刺繍
数日が経った。
表面上はいつも通りに過ごしてはいるものの、ラスターはリディアとは目を合わせない。
今日も素気なく仕事に行くラスターを見送った。
ちくちくと手を動かしながら、ラスターとの喧嘩らしきものを思い出す。
(……あれは、頭突きの失敗なのかしら。正しい頭突きがわからなかった……?)
流石にそれはないだろうと、首を振る。
(ラスターは、祝賀会では怒って神官長を懲らしめてたわよね。つまり怒って攻撃するという概念はある……)
ということはやはり、純粋な怒りのみではないのだろう。
(私を全部俺のものにするとは一体……? うーん、一体ラスターが何を考えているのかさっぱりわからない……だけど)
傷つけてしまったのだろう。
思い出すと胸が痛くなるほど、悲しい表情をしていた。
「お疲れですか。今日はここまでに致しましょう。もうじき完成ですしね」
小さくため息を吐いたリディアに、横で刺繍を教えてくれるエイベルが、心配そうにそう言った。
この執事は、使用人の少ないこのヴィルヘルム公爵家一番の有能なおじいさんだ。
何の特技も身に付けていないリディアに、よくこうしていろいろな技術を教えてくれる。
先日まではエイベルさんと呼んでいたが、ラスターからの「男の名を呼ぶな」という言いつけを守り、最近は「ベルさん」とあだ名で呼んでいた。
ラスターには冷ややかすぎる眼差しで見られたが、何も言われなかったので正解だったのだろう。
「いいえ、大丈夫。ちょっと考え事を……あ、ねえベルさん。ここのサファイアは、一色ではなくて五色を使って立体的に仕上げたいの」
「かしこまりました。それは、ご主人様も大変お喜びになるかと」
「なるかしら……」
ここ数日、リディアは刺繍を練習している。
練習用にディーのためのリボンを数枚作り終え、天才に相応しい腕前になってきたので、今はようやく本番であるラスターのハンカチに取り掛かっていた。
手に持った糸に、精霊力をこめていく。
すぐに形を変え、柔軟に力を受け入れる液体とは違って、個体に精霊力はこもりにくい。時間をかけて入れ込んでも、ごくごく僅かな精霊力しか入らない。
しかしごく僅かな力であっても、精霊力を入れ込んだ糸で刺繍を刺したものなら、気休め程度のお守り代わりになるんじゃないかと思ったのだ。
しかしきっとリディアが刺したものなど、迷惑でしかないだろう。渡すかどうかも迷っている。
「渡そうか迷っていて、もう私が使っちゃおうかなと思ってるの。ラスターの紋章なら強くて魔除けになりそうだし、何より刺繍の出来がいいし」
「いえ、是非お渡しください。最近ご主人さまのご機嫌が悪く、戦々恐々としている私共のためにも、どうか」
「え、そ、そう? まあこれを渡しても機嫌は直らないと思うけど……わかったわ」
珍しく食い気味のエイベルの鬼気迫る姿に思わず頷いてしまった。
確かに不機嫌な美形というものは、迫力があって怖いものだ。
不機嫌の原因たるもの、できることはどんな無駄なことでもやらなければならないだろう。
「じゃあ今度、お出かけする時に渡してみようっと」
「かしこまりました。それでは間に合うように、仕上げていきましょう」
エイベルが、珍しくホッとしたような微笑みを浮かべる。
今週末は、ラスターと二人でサラヴァン辺境伯城へと向かうことになっていた。行かなければならないと言っていたラスターの顔は、淡々としていて珍しく不快そうではなかったので、きっと彼も楽しみにしているのだろう。
(……プロポーズ、しようとしてたんだものね)
モヤモヤとする。
リディアの存在のせいで無かったことになっているけれど、一体ラスターは自分の幸せを諦めて、リディアに何を望んでいるのだろう。
「……ラスターが何を考えているのか、全然わからないの」
ぽつりと呟くと、エイベルが微笑みつつ「さようでございますか」と言った。
「男の人って、みんなこうなのかしら。……いいえ、ラスターが特別わかりにくいのよね」
「失礼を承知で申し上げますと、ラスター様はわかりやすい方かと」
「えっ、あれで……!?」
愕然とする。
男心というものは、どうやらリディアの手には負えないもののようだ。
そんなリディアに生温い微笑を向けつつ、エイベルは「近すぎると見えなくなるものや、言えなくなることもありますからね」と頷いた。
「ですがきっと、大丈夫ですよ」
「大丈夫……?」
「ええ」
エイベルが優しい顔で頷いた。
「大切な人のためなら、覚悟を決められるのが人間ですから」




