第一話 僕結婚します その一
青龍は現世日本の東京二十三区内に住んでいた。日本国政府は龍のお世話係で、あの世の支配下にあった。人類は龍君のお嫁さんを可愛くするためだけに進化したのだった。
青龍は思った
「一億歳の誕生日に結婚しよう。そう二十歳のあの子一緒になるんだ」
そんな傍迷惑な龍の物語である。
第一話 僕結婚します
龍は個体数が少ない、この地球に龍は紅龍・黄龍・白龍・黒龍そして青龍の五柱しかいない。
その龍たちは、神々より古くからこの地球に住み地球を支配してきた。具体的に何をしているのかは、龍が語らないので、神々でも知らなかった。龍をはじめとする、麒麟、鳳凰の神獣たちは、神々や鬼の属する妖怪達より、ヒエラルキーが上だった。あの世の神と妖怪の世界では、龍は時に怖れられ、尊ばれていた。神と人が未分化な太古の時代、東アジアでは龍が人に交じり暮らし、その龍の身体を現したので、人間は龍を信仰するようになった。
鮮やかな青色と緑色の鱗が斑に生えた、一匹の若い龍が太平洋上空を飛行している。全長約三百メートル余り。頭の長さは約四メートル、頭部から生える真直ぐ伸びた二本の角は頭の長さの二倍あった。頭の後ろから尻尾まで背中の真ん中を、黒く艶やかな鬣が一列に生えている。龍の顔は現世の絵画にある蛇の頭を模したものと違い、哺乳類的な顔を押しつぶした頭をしていた。鰐によく似た大きな口には、鋭い歯が二重三重に生えている。現世の美術品に見る、老人のような皺のある顔はしていない。ぬっぺりとした顏に、こぼれんばかりの大きな目をしていた。顏と腹は、煌めくエメラルドのような緑色をしている。背中の鱗は一層輝く、青と緑のグラデーションでサファイアとも翡翠の色にも見えた。腹の筋肉は逞しく、手足もがっしりとした作りだ。手足共に五本指で、鋭い鉤爪が付いている。
動く七宝細工いや宝飾品のような煌びやかで、優雅に飛ぶ青い龍は、仲間と神々に青龍と呼ばれて伝説になっていた。
龍は個体差があるが、定期的に空を飛び地球と宇宙を観察している。人と同じ体の神の身体を地球に残し『思念』で飛ぶこともあるが、今日の青龍のように、その身を龍の身体に変え地表から飛び立つこともあった。青龍の監視範囲は太平洋で、ユーラシア大陸より東の海、日本海・対馬海峡・東シナ海から東。日本上空からハワイ、アメリカ大陸に接する太平洋だった。この美しい龍のことを現世の人間は見ることが出来ない。稀に見えることもあるが、透明で微かに風で動く陽炎にしか見えなかった。
思念にしろ龍体にしろ、龍は空中で他の龍達と交流をする。青龍が現代日本語で、
「白龍、またさぼってるじゃーん」
大学生が、講義を欠席した同ゼミ生のことを、仕方ない奴という言い方で独り言を言った。
白龍は朝鮮半島から中国東北地方の満州天国の上空からモンゴル、シベリア北極を監視範囲にする、年上の龍だ。ハワイ上空から高速で日本海に上空に飛んで来た青龍は、白龍がここ何日も来ていないことに気が付いた。
「白龍は奥さんが居なくなったから、仕方ないんだ」
仕方がない許すという体で、青龍は独り言を言った。
家に帰るために秋田上空から東京に向うとき、青龍のかなり上空を別の龍が飛ぶのを視界の端に見た。青龍に悟られぬようその龍も距離を開けている、向こうの龍が行き過ぎてから、青龍はそっちの方に頭を向けた。
『黒龍』
心の中で呟く、動揺を隠すように東京へと向かった。黒龍は青龍の兄だ。青龍は黒龍が宇宙空間で、また良からぬことをしているか気になった。黒龍の目に触れてもよい様、東京上空を優雅に輪を描いて飛び、都心の某地点に直線に降りた。無論術を掛けているので人は龍を見ることが出来ない。
青龍が地上に降り立つと、二十代前半の日本人男性にその姿を変えた。色白でお公家さんのような顔に、クリっとした大きな目。身長は百七十センチもなく男性としては低かったが、抜刀術と筋肉トレーニングで鍛えているので、肩幅がある。あまり頓着しないのかぼさぼさの髪を肩まで伸ばしていた。
青年は、よれよれに着込んだ白い着物に水色の袴、足には白い足袋と安いビニールの草履を履いている。神主だった。
