第二話 龍の恋人 その二
西東京から高校の割と近くな祖父の家に移って、小手毬の生活は変わった。今まで放課後は部活もやらず、授業が終わると直ぐ校門を出た、真直ぐ家に帰るか新宿の予備校に通っていて、同級生と放課後ライフを送るなんてしなかった。勉強一筋の生活から放課後に余裕が出来た。引っ越したことは直ぐクラス中に知れ渡った。特に男子の反応が強かった。その週のうちに仲良くしている女子と、放課後ファーストフード店でお喋りもした。
それから二日と開けずに、龍神社で辰麿に逢うようになった。小手毬が辰麿のことが好きでしているのか、龍の術が掛けられてしまったのか、定かではない。
珍しいことに御祈祷の依頼があった。辰麿は神主の養成所には来春大学の天文学科を卒業してから行く予定であるが、中学生の頃から水神辰麿の仮の保護者で、叔父設定となっている地方の神主から教わったという体で、神事を行ってきた。今日もさも一人前の顔をして、家内安全を祈願してきた氏子に祝詞を上げた。
辰麿は、いつもと違い水色の雲立枠に龍丸の狩衣に、烏帽子を付けていた。祈祷後お札と授与品を氏子に渡して、お帰り頂いたところでへろへろになってしまった。座布団を片したとき、時計が四時過ぎていることに気が付いた。
「そろそろだ」
と独り言をいうと、何処か人目に付かず落ち着ける場所はと本殿の中を見回し、祭壇の後ろに回った。古い木の扉に大きな海老錠が付いた扉を背にして座り込んだ。扉の向こうには、御神体と宝物を安置していることになっている。
座り込んだ辰麿は目をつむり瞑想した。人間体の身体を地上におき、思念となって青龍の龍体は飛んだ。目を閉じると、瞬間に外の音が聞こえなくなり、夕刻で気温が下がった外気を感じなくなる。感覚が龍神社の社殿から昇る龍と同期した。ほぼ毎日龍として日本上空を飛ぶ青龍は自ら龍となって飛ぶ日も、思念で飛ぶ日もあった。感覚はほぼ同じだ。龍神社を一瞬だけ下に感じると眼下に東京が見え、日本列島が見えた。最近青龍は天に上がると、東に向かい太平洋をアメリカ西海岸まで行ってみることが多い。人が住んでいるところが青龍は気になるので、ハワイとかタヒチを回る。もっと南のフィリピンやインドネシアは紅龍のテリトリーだ。
上空に黄龍がいる気配がして、直ぐに上昇した。人類が地上に現れる前から龍だけが使う、中国語に似た古語で話す。
「黄龍、ごきげんよう」
声をかけると、鹿のように枝分かれした角を持つ雄龍の黄龍が答える。
「恋人が出来たんだって」
「たっはー」
「龍珠にするなんて、大胆なことをするね」
「運命だよ、黄龍。この子を見た瞬間、龍珠だと分かったんだ」
「おじさんには、分らん。恋人は恋人で、龍珠には出来ないよ」
「黄龍は恋人が沢山いるからか」
「白龍のように、悪い奴に喰われちまう心配の方を、俺はするな」
「あっこれから彼女が来るんだ」
「困ったもんだね、じゃ行くよ」
青龍は黄龍と別れると東京上空に戻った。いつも最後は、小手毬を探す。龍珠の探査能力は絶大だ。青龍十二歳小手毬が七歳で別れてから、小手毬のことをずーと見守って来た。今どきストーカーだなんて言われそうだが、龍珠とはそういうものだ。
青龍は『小手毬』と心の中で唱えると、小手毬を本能で探索した。龍神社の境内だった、今日は予備校がない日だと思い出す間もなく、あっ近いという感覚がした。
「龍君、何でこんなところに坐っているの、御神体じゃないんだから、皆に拝まれちゃうよ」
目の前に学校帰りの制服姿の小手毬の顔があった。向かい合って坐っている。
「ぼーとしないで、起きて起きて」
