

相手は黙って聴くだけで、もう2ヵ月ばかり使ってみて様子を見てくれないかという。

 自分は仕方なく、2ヵ月ばかり様子を見ることにした。マットレスの波は段々と大きくなる。やがてバネの丸い輪の部分が目立つようになる。

「ほれ、これだがや」稲葉耕作は土間のマットレスを足でけたくる。

 伸江と光一は、マットレスを見てみる。

マットレスは凸凹している。丸い輪の部分が3カ所くっきりと浮きあがている。

「これはひどい・・・」光一が呟く。

「判るだらあ、おらあ、昨日、電話入れただがや」

 稲葉は光一を睨みつける。

「保証期間が過ぎてるから、交換も返品も出来んとぬかしやがった」稲葉の顔に怒りがあらわになる。

「石井よ、こりゃサギだがや、いくら何でもひでえわ、おらあ、頭に来てな警察に行こうと思ったんだわ」

 警察に行くと、販売代理店をやっている石井雑貨店の名前に傷がつくだろうし、それに俺はマットレスを交換してくれればそれでええ、そう思って朝一で来たという訳だ。

「稲葉さあ、本当に申し訳ねえことしてなあ」

 伸江は平謝りに謝る。その上で、自分達が販売代理店になったのは、多屋公民館のキャンペーンの後である事。新聞の折り込みを入れても全く反応がない事。昨日の夜、自分達は販売代理店をやめようと考えていた事を話す。

「ここは1つ、主人が会社に掛け合ってみるから、待ってくれんかね」

 伸江は耕作の顔色を伺う。

「もし会社が交換に応じなかったら?」

「その時は、わしんとこにあるマットレスと交換します」

 光一が思いつめたように切り出す。

「父ちゃん・・・」伸江はびっくりして夫を見る。

 光一はいいからいいからと伸江を制する。

「耕ちゃん、それで許してくれるかな」

 稲葉耕作は、予期しなかった結果に、口をあんぐり開ける。

「わし、そこまでしてもらわんでもええがな」

 稲葉は新和興業が約束を守らないので、腹を立てた。確かに自分の使い方も悪かったかもしれない。それでも約束は約束だ。あんまりにも腹が立ったので、そのはけ口に、あんたとこに来てしまった。

 石井雑貨店でマットレスを交換してもらおうとは思っていない。ただ、自分の言い分を、会社に言って欲しいだけだ。

 稲葉耕作はそれだけ言うと帰っていった。

 しばらくの間、2人は沈うつな空気の中にいた。

「あなた、ごめんなさい。勝手に、代理店を辞めるなんて言って・・・」

「いいんだよ、俺もこれで腹が決まった」

 光一は言う。

 2ヵ月後に東海市で販売促進のキャンペーンをやるとしても、この場合、販売代理店が主催者になる。

 苦情が出た場合、苦しい立場に追い込まれるのは自分達だ。耕ちゃんの話しから判るように、会社は決して責任を取るつもりはないのだ。警察沙汰になったら、石井雑貨店の名前が出る。笑い者にされるだけだ。

 石井光一は新和興業名古屋支店に電話を入れる。支店長に話がしたい。明日午前中居るかと尋ねる。いるとの返事をもらうと、光一は電話を切る。

 販売代理店の契約書、印鑑などを取りそろえる。


 翌日、朝11時頃、石井光一は新和興業名古屋支店に赴く。受け付けの女の子は新顔のようだ。石井を応接室に通す。事務所内には誰もいない。長野課長くらいはいるだろうと思って「長野さんは?」女の子に聞いてみる。

「さあ、私判りませんから」

 若いのに、厚化粧の女の子は真っ赤な口紅の口を動かす。歯切れが悪い。

 女の子がお茶を運んで消える。10分位待たされる。

「いやあ、お待たせしてすみません」

 浜嶋支店長が大柄な身体を、小さくして応接室に入ってくる。どことなく覇気がない。眼の下にクマが出来ている。顔色もすぐれない。

・・・疲れているようだ・・・

「で、何の用でしょうかな」笑顔を絶やさないのは、以前と変わらない。

 石井光一は小さな体を前かがみにして、浜嶋支店長を見上げる。相手がどう出るか不安で一杯だ。

「実は・・・。大変申し訳ないが・・・」

 結論として、販売代理店契約を解除したいと述べる。

相手の様子を伺う。浜嶋支店長は、ゆっくりとした動作でタバコを吸いだす。石井の次の言葉を待っているようだ。表情には何の反応も見られない。

 石井は今までの顛末を述べる。自分にはマットレスを売りさばく技量もない。娘の結婚式が10月にある。娘に持たせてやる金がない事を話す。商品が高い事や苦情があった事は話さなかった。支店長の機嫌を損じたくなかったからだ。

