初めてのこと
途中ラスター視点が入ります。
「――ディアナ? 大丈夫か?」
過去を思い出していたディアナはハッと我に返る。
マクシミリアンが心配そうな顔をしていた。
「……嫌なことを思い出させて、悪かった」
「大丈夫よ。もう終わったことだから」
母の行方はわからないが、フィオリアル家の者と会うことはおそらくない。
ディアナの父である当主は、ディアナが鎮静の結界を張る直前に投獄されている。
横領や領民から不当な税の取り立て、その他一通りの違法行為などに手を染めていたと、ミラー公爵が訴えたためだ。父は否定していたが、動かぬ証拠ばかりを突き付けられて弁明の機会もなかったという。
無事国家魔術師になっていた兄二人も、魔術で市民のみならず貴族令息を理由なく傷つけたとして投獄された。今はリディアは顔も知らない縁戚が、フィオリアル家の当主となっているらしい。
「ディアナ。逃げる気なら、俺は本気で手を貸そう。俺と一緒に来ないか。……お前は、今まで充分頑張ってきた。普通の少女として、普通に、幸せに生きてもいいんだ」
マクシミリアンが真剣な顔で言った。
「あいつの力には及ばないが、俺ならお前を逃すことができる。……これが、最後のチャンスだ」
マクシミリアンの言う通り、確かにリディアが逃げ出すためにはマクシミリアンの援助が必要だった。そうしてその機会は、今だと言うことも。
ぎゅっと両の手を握って、リディアはマクシミリアンを見る。
真剣な三色の瞳を真っ直ぐに見据えて、リディアはゆるゆると首を振った。
「行かないわ」
あの時祝賀会で自分を抱きしめたラスターの腕は、震えていた。悔しそうにリディアが自分から逃げたことを語る姿は、傷ついていた。
いくらラスターに不幸な結婚はさせたくないという動機だとしても、このまま自分が逃げたら、きっとラスターは傷つくだろう。
「今日は、ただあなたと話をしにきたの。安心したわ。あの時の私の行動が間違っていなくて、よかっ……」
「随分と、興味深い話をしているな」
リディアの言葉を、低い声が遮った。
背筋が寒くなるような声音に振り向こうとした途端、ぐい、と強い力で体を引き寄せられた。
「ラ、ラスター……」
自分を引き寄せたのは、無表情でこちらに目を落とすラスターだ。
その表情の冷たさと自分を抱きしめる腕の強さに驚いて、リディアは声を失った。
「……まだ十分だぞ。悟られないよう、俺も慎重に魔術を使ったんだが」
凄まじいな、と呟きながらも、予想はしていたのか、マクシミリアンが落ち着いた声音でそう言った。
「ラスター、仕事はどうした?」
「妻が攫われたというのに、仕事に励むような薄情な男だと思っていたのか? ……弁明がないならさっさと消えろ。今この場で、お前を殺してしまいそうだ」
鋭い殺気にマクシミリアンは両手をあげ「悪かった」と謝った。
「しかしラスター、お前も少しひどすぎないか? あんなに協力しあった仲なのに、ディアナのことを教えてくれず、もしも俺が会いたいと言っても、二度と会わせるつもりはなかっただろう」
「途中で諦めたお前に、何故会わせる必要がある」
「会わせる必要があるかどうかは、ラスター。お前が決めることじゃない。ディアナが決めることじゃないのか」
眉をひそめたマクシミリアンに、ラスターの殺気が膨れ上がった。思わずラスターの服を引っ張ると、彼は一瞬ハッとしたようにリディアに目を落とし、苦しそうな顔をした。
「まあ……今日のところは帰ろう。ディアナ、またな」
そう言ってマクシミリアンが転移する。ラスターがリディアを抱きしめたまま、大きく舌打ちをした。
何か言わなくてはと頭を回しながらラスターの方に目を向けると、感情の見えない青の瞳が、リディアを見下ろしていた。
怒っている。これ以上ないほど、ものすごく。
「あ、あの、ラスター……きゃっ!」
話そうとするリディアの言葉を聞きたくないとでも言うように、ラスターがリディアを抱き上げた。
こちらに目を向けず転移する彼の横顔は、今までにない程厳しいものだった。
◆◆◆