神々より古くから生きる、龍をはじめとする神獣達、神とその末裔で鬼や狐を含む妖怪、それは日本のみならず、西洋のモンスターも、神の身体=人間の体で、多くの時間暮らしていた。彼らは神の身体になることで社会を構成し、恋をし、子を成していた。
青龍もまた龍の身体の他に、人と同じ神の身体を持っていた。
青龍が立っている所は、見事な竹藪の中に建つ、唐門の格式のある大きな玄関先きだった。黒漆塗りで控えめな彫刻が少しだけ付いていた。龍御殿と云い青龍が住んでいる地上の幽世・隠れ里にあった。
この世は人間が住む現世、神と妖に住むあの世=日本冥界。日本冥界も天上の高天原政庁やら極楽浄土がある天国と、地下にある罪人の処罰を行う地獄に分かれる。そして地上の現世にスポット時にあるのが、幽世・隠れ里だ。ここは土地神や妖怪が住んでいる場所で、人間が迷い込めぬよう、入り口は幾重にも結界が張られている。
龍御殿の幽世は美しい竹林の中にあった。龍御殿の前の庭から竹林が続き、そこここに青龍の眷属達の家やら、東京観光に来た妖怪のためにゲストハウスがあった。竹藪は高台にあってそこから東京の景色が望められた。スカイツリーや下町が望めるのだ。現世には隠匿されていて、地図には人の踏み込めぬ急峻な崖で、航空写真にもグーグルアースにも三メーター位の幅の竹藪でしかなかった。
さて、青龍が漆塗りの木戸を開け大名屋敷かと見紛う、式台のある玄関で、
「ただいま」
と声を掛けると、御殿女中かと思う豪華な打ち掛け姿の、中年女性が出て来た、顔が卵の様に何のパーツもない。のっぺらぼうだった。彼女は青龍の眷属で身の回り世話をしている妖怪の一人だ。「お帰りなさいませ」と頭を下げる。
「今日の晩御飯は、鶏の唐揚げと、茄子の煮物にポテトサラダなんだ。ポテトに茹で卵とハムを忘れないでね」
と言うとそのまま座敷には上がらず。玄関の土間の壁にある板戸を開けた。
板戸の中は履物やら傘を置く棚がある。棚には礼装用からおしゃれ用の男物の草履や下駄が多く入れてある。神主らしく祭礼用の沓もある。スポーツシューズも何足か、ほこりを被った紳士物の革靴もあった。一番奥まった棚には古い男児用の履物が置かれていた。藁草履から戦隊シリーズのキャラの付いた運動靴。特に目に付くのは江戸時代のアンティークに見える沢山の子供の下駄だった。漆塗りの高価なものから、遊び過ぎて白木のすり減った下駄もあった。
この履物の収納部屋を通り向こう側の木の引き戸を開けた。青龍は戸を閉めるとき、懐から鍵の束を取り出し、厳重に施錠した上に結界を貼った。雑草が生えている一坪ほどの空き地の向こうに、古い下見板の木造二階屋があった。ここから先は人間の居る現世だった。
その二階屋の勝手口の木の引き戸を、青龍は鍵で開けた。土間になっていて薄暗い台所になっていた。小さな冷蔵庫が置かれてはいるが、電気コンロで湯を沸かし茶の用意をするしか、普段は使われていないようだった。さらに木の引き戸を開けるとお守り売り場と、事務が執れるよう、三つ事務机が置かれその上にはノートパソコンやファクシミリ付き電話機が置かれている。大きなディスプレが置かれている机もあった。壁際にはスリーディプリンターもあった。土間の足元には段ボール箱が幾つも積み上げられて、箱にはお守り祭り用品と印刷されていた。窓には棚が付いていて、棚の上にカラフルなお守りやら授与品が並べられている。神主が不在なので売り場のガラス戸は閉じられていた。ガラス窓からは神社の境内全体が見えた。
神主に姿を変えた青龍は、事務机でノートパソコンを開き、事務仕事をはじめた。それから思い立って社務所を出て。境内を巡回方々郵便物を取りに行ったのだった。時刻は四時過ぎだった。社務所の表の入り口にあるポストの所に行くと、郵政公社の配達人が丁度来ていた。青龍の顔を見て、
「水神さん。辰麿さんはいらしゃいますか、書留が来ています」
「水神辰麿は僕です」
というと社務所に戻りシャチハタ印を持って来た。区から保険証が送付されたのだった。東京に住む龍は、現世で人間になるときは、水神辰麿と名乗っていた。
