サラヴァン辺境伯城
あっという間にサラヴァン辺境伯城へと行く日がやってきた。
外出も三度目になれば、割と準備には慣れてきた。侍女に手早くドレスを着つけてもらい、髪を結い終えたリディアはラスターの元へ行く。
彼は目を細めてリディアの姿を見たあとに、無言でいつものようにリディアの頭に帽子を被せた。
「ねえラスター。これ、ディーにつけてもいい?」
そう言ってラスターに差し出して見せたのは、先日エイベルと一緒に刺繍をしたリボンだ。ラスターを表すサファイアと龍の紋章を刺繍したもので、ラスターの飼い猫にはぴったりだと思う。
「構わないが……これは何だ?」
「精霊力をこめた糸で私が刺繍をしたの。ディーの首につけていいなら、ひっかかって危なくないようにいい感じに術をかけてほしいわ」
「ディアが刺繍……」
ラスターは手元のリボンとディーを交互に見る。
「すごいでしょう?」
そう得意気に聞くと、彼は「そうだな」とそっぽを向いた。興味の欠片もなさそうで、一応作り上げたハンカチは、やはり渡すべきではないかもな、と思う。
ラスターが短い詠唱を唱えると、リボンがひとりでに浮いてラスターの足元にいるディーの首に巻き付いた。
苦しくないか指を入れて確かめる。ゆるくもなしきつくもなし。それに伸び縮みするシュシュのようになっているので、これならどこかにひっかかったとしても、するりと抜けるだろう。
何よりも、とても可愛い。
「かわいい! ラスターの猫って感じ!」
やはり私は天才では……?? と自画自賛していると、ラスターはリディアを見て「そうだな」と言った。視線がリディアの首を見ている気がして、リディアは首を傾げる。
「何かついてる?」
「別に何も」
素っ気なくまた顔を逸らして、ラスターは「行くぞ」とリディアの手を掴んだ。
◇
サラヴァン辺境伯城は、厳かな雰囲気を醸し出している堅牢な城だった。
石造りのひやりとした回廊を通る。
あちこちに知識の象徴である梟の彫刻や絵画が飾られていて、リディアはサラヴァン辺境伯家が、この国――クレナノシア国の記憶と呼ばれていることを思い出した。
サラヴァン辺境伯家の当主は、代々とても賢いのだそうだ。このクレナノシア国の歴史のみならず、大陸中に起きたあらゆる事柄を、まるで実際に見てきたかのように語れるらしい。
(信じがたい噂だと思ってたけど……)
もしかしたらそうなのかもしれない。
通された部屋でアレクサンドラと再会したリディアは、彼女の瞳を見てそう思った。
「よう来てくれた」
菫色の瞳を細めて、アレクサンドラが優雅に微笑んだ。促されるままに席に座ると、侍女がすぐにお茶を差し出してくれる。
アレクサンドラに目で合図をされ、侍女は音もなく消えていった。残ったのは、アレクサンドラとリディアたち、三人だけだ。
「まずはラスター殿。探し物の一つが無事見つかったことに、心からの祝いを」
「……お力添え、ありがとうございます」
(探し物?)
何か大切そうなものを失くしていたらしい。
しかも一つじゃないなんて、しっかり者のラスターが珍しいことだ。
そんなことを思っていると、アレクサンドラがこちらに目を向けて微笑んだ。
「今日そなた達を招いたのは他でもない。そなたと、取引をしたいのだ」
「取引?」
「私の知ることを、そなたに話そう。――代わりにそなたに、聞きたいことがある」
横のラスターに目を向ける。
事前に聞いていたのだろう、表情を変えず、微かに頷いた。
「少々長い話になるが……ラスター殿はこの十六年間、とある二つのものを探していてな。十二年前、わたしの元を訪れ協力を願った。このわたしの知識を、貸してほしいと」
アレクサンドラはトントン、と自身の頭を指で示す。
「しかしこの知識、ただでくれてやるわけにはいかぬ。わたしが報酬として求めるものは、『わたしがまだ知らない知識』だ。このわたしが知らぬことなど、滅多にないのでな。……しかし彼は年若く興味深い男だったので、人柄というのかの、それを見込んで欲しい知識を授けたのだ」
アレクサンドラが話す言葉に、リディアは警戒して眉を寄せた。
(……アレクサンドラ嬢は、まだ十七歳のはず)
なのに彼女の紡ぐ言葉はどうだろう。
まるで数百年生きている、老獪な人物のような口ぶりだ。
そんなリディアの警戒に気づいたアレクサンドラが、疑念を察して頷いた。
「小娘がかようなことを言い出すとは不思議だろう。私の祖……初代サラヴァン辺境伯は狂人でな。『余すことなくこの世の全ての知識を得るには、人の一生は短すぎる』――そう言って、人であることをやめようとしたのだ」
「人であることをやめる……?」
不可解な言葉に首を傾げると、アレクサンドラは感情の見えない微笑みを浮かべながら、頷いた。
「古龍の血をな、飲んだのだ。初代の願いである永遠の命は手に入らなかったが、代わりにサラヴァン辺境伯家は代々、初代から始まりどこまでも枝分かれしていく子孫の、その全ての記憶を、選ばれた末裔が引き継ぐこととなった」
数千、数万、数十万でもきかない。
その膨大な数の祖先の記憶が、全て自分の頭のなかに入っているのだとアレクサンドラは淡々と言った。
予想外の言葉に絶句する。一人の人間の器に、数百万にものぼる人間の記憶が混在して耐えられるものなのか。
リディアの反応に鷹揚に微笑み、アレクサンドラは続けた。
「そこで本題だ。わたしの記憶の限り、そなたのような精霊力を身につけた者は存在しない。どうしてもそなたのことが知りたいのだ。ディアナ・フィオリアル殿よ。生命の理から外れるためには、古龍の力を借りるしかない。そなた、古龍の何をその身に取り込んだ?」
リディアをディアナと見抜いた彼女は、菫色の瞳に隠しきれない好奇心を揺らめかせながらそう言った。




