第四話 龍の片想い その三
酒井礼二とは先日のコンサート以来進展はなかった。辰麿とは距離を置こうと考えた。うまい具合に辰麿は、神主養成所の研修で地方の神社に行っていて帰ってこない。年末年始もその神社で神官のアルバイトをするそうだ。何となく時間稼ぎにはなったと思った。
思いついて中学からの友達の七緒に、メールした。一方的に思われている男と結婚させられそうだ。その上男は一億歳の龍だ。ラノベのファンタジー好きなので、詳しく説明すれば分かってくれるはずだ。送信ボタンを押した後で文章を見たら、辰麿が龍であることは抜けていた。
父に連絡したが、確かに辰麿から一億円の資金提供を申し出られたが、借入金にして、特別に二年間の返済猶予期間を設けていただいた。あくまでも借金で、貰ってないという。利息は毎月払っているそうだ。
七緒といつも行く新宿の高層ビル街のカフェで逢って、この悩みを話した。
「今どき二十やそこらで嫁に行くことはないから、大学卒業まで待ってもらうとか常識だよ。小父さんも返済しているから、心配しないで、結婚させられそうになったら、小父さんに、ぴっちっと言って上げるって」
これで少し安心した。その後最近外国人観光客に人気だと聞いていた、都庁の展望台に登った。ガラス窓から六本木の森タワーと東京タワー越しの、倉庫街の向こうに海が望める。ふと顔を上げ視線を上げるとほんの少し陽炎の様に、空気が動くのが見えた。
十二月に入った辰麿と二か月近く逢わないのは、高二の時にこの街に戻ってから、はじめてだ。内閣官房の名刺を持っていた男は、その時以来接触して来ない。
辰麿と無理矢理結婚させられるという、官僚の話を忘れかけた頃だった。いつも通り五限が終わって家に帰った。冬至が近くなり地下鉄の駅を出たら暗くなっていた。商店街の明かりが眩しい。自宅に着いていつものように、台所にいる祖母に夕飯のことを聞きながら、一階の自室に入った。そこに怒りを顕わにした辰麿がいた。足元には段ボールの空箱が転がっている。
「お帰り、小手毬」
「龍君どうして此処に居るの」
家に食事に来ても、小手毬の部屋には勝手に辰麿は入って来なったはずだ。小手毬の最後の砦に奴は入り込んでいるのだ。心臓がきゅっと掴まれたようで不安な気持ちにさせた。
「小手毬ー、大学でピアノの試験があるんでしょう。僕に言えば買って上げたのに」
床に転がっている結構大きな段ボール箱は、電子ピアノだった。
「篠原先生の指導も受けられるように、僕がレッスン料を払ったから」
篠原先生は藝大のピアノ科の講師で、この西洋音楽の実技の試験官の一人だった。辰麿が試験官の名前までは知るはずはなかった。小手毬は思い出した、辰麿は七歳で親未公認であったが、婚約した時から辰麿は龍となると毎日見守っていたのだ。だから知っているのだ、顔から血の気が引いた。
「龍君はっきり言うわ。私達子供の頃に婚約したけれど、うちの両親は知らないし、もう十年以上前のことで、法律上無効だよ。
もう自由にしてよ、誰と付き合ってもいいでしょう」
辰麿は怒りで顔を紅潮させた。色が白いのでよくわかる。
「龍君のことは、決して嫌いじゃないよ。でもね私はまだ十九歳の大学生なんだ。卒業して就職しなくちゃならないし、キャリアを積んでからの結婚だから、二十代の後半になるわ。
もしも三十歳までに結婚できなかったら、その時は辰麿と結婚するつもり」
「僕のことは滑り止め何だ」
ようし、喧嘩上等だぜと、小手毬は戦闘態勢に入った。
すかさず辰麿に抱きしめられた。こんなに体が密着するのははじめてだ。
「離してよ、龍君」
小手毬は思い出した。子供の時は五歳年上なのに、青ちょろい男の子で、小手毬にも腕力で負けた。今の辰麿は格闘技をやっているので、腕から逃れようとしても、逃れられない。身長はほぼ同じだが、筋肉の厚みが違う。
不意に辰麿の顔が小手毬の顔に近づいて、動かない。キスでもされたら、もっと先のことは、祖父母がすぐ傍の部屋にいるので、しないだろうが、力尽くでどうにでもされそうな体勢だ。背中に回された辰麿の腕が強く体に食い込む。逃げられないと思った。