境内のドッジボールコートには、放課後遊んでいる小学生が数人かいた。辰麿は子供たちに声を掛けた。境内を一通り見て歩く。道路と境内の境目には玉垣がなく人も車も勝手に入って来られる。本殿の正面の境目には、何処にでもありそうな、一番上の笠木は反り返った、明神造りの御影石の鳥居が建っている。その扁額には「龍神社」と彫られていたる。
百五十年前の、明治元年に創建と共に建立された本殿は、面倒臭いことに区の重要文化財になっている。瓦屋根の流れ造りで、大きさは縦横三間に後ろに御神体の安置場所が社殿の後ろに出ていた。江戸時代の名残で、龍が遊ぶ彫刻が拝殿に彫られている。塗装はなく今では木の風合いが出て、渋い社殿となっている。正面の扉は参詣人のために三センチほど開くようにして鍵が掛けられていた。
辰麿は草履を脱いで社殿に上がり、欄干を配した廻り縁を通り、社殿の脇の引き戸から社殿に入った。特に灯明など火の元を、念入りにチェックしてから、正面の扉を内側から施錠した。
「もう仕舞にしたんですか」
老人が戸締りをして社殿の階を降りた辰麿に声を掛けた。
「はい、大体日が落ちる前の時間に、社殿の扉は閉めてしまいます。今日は少し早かったかも知れません。御神体も神様もまだ起きていますので。参拝していってください」
老人が近所に住む、数少ない龍神社の氏子の馬場さんだった、熱心信仰されていて家族は毎日参拝に来ていた。それから話が大学のことになった。
水神辰麿は現在二十一歳ということになっていた。飯田橋にある結構偏差値の高い私立の理系大学の四年生だった。孫が家業の大工を継ぐために建築科を受験したいがどうしたものか、老人に相談された。
その後はいつものように、社務所の戸締りをして台所の勝手口から、結界を通って裏の竹藪の幽世へ辰麿は帰って行った。現世とこの幽世の行き来には幾つか通り道があるが、辰麿は龍屋敷の履物の納戸から社務所の台所に抜けていた。
一枚板の引き戸を開けて、辰麿が龍屋敷の玄関に戻ると、もうじき七月というのに、革のパンツに革の長袖のシャツを着込んだ長身の男が迎え出た。彼は龍馬という龍に使役される馬で、辰麿の子供の頃からの眷属だった。
神獣や妖怪は長く生きているので、古い服装を好む。日本の妖怪たちは着物を好み、平安装束も愛用していた。礼装用に束帯、水干は幼稚園児から大学生までの、汚れ除けの上っ張りとして親たちに有難がれ、高天の原政庁の役人の制服にもなっていた。女性は五衣唐衣を好み礼装の他にも、彼女たちが頻繁に開く料亭での女子会でよく着られた。ヨーロッパのラテン天国やら、ギリシャ冥界に目を向けると、欧州文化華やかなりし時の服装ということで、ヴェルサイユ宮殿の集う貴紳もかくやと思わせる、ロココ時代の服装が今でも着られていた。あそこの女達は大きなバニエをドレスに着こんでいる。
そんな妖怪たちの中で、龍馬はロック趣味が強いとはいえ、現代日本の服を着ていた。変わった男だった。 高円寺のマンションに住みミュージシャンとして、人間達のライブハウスに、不審がられないで出入りしていた。
辰麿と龍馬は屋敷の裏手にある台所へ行った。台所の窓は、龍神社の社務所と社殿の間にあって神社の境内が見えた。先程ののっぺらぼうが、ダイニングテーブルに食事を出している。台所にある二台のテレビをつけると、一台は現世のニュース番組を映し、もう一台には角の生えた鬼の女性が、極めて真面目な顔をしてニュース原稿を読んでいる、こちらは日本冥界のテレビだった。料理をテーブルに運ぶと、奥女中はすーと音も立てずに消えた。
残った男二人でテーブルを囲む。鶏の唐揚げをつまんだ。龍馬はビールを飲んでいる。
「龍馬、今日は何処を飛んでいたの」
辰麿は酒も飲まず、大盛にしたご飯をかき込んでいた。お味噌汁を一口飲んで向かい側の男に声を掛けた。
「青龍のように俺は高く飛べないから、日本の上空、今日は少し天国に行ってみたよ」
「ふーん。そうだ白龍の噂を聞かなかった。今日も来ていなかったんだよ」
「日本の天国では何も聞いていない」
