アレクサンドラ・サラヴァン
サラヴァン辺境伯家に生まれる者が、皆記憶を継承するわけではない。
古龍の慈悲か、それとも狂うことすら許さないという呪いなのか。
強い精神力を誇るサラヴァン辺境伯家の中でも、特に強靭な精神を持つ者だけが記憶を継承するようだった。
それはある日突然訪れる。
アレクサンドラはわずか五歳で、祖先の記憶を引き継いだ。
人は、何故食事をするのだろう。
どうして虫は飛ぶのだろう、花の蕾が開くのは何故だろう。
雨の源は何なのだろう、風の始まりはどこなのだろう。
世界の全てを知りたかった少女は、突如雪崩れ込んできた数百万人もの記憶と知識に、衝動的に手首を裂いた。
それでも死に損なった自分に残ったのは、手首の癒えない傷痕と、これほどの記憶を持ってしてもまだ知識を蓄えたいという渇望だった。
そして今目の前に。アレクサンドラの知識には存在しないような女性が、存在している。
「幼いわたしが深く裂いた手首の傷を、そなたはあの広場で癒したのだ。古傷を跡形もなく治せる聖霊力は、遠い昔に途絶えた伝承に出てくる、聖女にしか持ち得ないというのに」
アレクサンドラがそう言うと、リディアはわかりやすく青い顔をした。
その表情に「誰にも言わぬ」と頷いて、言葉を続ける。
「一つ、聖女の伝承を語っても良いだろうか。……これは十二年前、ラスター殿が一番探していた、『人を蘇生させる方法』を求めにやってきたとき、伝えた内容となるのだが」
リディアが驚いて、横にいるラスターに目を向ける。
表情を変えずに聞いている彼は、きっとそのことさえ生涯彼女に伝えるつもりはなかったのだろう。
「昔あるところに、五色の瞳を持つ魔術師がいた。あらゆる不可能を可能にする魔術師を、いつしか古龍は深く愛するようになる。しかし当時すでに千年を生きていた古龍は、寿命が近づいていた。そして自身が亡くなる時に、死してなおずっと一緒にいられるようにと、魔術師の胸にその核を宿した。その魔術師は強い精霊力を持つようになり、遠くにいる人間を癒し、古傷に苦しむ女人の傷痕を消し、手足を失った者の全てを再生させ――亡くなった人間の蘇生までも、叶えたという」
その話を聞いた時、戸惑っていたリディアがハッとラスターの胸に視線を移した。
アレクサンドラも、胸に宿る核のことは知っている。
一番最初にラスターにこの話をした時、彼は自身の胸に宿る核のことを、アレクサンドラに告げた。
当時十五歳だったラスターはその伝承を聞いたあと、まだ五歳のアレクサンドラに深く深く頭を下げた。
絞り出すような声で『ありがとう』と呟いた。
あれほど希望に満ちた声音を、アレクサンドラは他に知らない。
『――なるほど、俺は、そのために実験体にされたのか。精霊力を身につけるために』
『ならば俺は……本当に彼女を、生き返らせることができるかもしれない』
表情は変えないまま、瞳から静かに雫を零す少年に、アレクサンドラは言葉を失った。
声も出さず泣く男に、『ただの眉唾ものの伝承だ』とは、当時のアレクサンドラには言えなかった。
伝承など伝えなければよかったかもしれないと、叶わぬ希望を持たせたことに、その後少し後悔はしたけれど。
「古龍の核を胸に宿す、五色の瞳を持つ魔術師。そなたが思う通り、その条件を満たすのはラスター殿。……しかしラスター殿には、精霊力は欠片もなかった。……努力したが、蘇生は無理だろうと、私は思っていた」
自殺行為と思うほどのあの鍛錬を、諦め切れない彼の愚かな妄執を、彼女に伝えるつもりはない。
「しかし、そなたはラスター殿の前に現れた。この奇跡の全てを、わたしは知りたい」
それでも希望に縋り苦しんだ果てに掴んだ奇跡が、彼にとってどれだけの幸福なのかを、彼の少女に知っていて欲しいと思う。