「急に疲れちゃったんだ。御神体。大丈夫だよ」
龍神社の御神体は辰麿=青龍で、辰麿は神主であり御神体だった。さらに日本で龍を祀っている神社仏閣からは、お賽銭の何割かが天照大神の運命管理センター経由でから送金されてくる、水神辰麿こそ日本の龍そのものだった。
「龍君は時々ぼーとしてるね。阿保ぽく見えるので注意した方がいいよ」
「小手毬、僕だって色々と頑張っているんだ」
「どこが」
きょうも辰麿に突っ込む、小手毬であった。小手毬は夏休みになってからも、ほぼ毎日辰麿に逢っている。暑い昼間に社務所のクーラーのかかった座敷で辰麿と話し込んだり、週に何回かお茶の水の予備校に補講に出かけるが、その帰り何故か家の前を通り過ぎ龍神社に行って涼しくなった境内で辰麿に逢っていた。
「何か音楽とか、楽器がやりたいんだけど、何がいいのかな。」
「高校のクラブに入れば、吹奏楽部なら小手毬の高校にもあるんじゃない」
小手毬は辰麿に相談した。未だ二年生なのに、受験勉強一色なのは残念だった。
「今更、吹奏楽部には入れないわ、それに興味があるのが、三味線とか和楽器なのよ、何処の先生がいいのかな、受験もあるのでクラブ活動じゃなくて、勉強の邪魔にならない、お稽古がいいな」
「雅楽はどお、神主の伝手で宮内庁の雅楽師さんを紹介できるかも」
「雅楽、それオーケストラみたいで、色々楽器にチャレンジ出来そう。お琴も太鼓もやりたい」
「雅楽が出来ると、女性だと十二単衣を着て五節の舞が出来るようなるんだ。いつかうちの神社に奉納して欲しいな」
「へえー踊りも教えてくれるんだ。十二単衣なんてお姫様にもなれるのね」
青龍は狙った方に、小手毬を誘導したのだった。神主や僧侶に雅楽を個人教授する、元宮内庁の楽師を紹介した。八月に入ってから、小手毬は篳篥との稽古をはじめた。楽器は神社に古いのがあったからと、辰麿から譲って貰えた。おじいさん先生だけれど、お稽古は一緒に稽古する小母様達と和気あいあいと楽しく。目白の住宅街にある稽古所に週一度通いはじめたのだった。
八月のお盆明けの日曜日は、龍神社の祭礼だが、お祭りには行かず、一泊二日で別れた母の新しい家族と、伊豆の温泉に行った。家族といっても以前父と一緒に開発研究をしていた共同研究者だった。新しい男と三人だが、顔見知りといっても気まずい。二日目は別行動で史跡巡りをしたら、二人に案外と喜ばれ昼食前に合流した時に、多目のお小遣いを貰って別れて、電車で一人で帰って来た。間違っても母と旅行することは今後無い気がした。別れの温泉旅行だったのだろう。
小手毬の夏休みは、予備校と、雅楽の稽古と龍神社に入り浸ることで終わった。
夏休み明け、学校に行くと、何処からか神社の神主と付き合っているという噂が、回っていたが、小手毬は気にしない。奴は幼馴染で、大学生をしながら神主という、目立ちやすい恰好をしているだけだ。彼氏でない理由は百でも言える。クラスの男子からからかわれたら、即反論したくらいだ。
受験のために通っていた新宿の予備校の本校がお茶の水にあったので、夏休みからお茶の水校に変えた。お茶の水の予備校に行くと、高校で顔見知りの生徒たちが随分いる。目的は同じ大学受験の所為もあって、学校でだらしなく制服を着ている男子生徒が、ここでは精悍に見えた。それに比べると大学に入学して、ぽやんと暮らしている辰麿の阿保面なことよ。
予備校で同じクラスの男子岡野君と仲良くなった。高校のクラスも理系進学コースだったので、ここでも国立の理系のクラスに入った。その男子とは地下鉄の新御茶ノ水駅駅から帰りも同じで、車内で話が弾んだ。その上学園祭のクラスの模擬店でもっと親密になり、映画を観に行く約束も取り付けた。