「それと黒龍が宇宙に飛ぶのを見ちゃった」
「それは不味いね」
「何か分からないかな」
「それは地獄の野守さんに聞けば」
「野守さんより、奥さんの胡蝶さんがいいな」
「胡蝶さんに、龍の秘密教えちゃうので、黒龍の事を教えてって」
「あーそれは出来ない。でもスパコンで龍の動きは把握しているんだよ、黒龍何処にいるんだろう。何処の天国にもいないなんて、天空の亜空間に住んでいるのかな。あー唐揚げ残しといて」
龍馬は青龍の父親が、仲間と別れて暮らすことになった、母親に眷属として遣わした馬の妖怪だった。父龍が生み出したもので馬の身体を持っている。馬になると天空を飛び龍より遥か低空だが空を飛び回って監視をしている。時に現世で馬となり昔は青龍の人間体の少年に付き添い、全国の寺々を旅した。現代では滅多にないが車の運転をする。青龍の仕事の手伝いと、移動の手伝いをする妖怪だ。青龍にとって生まれた時からの付き合いで、兄のようにも家族でもあったりするが、眷属という関係は現世の人間には理解の範疇外の関係性だった。ただ青龍の何人もいる眷属の中で、龍馬と女医のろくろ首は最上位にいる。龍屋敷の奥のそのまたプライベート空間で、一緒に食事が出来るのはこのふたりだけだ。
「昼間さー、露芝からメールが来たよ」
龍馬はポケットから取り出したスマホの画面を見せた。現世のラインのようなソーシャルメディアがある。画面が縦書きで、直感で使えるが、恐ろしくセキュリティーが堅い代物だ。そこに女医のろくろ首の投稿があった。彼女は地獄の医学部で現在勉強中だ、
「実習で天人の赤ちゃんを取り上げたって」
「うぉー」
「産科の次は小児科の勉強をしたいんだってさ、どう思う」
「いいことじゃない」
他愛のない話をしているうちに、テーブルの料理は食い尽くされ、あの世のテレビは、妖怪芸人のお笑い番組をはじめていた。
「あー隙だ」
内閣官房国民生活調査局伝統宗教担当課長の笠原は、暇すぎて欠伸をした。欠伸をしようが居眠りをしようが、機密保持のためこの部署は小さな部屋を与えられている。
伝統宗教を調査するなどというと、公安がやっている新興宗教団体の調査の反対で、神道だの天台宗だのはたまたカトリックだの、非常に古い宗派を調査する様に見える。それは文化庁だろう。俺はこの任についてから神社本庁に行って、「お話聞かせて下さーい」なんて一度もやったことはない。仕事の内容の割に政府は重要視していて、報告するときは、局長をすっ飛ばして、官房長官に報告と決まっている。内閣総理大臣の前で説明もした。これは極秘情報中の極秘だ。
笠原が前任者に聞いた話では、戦後すぐ宮内庁からこの業務を、総理大臣の直轄にするため内閣官房で取り上げたときは、かなりの抵抗をされたそうだ。代々担当の官僚は大概一人だった。この仕事につくと何十年も担当が変わらず、ひっそりと定年を迎え、また新しい担当に変わった。大体がノンキャリアだったが、高級官僚が付くこともあった。秘匿中の秘匿の業務だから、ここに来るだけで格段と待遇が上がる。ノンキャリの笠原がかつて望めなかった高給を得ている。
仕事の内容は、自分が龍だと言っている青年の保護と監視である。月に一度都内のある神社に面会に行き、報告書を作成する。必要とあらば身辺を調査する。そんなもんだが、前任の女房の病気の介護で手いっぱいだった、地味な男の話だと、神武天皇がこいつの保護をはじめるずーと前、八千万年前から十歳の子供だったのだ。それもびっくりだったが、こいつが人間社会で疑われもしないで生きていくために、アリバイ工作するのがここの仕事だった。主に戸籍の操作だ。十歳という微妙な年齢のおかげで、三年位で新しい戸籍と偽の両親をでっち上げていたんだ。
俺がこの任につく数年前から、何故だかこいつが成長してしまい、この仕事は俺はやっていない。三年前に引き継いだとき、龍の男は高校三年生で大学受験をしようとしていた。保護者の書く書類とかを偽造した。奴は勝手に受験して大学生になったんだ。後で聞いたが自分でマイナンバーカードを区役に申請して持っているそうだ。社会常識は龍の癖にあるのだ。
