月明かりの下で
「……神官長、手を貸そう」
「結構だ!」
差し出したマクシミリアンの手を振り払い、神官長が這う這うの体で去っていく。
この少女は何者なのだろうか、とリディアが訝しむと少女が振り向いた。
「大丈夫か?」
「え? あ、はい。私は……」
むしろ大丈夫じゃないのは神官長ではないだろうか、と思いつつ、リディアは少女を見た。
年齢はおそらく、リディアとそうは変わらないだろう。
可愛らしい顔立ちだが、しかし老成した雰囲気を纏っている。
柔らかな菫色の目の奥に、背筋が寒くなるような深淵が息づいているような気がして、リディアは目を瞬かせた。
「そんなに警戒せずとも」と、少女がおかしそうに笑う。
「わたしはアレクサンドラ・サラヴァン。一度そなたとお会いしたいと思っていた」
「……! お会いできて光栄です、サラヴァン辺境伯令嬢」
慌てて淑女の礼を執りながら、リディアはその名前を思い出す。
サラヴァン辺境伯令嬢とは確か、ラスターがプロポーズをしようとしていた相手ではなかっただろうか。
(ラスターは否定していたけれど……)
貴族流の礼をしたリディアを見て、更に愉快そうに目を細めたアレクサンドラは、不機嫌を極めた表情のラスターに身を寄せて何事かを囁いた。
ラスターは眉を寄せたが、「また後で連絡します」と丁寧な口調で答え、そのままリディアには聞こえない声で会話をしている。
(ものすごく、お似合いだわ)
どこか居心地悪くリディアがその様子を見ていると、手持無沙汰だった手のひらに、じわりとほのかな熱を感じた。
懐かしい感触にそっと視線を落とすと、古代文字で書かれた文章が、黄色く宙に浮かびあがっている。
『三日後の昼十時に』
驚いてマクシミリアンに目線を向けると視線が合った。微かに頷くと、手のひらの文章がさらりとかき消えた。
一連の流れに、王宮のホール内はドン引きといった風情で冷えていたが、それからすぐに何も知らない国王陛下が現れ、ラスターの功績を讃えた。
おかげでやや空気が温まり、その後たくさんの人々がラスターの元へ集まってきた。それを笑顔……は全くないものの、きちんと応対するラスターに、立派になったものだと心の中で感動する。
それに付き合い、不本意ながらリディアも婚約者として振る舞った。
しかしリディアは、知らない人間と接することが少し苦手だ。
いい加減疲れ果ててきた頃、タイミングを見計らったラスターが手を引いてリディアをテラスへ連れて行った。
夜風が熱くなった頬を撫で、月が真上で輝いている。王宮の庭園を彩る湖に、その月や満天の星空が映っていた。
綺麗だなあと眺めながら、思い切り伸びをする。
そんなリディアを黙って見ていたラスターがぽつりと「悪かった」と謝った。
「え? 何が?」
「……色々だ。あんな男の戯言を少しでも耳に入れてしまったことや、嫌なものを見せたことも」
言っている内に思い出して怒りが再燃したのか、ラスターが舌打ちをする。
「あの時、あの男は古龍の爪研ぎにしておくべきだったな」
「爪研ぎ」
小声だけどばっちり聞こえてしまった。リディアの復唱にラスターがややバツの悪そうな顔をして、リディアは神官長が言っていた数々の言葉を思い出す。
――元平民の孤児。
誰よりも立派ではないか。
神官長の想像以上に過酷な子ども時代を過ごしたラスターは、生き延びただけでも偉いのだ。
思い出して胸が痛んだ。
あんなに口汚く罵られて、途中まで堪えただけでも偉いかもしれない。
挙句の果てにはマザコン扱い、それも相手は嫌いな詐欺師――となれば。
もしもリディアなら腹いせに、髪の毛を全て鼻の中に移してやりたいとは思うだろう。やるかやらないかは別として。
反省したのか少し困った顔で、ラスターが口を開いた。
「もう暴力は……魔術では、極力やらない」
「確かに、暴力は良くなかったわね。もちろん、素手でもだけど」
元々ラスターには、攻撃する目的で魔術を生き物に向けて使うことはしてはいけない、と強く教えこんでいた。
優しさとかそういうものではなく、ラスターの心を守るためだ。
化け物と呼ばれるほどの力の持ち主が、その力を振るって何かを傷つけたとき。
自分の心も深く傷ついて治らないことを、リディアはよく知っている。
「でもラスターはものすごく立派で、素敵な人になった」
青い瞳が驚きに見開かれる。
月明かりにきらきら揺れる五色の瞳はやっぱり水面のようで、どうしてこの弟子はこんなに綺麗なのだろう、とリディアは思った。
「ひどいことを言われても途中まで堪えていたし、それからこうして私が疲れたら休憩に連れ出してくれたし、ああ、こんなに素敵なアクセサリーやドレスも用意してくれて。それに何より、あなたは本当に立派な魔術師になった。僅か十二歳で鎮静の結界を張り、古龍を討伐して、国王を……いいえ、人の命を救った。並大抵の努力ではなかったでしょう。あなたは私がずっと憧れていた、人を救う偉大な魔術師」
「……」
「ラスター。かつての師としてでも保護者としてでもなく、あなたのような魔術師と出会えたことを、私はとても誇りに思う」
頑張ったのね、と微笑むと、ラスターがぎゅっと唇を引き結ぶ。
何かを堪えるような強張った表情に、詐欺師が師匠面で偉そうなことを言ったから怒ったのだろうかと焦った瞬間、ラスターがリディアを強く抱きしめた。
衝撃に、頭の中が真っ白になる。
「――十六年間、頑張ったんだ。本当に」
掠れた声と共に、熱い息がリディアの耳元をかすめた。
「でも、全部が報われた」
熱い体温を浴びて縫い取られたかのように動けない体に、絞り出すような声が響いた。