辰麿に見つめられたまま少しそのままの姿勢でいた。辰麿が不穏な言葉を投げつけた。
「他の男には触らせない。これは僕の物だ」
危ないキスだと思った瞬間だった。辰麿が人指し指で、小手毬の唇の真ん中を、上から下になぞった。
「何をしたの」
「小手毬に術をかけた。もう僕の物だ。
約束通り結婚しよう。僕たち神獣はけじめを付ける事が好き何だ。正式に結納を交わすまで、口付けはしない。結婚式を挙げ入籍するまで、セックスもしない。安心して。
これから僕達は結納を取り交わして、来年の秋、中秋の名月の二日後の、僕の一億歳のお誕生日に、結婚をします。
小手毬は僕の物だ」
そう言うと、辰麿は小手毬の身体を自由にした。小手毬は『止めて』と叫んだのに声が出なかった。床にへたり込んだ小手毬に合わせて、辰麿も坐って視線を合わせた。
「術って言ったわね、術とは何よ」
「僕との結婚に障害のあることは、喋れなくしたよ」
食事をするため、お茶の間に辰麿は行った。その後長い間小手毬はその場から立てなかったのだった。
辰麿は又研修のために地方の神社に戻った。祖父母の間から辰麿との結婚が盛り上がり、西東京に居る父と逢う手はずやら、年明けの二月に、古式ゆかしい結納を交わすことが決められていった。
もう脱力の日々で有るかと思ったら、大学の課題を真面目にやろういう気が盛り上がってきた。遠慮なく指導教員の自宅レッスンに通い、自宅では篳篥とピアノ練習を熱心にした。
それでもこの若さで、他の男との恋愛を夢見ることが出来なくなった事、自立して生きていく事、仕事をばりばりする事、全部が終わってしまったのだ。それは同年代の他の女性にはあって、理不尽にも辰麿に奪われてしまった。
橋を渡るとき、何本もの線路が通る陸橋の上、或るいはちょっとした高さのある所に来ると、ここから飛び降りれば楽になるかなと思っている自分がいた。辰麿に復讐はしたいが、痛い思いはしたくない。でも段々追い詰められている気がしている。
二月のはじめ期末試験の真っ最中に、結納が交わされた。今時見ないような水引き細工の大きな結納セットが、商店街の武蔵野呉服店から届けられた。実技の試験で頭が一杯な所で、段取りは祖母と辰麿でして貰った。もう投げ遣りだった。
当日の朝、美容師が家に来た時は何なのか分からなかった。言われるままに大急ぎで朝食を食べて、自室で美容師に髪をセットされた。ショートでただでさえ短いのに、あんこを入れ、盛髪にして髪飾りを付ける。鏡の中で淑女にされていく、美容師の手腕を不思議そうに見ていた。いい加減忘れていたが、高校生の時に祖母に買っても貰ってそのままになっていたはずの赤地に縁起物が刺繍された、振袖が仕立てられていて、着付けされた。
時間になると紋付き袴の辰麿と、はじめて逢う、北関東の神社の神主の叔父夫婦と、東京の有名神社の宮司が雇われ仲人として、来客した。どんな儀式だったかは覚えてない。
その日から辰麿はキスし放題である。人目に付かないところに、連れ込んでは小手毬の唇を吸う。大して不愉快にならないのは、幼馴染だからか、辰麿の言う所の龍の本能のなせる爲なのか。
術で言葉を封じられている事もあり、あれほど味方だった。七緒ですら、「らぶらぶでいいよね」と言って来る始末。辰麿の嫁になるかと人生諦めそうになってしまいそうだった。
どうも衝動的に自殺しそうになる。私の気持ちを分かって欲しいだけなのにと小手毬は思った。
所要があって一人で行ったビルの屋上が庭園になっていた。何気にエレベータで屋上に上り、庭園に出た、冬の庭園は常緑樹の緑があるとは故、目ぼしい花も咲いてなく寂しかった。思ったほど人気もない寂しい所だった。
葉が刈り取られて殆ど棒みたいな薔薇の花壇の後ろに常緑樹がこんもり茂っていた。その後ろにも通路があるようだったので行ってみた。さして高くない鉄柵の向こうが空中だった。