「それで・・・」支店長は冴えない表情で言う。

・・・おや?・・・とぼけているのかな、石井は一瞬、出かかった言葉を飲み込む。 

 持ってきた封筒の中から、販売代理店契約書を取り出す。テーブルに拡げる。

「解約の場合は権利金を返してもらえることになっていますので・・・」

「ああ、その事ね」惚けていた訳ではないらし。多分難問を抱えて頭が一杯なのだろう。疲れ切った顔にありありと出ている。

 浜嶋支店長は応接室のドアを開ける。

「近藤さん、解約の書類、一式持ってきて」受付の女の子に声をかける。すぐにも書類がテーブルに並ぶ。

「こことここに、名前を書いて、ハンコ、持ってきた?そう、それじあ、ここに押して」

 石井光一は言われた通りにする。支店長の言葉使いがぞんだいになる。案外、これがこの男の地ではないかと思った。

「前に言ったように、3百万円は半年後ね」支店長はカレンダーをめくりながら、返却の日付けを書き込む。和子の結婚式の1週間前である。

 3百万円は結婚の引き出し物にやろうと考えていた。これで少しは親の体面が保てるのだ。

「和助おじさん、頑張っていますか」

 尋ねてみる。何かトラブルがあっても、和助おじさんが居れば、心強いのだ。

「和助?ああ、石井君ね、やめたよ。今年の1月にね、知らなかったの?」

 浜嶋支店長は大きな顔に不審の色を浮かべる。和助は常滑の事はよろしくと言ってやめたという。当然、和助の方から光一に伝わっていると思ったという。

 これで会社と光一をつなぐ者はいなくなった。一抹の不安を胸に秘めながら、

「何故、辞めたんでしょうか」尋ねてみる。

「知らんよ、そんな事。もともと風来坊だしさ」

 支店長は大きな口を尖らす。これ以上、和助の事には触れたくないみたいだ。

 稲葉耕作の苦情だけは言っておかねばと思った時、応接室のドアが開く。ノックもしない。

「支店長、例の・・・、電話・・・」女の子が赤い唇を尖らして言う。

「チェッ、またか」支店長は舌打ちする。

 立ち上がり様「じゃ、これで」石井の方を見向きもしない。荒々しく支店長室に消えていく支店長をみて、石井は立ち上がる。

カウンター横の入り口のドアまで来た時、石井は女の子に「すみません、ちょっと、トイレを・・・」ぺこりと頭を下げて支店長室横に隣接しているトイレに駆け込む。

 支店長室とトイレはベニヤ板の間仕切りで仕切られているだけだ。石井は壁に耳をつける。

――だからさあ、保証期間が過ぎているって言ってるでしょう。その前に連絡したって言われても、私は何も聞いていないんだから知らないんだよ――

 支店長の声は大きい。張りもあるので、壁に耳をつけていると、よく聞こえる。

 石井はトイレを出ると、黙って入り口のドアを開ける。厚化粧の女の子は爪にマニュキュアを塗るのに忙しく、石井の方を見ようともしない。


 その日から、マットレスの事は石井家の話題に上らなくなった。

 6台の内、石井光一と伸江、息子の良一が使う事になった。残る3台のマットレスは、和子の新居の家具と一緒に持っていくことになった。

 マットレスで寝てみて、今まで布団で寝ていたせいか、光一は寝具合が悪い。寝心地が良くないし、全身が沈み込むような、頼りなさに、数日すると背骨が痛くなってきた。伸江や良一も同じような苦情を言う。結局、和子の嫁入道具から外される事になった。全てのマットレスは、蔵の中にしまい込まれる事になった。

 和子も良一も夕方早く帰って来るようになった。

良一の仕事は、今のところ5時で退社。和子もデートで遅くなることはあるが、若い者の集まりには出なくなった。

 伸江が驚いた事は、光一が様変わりした事だ。経済や商店経営に関する雑誌を購入しなくなった。

 晩酌の時も自分の夢を語らなくなった。子供達の話に耳を傾けながら、チビチビやるようになった。家族全員が談笑の花をさかせるようになった。

 