絶望に飲み込まれた日のことを覚えている。
十六年前のあの日。
ラスターの腕の中から、抱き締めていたディアナの体が消えた後のことだ。
(戻ってきてくれ。頼むから、お願いだ。いかないで)
まだ彼女の温もりを覚えている手を強く握りしめて、祈り続けた。
(俺のことを忘れてもいい、俺の命と引き換えでいい、だから、だからディアをっ……)
嗚咽しながらそう祈っていた、その時。
「嘘だろう……」
突然背後から、マクシミリアンの掠れた声が聞こえた。
振り向けば彼は青ざめた顔で口元を押さえ、もう一度「嘘だろう」と呟いた。
「まさか、ディアナが本当に……」
「……まさかって、なんだよ」
血が出るほど強く拳を握って、マクシミリアンを睨みつける。感情が制御できず、体の内側で何かが暴れ出そうとしているのを感じた。
「こいつらはなんだ、お前何か知っているのか……!?」
倒れている騎士や魔術師どもに目を向けると、意識のない彼らの体に抑えきれない魔力が放たれる。
すんでのところでマクシミリアンが作り出した魔術障壁が彼らの前に現れ、ラスターの魔力を防いだ。
「……落ち着け、ラスター。このままでは魔力暴走を起こす」
「どうしてそいつらを庇う! そいつらは、ディアを……っ」
「……子どもだな。ディアナが手厚く守るわけだ」
マクシミリアンが深く眉根を寄せ、ラスターに厳しい表情を向けた。
「こいつらがディアナの命を奪ったのなら、その動機や背景を探らなければならない。……探れるかどうかは別だがな。俺自ら尋問させてほしいと、願い出るとしよう」
そう言いながら、魔術を使って倒れたままの男たちを捕縛する。
「まずは王宮に連絡をし、こいつらを引き渡す。ラスター、お前は俺が引き取る。こいつらの残党が来るかもしれない。今日から、俺の家で暮らすんだ」
「勝手に決めるな!」
カッとなり、マクシミリアンを怒鳴りつける。
「俺は絶対にここから離れない! 残党? 上等だ、全部吐かせて全員殺してやる……!」
「……これは、ディアナからの遺言だ! お前を守って死んだ、ディアナの!」
激昂するラスターに、マクシミリアンは初めて声を荒げた。
理解ができず目を見開くと、マクシミリアンは後悔と怒りの混じる表情を浮かべて「あのディアナが!」と怒鳴った。
「あのディアナが、この程度の奴らに殺されるわけがないんだ、本当は! くそっ、保護膜さえ無事だったらっ……」
「…………保護膜……?」
頭の片隅で警報が鳴った。
心臓がどくどくと鳴る。今まで感じていた微かな違和感が、大きく首をもたげた。
大きな魔力を使う、鎮静の結界を張ったその日に、ディアナはラスターの魔力暴走を食い止め――突然、大魔術師の座を辞したのだという。
不思議だと思っていたのだ。
それほどの力を持つ彼女が、そんな簡単に大魔術師を辞められるものなのかと。
『魔力が足りない、あ、ここからつーかお! なんて、思っちゃだめよ』
未熟なラスターの目にさえ凄まじさがわかる、極限にまで魔力消費を抑えた、あの美しい魔術の数々。
しかし決して大魔術を使おうとしない彼女に、見せてほしいと言った時の、困った表情。
とてつもなく希少な核を使われ、実験されていた希少な自分。
ふとした時に見せる、何かを警戒しているような彼女の仕草。
『こいつらの残党が来るかもしれない』
『これは、ディアナからの遺言だ! お前を守って死んだ、ディアナの!』
「……ディアは」
自分を救うために、すべてを失ったのか。
「俺のせいで……俺は……」
自分を救ってくれた彼女を、守りたくて生きていたのに。
◆◆◆
ぽふん。
自室のベッドに、ふわんと放り投げられる。
謝って説明しなければと体を起こそうとするリディアを、まるで制止するかのように、顔の横にラスターの手が荒々しく置かれた。
寝転んだまま見上げたラスターの顔と瞳は、驚くほどに無機質だった。
「何故、あいつと一緒にいた? 何を話していた? ……どうして、あいつを頼った?」
「ラス……」
「『あの時の私の行動が、間違っていなくてよかった』?」