辰麿と違って身長百八十センチの、細面の美形で女子の人気があるので、クラスメートを出し抜いて小躍りした程だった。
十二月の初め、予備校での夜の授業中、急に大雨が降りだした。その日の天気予報では雨の予想はなかった。気温も寒くなってきてダウンジャケットを持参して正解だと思う初冬だ。講義が終わり、岡野君と並んで予備校のビルを出ようとしたとき、身長の低い男が、自分を待っているのを見つけた。
デニムパンツに、格子柄のシャツの上にグレーのよれよれのダウンのベストの辰麿が、黒い蝙蝠傘をさして番傘を手に持ち待っていたのだった。
辰麿は身長が百六十六センチしかない。結婚してやってあげた後の、大学四年の健康診断で、辰麿の身長を抜いたときはこれをねたにしてからかったくらいだ。この時は知らなかったが、奴の正体は人類がまだ猿でもなかった頃に生まれた、龍だ。夏に再会して知ったが、抜刀術とか格闘技を習っていて、人間の体は身長は低いが筋肉質で肩幅もある。昭和な男の体型なのだ。
鞄の中に折り畳みの傘があったら、無視して駅に行ったのだが、いつも持っているはずの折りたたみ傘が鞄の中に無かった。一昨日の雨のせいだ。水煙を上げて激しく降る雨で、周囲ではため息と、覚悟を決めお茶の水駅へ走る生徒と、スマホで家族に迎えを頼む生徒と交々だ。辰麿と目が合った、にやりと笑いながら、岡野君と小手毬の前に立った。
「小手毬、迎えに来たよ」
辰麿が舌足らずな声で、自分の名を呼ぶ。
「どうしてここにいるの」
「急に雨が降ってきて、困っているんじゃないかと思って、ほら僕、飯田橋の大学に通っているから、大学の帰りだよ」
と言った奴の手には、龍神社と書かれた番傘があった。大学帰りらしく手持ちのトートバックの中にノートパソコンと、分厚い専門書が入っているのが見える。変と言えば変だが、神主で大学生だから変ではないとも言える。
「誰なんですか、宮前さん」
岡野君の質問に、近所に住んでいる幼馴染と答える前に、辰麿から
「僕と小手毬は付き合っています。結婚も考えている仲です」
小手毬の「ちょっと待って、龍君」という声は雨にかき消された。
「大学生ともなると、結婚も視野に入るのですか、大人ですね」
岡野君には感心された。三人で新御茶ノ水駅から地下鉄に乗り、岡野と辰麿は大学の理系学部について話していた。岡野君は工学部志望だが、基礎学問への興味もあり迷っているようだった。先に小手毬達は降りたが、岡野君に辰麿の黒い蝙蝠傘を貸した。
番傘で相合傘となって家まで送ってもらう。辰麿に、
「さっきは御免。でも結婚のことは考えているんだ。強制はしない、小手毬は自由だ。でも僕は神主だから、将来結婚しなければならないんだ。正直今だったら、小手毬と結婚したい」
そう謝られても、岡野君とはこれでお終いなんだということの方が、小手毬にはずしんと来た。土砂降りの中迎えに来てもらったのには感謝するが、明日から学校で、神主と婚約したという噂が立つのであろう。
あと年末年始にお守り売り場の巫女のアルバイトも頼まれた。受験勉強の気晴らしにもなるし、母に逢うことも回避できるので、受けたのだった。後で小手毬はどうかしていたと悔やんだ。
年明け上級生の受験に纏わる交々話を横目で聞きながら、期末試験と来年の自分達の受験勉強に邁進した。そんな中週に一度の雅楽の稽古は、気分転換にもなった。稽古場に集う中高年の婦人方や、時々一緒になる女子音大生と話すのは楽しかった。大学生活を色々妄想できて、辰麿以外のボーイフレンドは絶対に欲しい。