 10月中旬、和子の結婚式の1週間前になる。

 石井光一は朝一番に新和興業名古屋支店に電話を入れる。

――この電話は現在使われておりません――

 石井ははっとする。権利金は戻ってくるだろうか。今まで抱いていた不安が見る見るうちに大きくなる。

 石井は妻に手短に話すと、慌てて常滑駅に駆け込む。電車に乗り込んでも、頭の中は権利金の事で一杯だった。解約の書類を入れたカバンを持つ手が震える。

 中小企業センターの南側にあるビルのエレベーターに乗り込む。3階の新和興業名古屋支店の事務所の前に来て、

呆然とする。

 入り口のガラス戸に新和興業名古屋支店の文字が消えている。ドアも閉まっている。地下にある管理人室に駆け込む。

「新和さんねえ、あそこ、8月一杯で出て行ったよ。しかし、よく来るねえ、あんたみたいな人、何かあったの」

初老の管理人は、お茶を飲みながら、小柄な石井をじろじろ見ている。

 石井は諦めきれず、公衆電話から大阪の新和興業の本店に電話する。結果は名古屋支店と同じだった。石井は肩を落として家に帰る。

 話すのが辛いが、妻には正直に言う。

 伸江はこういう結果になる事は予測していた。催眠商法をやるくらいの連中だ。一旦手にした金を返す事など、する筈がないのだ。

 伸江は何も言わない。

「昼からの配達、私が代わりましょうか」

 夫への精一杯のいたわりの言葉だった。光一は被りをふる。どんなに辛くとも仕事は仕事だ。

 その日の晩酌は取りやめとなる。6時に夕食を済ますと、光一は布団にもぐりこむ。

 子供達は母から事情を聴く。

 結局、3百50万円、むしり取られた事になる。1ヵ月5万円の小遣いの中から営々として貯め込んだ虎の子である。

「父さん、年取ったね・・・」和子は父に同情する。

 以前の父なら自棄酒を飲んで憂さをはらしたものだ。もうすぐ50になろうとしている。50,60は鼻たれ小僧という人もいる。しかし夫にとって、将来の夢を語れる最後の年なのだ。伸江は打ちのめされた夫を哀れに思う。


 結婚式の2日前、元気を取り戻しつつある父の前に、和子がぺったりと座る。母の酌を受けながら、どことなく陰の薄くなった父を見る。

「父さん、今まで育ててくれてありがとう」

 和子はコタツの前に両手をつき、父に深々と礼を言う。

「これ、父さんからって、母さんから頂きました」のしの付いた封筒をコタツの上に載せる。

「3百万円、有り難く頂戴します。これからも迷惑かけるかもしれないけど」

 和子はもう一度、深々と礼を言うと、封筒を持って、2階に上がっていく。

 光一は呆然と和子の動作を見守るのみ。和子が消えてはじめて、我に還る。

「お前・・・」伸江に声をかける。

「一生懸命働いてくれた、父さんのお金よ」

「でも伸江・・・」家のやりくりが苦しくなるのではないかと心配する。

「大丈夫よ、任せといて」

 光一の眼から熱い涙溢れる。それを伸江に悟られないように、ぐっと一杯ひっかける。

 伸江は半田の不動産屋で働かないかという話を、今日の朝断ってきた。

 セールスをやれば、時間が不規則になる。夜の帰りも遅くなるだろう。夫の唯一の楽しみは晩酌だ。ヘタをすると、それを取り上げる事になりかねない。店の売り上げと、夫の配達の仕事で何とかやりくりが出来ている。

 息子の良一も食事代を入れてくれる。

 息子が一家を成すまで頑張ればよい。それまでは自分は家を守り、夫の楽しみに付き合って行こうと考えたのだ。


 結婚式も無事に終わる。

良一も友達と出かけている。夫婦2人きりの生活である。

「伸江、これからも頼むぞ。俺を助けてくれよな」

 夫の口から、気弱とも言える言葉が飛び出す様になった。お互い歳をとってきたのだ。伸江は微笑する。

「もう1本いきますか」

「今日の酒は美味い。もらうよ」

 伸江は夫の杯に酒を注ぐ。


                     ――完――


 お願い――この小説はフィクションです。ここに登場する個人、団体、組織等は現実の個人団体組織等とは一切関係ありません。

 なお、ここに登場する地名は現実の地名ですが、その情景は作者の創作であり現実の地名の情景ではありません。







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