「あー明日かよ」
都内の神社に龍男会いに行くのは、面倒だな。卒業後は神主になるから、大したこともないだろう。
「今日もお姐ちゃんの所に行っちゃうか」
あの男が本当に龍だってことは知っている。総理官邸の首相の前で、水神辰麿は一瞬で龍に変身して見せた。きらきらした青い身体をしていて、青龍というんだって、伝説の東の龍は奴のことだそうだ。
それともう一つ、天照大神のお使いという、野守という鬼神と総理との会談をセッティングする仕事がある。総理就任時と極たまに向こうから用事があれば連絡してくる。鬼というだけあって怖いですよ。不手際あると地獄落ちだそう。
この仕事に就くには、誠実さ、真面目さ、秘密厳守、まあこんな能力はいらないね。龍に術を掛けられて、龍の事を話せないし、書けない。キーボード入力も出来なくされている。逆に楽といえば楽だ。どうも条件があるらしくて、家族に病人がいるとかだそうだ。実の姉が難病で寝たきりなので、ここに回されたようだ。介護を理由に休んだりしていたので、これで来ることになった。こんな暇な部署に来て得したものだ。姉の世話は義兄がしているけれどね。
役所というのは変なものだ、私一人でも暇を持て余す部署に、大学生のアルバイトが来た。東大法学部の学生で、寺田曼珠という若い男だ。ジャニーズにでもいそうな足の長い男だ。こいつに面倒な報告書作りをさせている。そういえば明日もあいつが来ない日だ。シフト入れて置けば良かったな。
この仕事をしていると、待遇以外でも良いことがあるそうだ。これも部外者には話していけないことだが、無事勤め上げ龍男に特に嫌われなければ、本人とその家族場合によれば友人が、死後天国の極楽浄土へ迎え入れられるそうだ。近親者に病人というのはこのためかと、腑に落ちた。これも霞ヶ関にある変な伝説の一つだと思っている。
辰麿が指定した午後一時に龍神社の社務所に笠原が行くと、一足遅れて辰麿が戻って来た。大学の帰りでこの男としては珍しく、紺色の半そでのティーシャツにデニムパンツと洋装だった。
「笠原さん待ちました。研究室で教授と話し込んじゃって、すみませんね。今開けますから」
雨戸がぴっちり閉められた、社務所に入り雨戸をあけた。おみくじ売り場の横の十畳の座敷に、いつものように通される。座敷側から見えないが辰麿は土間の一角で、電気ポットで湯を沸かし茶の用意をしている。茶托に載せた茶を慣れた手つきで出した。
いつもは着物に袴姿で手足を露出することはないが、こうして見ると体に筋肉が付いているか分かる。格闘技の道場をあちこち通っているのは伊達じゃないようだ。しかし龍でありながら、人間の姿も鍛えるのはどういうことだ。こいつナルシストかと、笠原は少し思った。
笠原がいつものように近況を訊ねた。
「大学もちゃんと通ってるよ。これからの予定は夏休みにゼミ合宿があるのと、八月に龍神社のお祭りがあるくらい。
それとー面倒くさいから明後日、あちらと一緒に説明するけれど、結婚するよ」
「あちらって、鬼ですか」
「あー野守さんのことね、野守さんは忙しいから、猫さんが来ますよ。もふもふして怖くありません。説明会何時にしますか」
「鬼と同席は勘弁してくれ、猫って猫の妖怪か」
「そうですけど、とっても真面目な公務員さん。はちわれで可愛い猫又さんですよ」
「まあいいや。あっちにも公務員がいるのはいやはや、面白いものですなー」
あー面倒だ辰麿と結婚しようとする女がいるのか。おっとりしている癖に、やることはやっているのか。また女の分の戸籍操作もするのかよ。明後日は寺田曼珠の出勤日なのでそれは助かったと笠原は思った。適当に時間を決め、帰って行った。
辰麿は社務所の戸締りをすると、台所の勝手口から、龍御殿に帰った。眷属ののっぺらぼうの作ったお昼ご飯を食べ、三十分後謁見に臨んだ。
猫が正座して頭を下げていた。