暫くそこでどうしたものかと感慨にふけった。自殺するほどのことではないが、辰麿と意に反して結婚させられることは、どうしても許せない。心が晴れぬまま、一通り庭園を回って一階に降りた。
一階はコンビニとスタバックスコーヒーに雑貨店が数店ある、オフィスビルのショッピングゾーンだった。女性向けの服と雑貨の店を試しに覗く。ピンク色やら花柄の好みの商品もあった。新しいのを買わなくてはいけないパジャマもあったが、品定めする気にならず。重い足を引きずってビルを出た。
辺りはだいぶ暗くなっていた。駅よりの正面口から出たはずだった。辺りは暗く大きなビルしかなった。
目の前の横断歩道を渡りながら、別の出口から出たのだと気が付いた時、車のクラクションが大きな音で鳴った。車が急停車する、信号機は赤で、横断歩道の中で立ち止まっていたのだ。
背の高い男に抱きかかえられた気がした。元居たビルの公園のような植え込みの奥に連れて行かれたのだった。
「あっ、ありがとうございます」
「お嬢さん、気を付けてくださいよ」
男は長身で黒い着物に羽織を着ていた。羽織紐は緑の勾玉を幾つも連ねた風変わりな着こなしだ。細面の顔に切れ長の目、端正な顔立ちの男だった。着物を着ているのと端正すぎる顔で、時代劇俳優に思えるくらいの美男だったが、小手毬はその男の額から一本の角が生えていたのを見て、冷っと思った。
「もしかして、辰麿の監視をしている鬼…ですか」
恐る恐る尋ねた。男にはスーツ姿の若い男が付いていて、角は無いが同じような冷っとしたものを感じた。彼らは親子だ。
「野守と申します。あの馬鹿龍の保護と、現世の日本国政府への圧力を掛けることを仕事にしています。地獄の長の仕事が主ですが。あなたも御存じの、閻魔大王は私の部下です」
小手毬はその美しい鬼から目が離れなくなった。
「あのう死のうと思った訳ではないのですが、色々考えてしまっていて、気が付いたら車道の真ん中にいました。馬鹿ですね」
溜息をつくと鬼は小手毬に説明した。
「可哀そうに青龍に術をかけられていますな、お嬢さん。
それとお嬢さんは、もう人間の範疇から、脱しています」
小手毬は泣きそうになった。
「青龍の手から食べ物を貰ったり、唾液を摂取させられていますね」
辰麿と再会して以来、随分食べ物を一緒に食べたりしているし、結納して正式に婚約してからは、何かと口を吸われている。これは不可効力なのだ。
「水神辰麿は青龍と云う、世界に五匹しかいない龍の一匹です。私のような鬼よりも、キリストや仏陀よりも、長命で格の高い、神の一種・神獣です。
世界で一番我儘で困った龍です。
あなたは青龍に捧げられた生贄なのです。この世界を護るため、この地球が捧げた生贄でもあるのです。
貴方があのまま、車に轢かれ死んでも、地獄の三途の川で辰麿が待っているでしょう。そのまま地獄の五つ星ホテルに連れ込まれて、性行為に及ばれてしまいます。死んでもあの世で辰麿が待っているのです。
此のまま現世で生きて、結婚することをお勧めします。その方が痛くないでしょう」
「あー。確かにその方が痛くなさそうです」
ちょと小手毬は笑って見せたが、ブラックだと思った。
「生贄の女性は、あの世で優遇されています。パートナーと別れることは出来ませんが、自由気ままに贅沢な生活を楽しんでいます。
少し説明しますと、あなたが死ぬか、辰麿の一番上の子供を出産することで、我々の仲間として、不老不死の生命を得ます。あなたは特別な存在なのです」
ビルの壁際で闇に隠れているとはいえ、会社帰りのサラリーマンが植え込みの向こうの歩道を普通に歩いている。さっき渡ろうとした道路は多く車が行き交っていた。現世の人間の営みの直ぐ傍に鬼がいるのだ。小手毬はそれに驚くでもなく、普通に受けている。これ自体辰麿の術なのだろうな。
鬼の親子と別れた後で元来たビルの中に戻り駅側の大きな入り口に向かった。人間の世界は明るく煌めいている、その対比が小手毬を安心させた。
御神体なのに神主養成所に通っています。
地獄で仏ではなく、現世で鬼に逢ったヒロイン。