感情を押し殺してるのだろうとわかる低い声音に、ラスターの激情が見てとれた。
「馬鹿だな。ディアの行動で正しかったことなんて、俺に出会ってから一度もない」
淡々とした言葉に、心臓が抉られる。
彼が本当のことを知らない以上、そう言われても仕方がない。
だけど。
「……確かに私は、あなたにとって良い師ではなかった。迷惑もかけたし……傷つけてしまったことも、心から謝るわ。だけど」
暗く沈んでもなお美しい青の瞳を見据えて、リディアはきっぱりと口を開いた。
「だけど私にだって、やってよかった、守れてよかったって、心から思うものはある。何度同じ状況になったって、絶対に同じことをするって思うことが」
そう言った後、唇を噛む。
こんなことを言うべきじゃない。ごめんなさいと、ただ謝るだけでよかったのだ。
けれどラスターに出会ってから一度もだなんて、まるでラスターを助けたことさえだめだと言われているようで許せなかった。
「……約束を破ってしまって、ごめんなさい。マクシミリアンに、この十六年間のことを聞きたかったの。逃げるつもりはなかったけれど、勝手に出て行った以上あなたが怒るのは当たり前だと思う。煮るなり焼くなり、好きにしてちょうだい。覚悟はできてる」
もうどうにでもなれと言う気分で、寝転がったまま目を瞑る。やけっぱちだ。
しかしどんな刑を言い渡されるのか若干ヒヤヒヤとしつつも、そうひどいことはされないだろうと楽観はしている。マクシミリアンの言うような足の腱などとんでもない。
だってこの弟子はこんなにリディアに怒っていても、魔術を使って、優しくベッドに放り投げてくれたのだ。
(ラスターは本当に優しいもの。だって復讐相手の私を、まるで大切な人みたいに扱って……って、あれ……?)
何か大きな見落としをしている気がして、考えようと眉根を寄せたその時、リディアの頬にラスターの手が触れた。
触れるたび熱かった彼の手が、とても冷たい。
驚いて開いた目と、リディアを見ているラスターの目があった。
「……生まれ変わっても、変わらないのか」
「え……?」
「むしろ逃げたいと、そう思ってくれた方がマシだった」
「ラスター……?」
「……好きにしてもいいと言ったな」
ひどく苦しそうな顔をしたラスターが、指でリディアの唇をなぞる。
「ならお前を、全て俺のものにする。そして逃げられないよう足の腱を切り、誰も侵入できない、空さえ見ることができない部屋に閉じ込めよう」
驚いて思わずびくりと身を強張らせると、ラスターが暗く笑った。
「今より更に無力になって、見える世界が俺だけになったら――、そうしたらディアのこの手は、俺に縋るようになるかもしれない」
物騒な言葉を、あまりにも優しく言われて混乱する。
(怒ってる……のはわかるけど、なんだかこの怒り方、変な気がする)
困惑するリディアの顎に、ラスターの指が触れる。軽く上を向かせられて、あっと思う間もなく冷めた瞳が近づいてきた。
(ち、近……!)
驚きすぎて目を閉じることもできずに、ただただ水面の青い瞳を見つめていると、ごつん、と音を立てて額に温かいものが触れた。ラスターの額だった。
何かを堪えるように目を瞑ったまま、自嘲するように呟いた。
「……だけど。ディアがそうなることなんて、絶対にないんだろうな」
ラスターがリディアから身を離し、背を向ける。
「……とにかく、二度と俺から離れるな。二度と他の男の名を呼ぶな。そうじゃなければディアだけじゃなく、相手の男もただではすまさない」
そう言いながら、部屋から出ていく。
途端に部屋の外から、ロードリックの「ひどいじゃないですかラスター様ぁぁぁ」という悲鳴が聞こえてきた。おそらくは、遠くの者と通信する陣を描いて、ロードリックと連絡を取ったのだろう。
(な、な、何……? 今のは、)
わけがわからなくて、混乱する。胸の奥が、微かにむずむずとする。
抱きしめるのも抱きしめられたことも一緒に眠ったこともある。ラスターが怒る姿も、何度だって見てきた。
けれど今日の触れ合いも怒られ方も、今までに体験したことがないものだった。