龍神社裏の隠れ里にある龍御殿、猫が正座するのは、二百畳以上もある畳敷きの広い座敷だった。猫が頭を下げる先には、一段といっても三尺、九十センチ以上も高い段になっていて、御簾の掛かった上段となっている。上段の真ん中の御簾が上がる。青龍の後ろには、正倉に類品がある隋渡の南洋の象の絵柄のエキゾティックな屏風、両脇には几帳が置かれ内部が窺い知れないようになっている。畳の上に繧繝縁の畳が重ねられ、その上の分厚い大きな座布団の上に、神主の辰麿が坐っている。大学の通学着から着替えて、神主の白い着物に水色の袴だ。
猫が平身低頭した。白地に黒の斑点の和猫で、渋い薄灰色の絹の茶羽織を着ている。それだけならば、ペットに服を着せたがる今風の飼い猫に思えるが、猫の長い尾は二つに分かれ、猫又だった。妖怪の猫又で地獄から来たのだった。妖怪でなければ正座もできますまい。
「青龍様に於いては、お変わりなくお過ごしになられておりますでしょうか」
こちらも月に一度の定時面談だ。面倒臭いなと青龍は思いながら。先程と同じことを言う。
「大学もちゃんと通ってるよ。これからの予定は夏休みにゼミ合宿があるのと、八月に龍神社のお祭りがあるくらい。
それとー面倒くさいから明後日、内閣官房のと一緒に説明するけれど、結婚するよ」
「へぇー」
と驚いた猫又は、一瞬で人間に変身した。正確には神と同じ体となった。中年男性で、黒系の葛織にも見える素朴な織の着物に、先程の渋い絹の茶羽織を着ている。猫又だけれど猫耳はなく人間の耳をしている。猫又は日本のあの世の高天原政庁の下にある、地獄を治める地獄省の長官の、執務室勤務の秘書官だ。直接のボスは長官という公務員だった。
「これは野守様に来ていただけなければいけませんね。明後日の何時からで場所は」
といいながら中年男はスマホで長官に電話した。青龍は笠原より、野守長官の秘書軍団の方が仕事が出来ると思っている。
「今から来るそうです。青龍様今からお会いできますか」
「大丈夫だよ、次いでに笠原さんも呼んじゃおっと」
そちらもスマホで笠原に連絡している。
小半時後、龍御殿の玄関に、絶世の美貌男子の鬼が立っていた。日本冥界の高天の原政庁の高官で、地獄省の最高権力者の長官でもあり、現世日本政府に圧力をかけることを仕事としている、野守という鬼である。身長は百八十センチを超える、人間の男ならば長身で、背中の中程まで伸ばした黒いストレートヘアを、組み紐で一つに束ねていた。細面の顔に細く切れ上がった一重瞼の目、なで肩の身体と遠目で見れば、女性かと見紛う姿。不老不死故に二十代とも壮年とも見える、年齢不詳な顔立ちをしている。そしてその額の中央には、一本の角が天を向いて生えていたのだった。冷やりとした印象を受ける。黒い現世では見ない織の着物に、地獄の血の池地獄を連想させる、気色の良くない赤色の帯。その上には長着とは別の光る織の黒い羽織、羽織紐は白に近い灰色の紐が太いものだった。矢鱈と艶っぽい男だ。
日本冥界の民では滅多に見ないグレーのスーツ姿の若い男が従っている。彼のことを青龍は知っている。曼珠沙華という地獄の住人に目茶目茶多い名前の、野守の三男だ。まだ地獄の高校生のはずだが、東大法学部にも通いながら笠原の監視役として内閣官房にアルバイトとして入り込んでいる。これは青龍が「笠原ってだめだめじゃんー」と言ったら保険として地獄から派遣した。角は生えていないし父親より多少現世受けのする、目がぱっちりとしたイケメンだった。こちらも身長百八十センチ台と父親位あるが、少年らしく細身だ。
待っていた中年男の猫又と野守は、玄関先で短い打ち合わせをしたのち、猫又は姿を消した。きっと牛頭門から地獄に戻って行ったのだ。
龍神社の幽世ではなくて現世の、先ほど笠原と会っていた、社務所の座敷で、説明会を開く、阿保っぽい大学生神主と、地獄の大鬼神様を数十分待たせて、笠原が来た。術で角と鋭い爪を隠しているが、カリスマ性オーラをがんがん飛ばす野守さんを見て、笠原がびびるのが分る。
辰麿はお祭りの打ち合わせでもするように、座敷の中央に座卓を置き、座卓を挟んで、アルバイト大学生、笠原、地獄の長官の鬼人,の順に座布団を並べ、座卓の向こう側に辰麿の座布団を置いて席にした。さっきと同じように台所で辰麿が茶を煎れる。