後編
目を覚ましたとき、暴力的な光に目がくらみ、それと同時にずきりとした痛みが頭を突き抜け、わたしは反射的に顔をしかめた。
「――夕那!? 夕那っ!!」
枕元で泣き叫ぶ懐かしい声がして、そちらへと顔を向ける。そこにいたのは、最近は忙しくて会う機会もなかった、唯一の肉親である姉の姿だった。
今は腫れた目元で、憔悴した蒼い顔しているけど、それでも久しぶりに見た姉は、以前よりも頰がふっくらとしていて、健康そうでほっとした。
ここはどこだろう?
窓から差し込む朝日と人工的な光で、あたりは充分すぎるくらいに明るい。窓から、あたりへと順に首を巡らせた。
はじめに目についたのは三分の一ほど残った点滴のパックで、吊られているそこから伸びた管は、わたしの左腕に繋がっていた。その横で、姉がめったに見せない泣き顔でパイプイスに浅く座って、こちらへと身を乗り出している。隣に寄り添っていた彼女の夫は、「先生を呼んで来る!」と告げて、慌ただしく部屋を飛び出して行った。
「バカッ! この、バカ妹!! なにがちゃんとやってるよ。ちゃんと生活している人間が、そんなやせ細って、踏ん張りきかずに駅の階段から転がり落ちるわけないでしょう!」
ああ……そっか。
思い出した。わたしは駅の階段から真っ逆さまに落ちたんだった。
事故、だったんだ……。
それを喜べずにいる自分に、嫌気がさす。
「警察から連絡が来て、どれだけ驚いたか。すぐ近くで事件もあったみたいだし、もしかして巻き込まれたのかもなんて聞かされて、生きた心地がしなかったわよ! ねぇ、聞いてるの!?」
「すみません、聞いてます」
「心配したんだからぁ!!」
「……うん。ありがとう、お姉ちゃん」
わたしの姉は、わたしのことを叱りながらも、こんなにもストレートに心配したと言ってくれる。兄弟でも、言わなければ伝わらない。あの人もそうだったら……違う未来があったんだろうか。
「お願いだから、無理しないで。大丈夫? 痛いところない?」
「大丈夫」
「本当に? 強がってちゃだめよ、本当に痛くないの?」
「うん、今はそこまで、痛くないよ」
「だったらなんで、泣いてるの?」
「え? あ……」
はらはらと、涙が次々と溢れては、伝って枕をぬらす。
正直に言えば、頭や足や、痛いところはたくさんあって、だけどわたしが一番に痛みを感じていたのは、胸の奥底。もう二度と、触れられない場所。――触れられない人。
「……悲しい夢を、見てたから」
ぽつりと答えたわたしを、怪訝そうにする姉も、義兄が呼んできた担当医が入って来て意識を切り替えた。
わたしひとりだけが、まだ、夢の中に漂っているように、先生の話をぼんやりと遠くに聞いていた。
精密検査を受けて、わたしは奇跡的に打撲と擦り傷、それと重めの足首の捻挫くらいであることが判明した。それでも事故の原因が過労だと知ると姉が激怒して、どう手を回したのか静養のための入院(個室)を数日もぎ取り、次に会社を訴えると言い出し、なだめるのにずいぶん苦労した。
わたしが辞めることで一応納得してくれたものの、未払いの残業代を請求する訴えを起こすと言ったときは、どうなることかと思った。
お金なんてどうでもいい。とは、やっぱり言えない。
だけどわたしとしては、早くあの会社と縁を切って、限りある残りの時間を、新しい人生を考えるために割きたかった。未来を見据えることで、夢とはいえ、彼のことを考えないように目を背けていた。――けれど。
「そういえば夕那、彼氏がいたの?」
姉のその質問の意図が見えずに首を傾げると、彼女はベッドの横、テレビの下の引き出しからなにかを取り出して、わたしの方へと、ほら、というように突きつけてきた。
瞠目した。姉の手の中に、あるはずのない指輪があった。
白銀の指輪。薄暗い中で見たものよりもずっと綺麗で、彼の髪を思わせるその色に、胸がじり、と熱くなった。
「CTとレントゲンを撮るときに外したって、看護師さんが」
言葉を失うわたしに、姉はなにか勘違いしたようで、不倫はだめよと、こんこんと説教されることとなった。
説明はできないし、わたし自身なぜ、という疑問で頭がいっぱいだった。
起きたとき、あれは生々しいだけのただの夢だと思っていた。
違ったのなら、彼は?
エレンはどうなったんだろう。
わたしが憂うまでもなく、答えは明白だ。彼はきっと、本懐を遂げた。微笑みながら、死んでいった。わたしがいなければ、止める人間なんて、あの国にはいない。
わたしがいれば……!
……でも、わたしがいても……。
さっきまでとは違う、痛みを伴った涙が布団に落ちた。
もう会えない。永遠に。
だけど、それだけなら、我慢できた。
わからないけど、どこかで幸せに生きていてくれるのなら、わたしもわたしの人生を進んで行ったと思う。
でも、もういない。エレンはあの世界の、どこにもいない。
わたしは彼のために、なにもできなかった。
ありがとうと言ってくれたけど、あれは彼の優しさで、大切な最後の時間を、わたしのわがままに付き合わせただけだ。
ひとり、布団に顔を押しつけて、わたしは彼のために、声を殺して泣いた。
昼過ぎ、泣き疲れていたところへ、警察の人が話を聞きにやって来た。刑事らしきスーツのふたりと制服警官がひとり。
わたしの転落事故の件と、姉がさっき言っていた、わたしの転落した場所のすぐ近くで起きたという、傷害事件について。
簡単に傷害事件と言っても、被害者はナイフで脇腹を刺される大怪我を負っているというので、ゆくゆくは殺人未遂事件にもなり得る重大な事件だった。
どうやらわたしがその現場を目撃し、口封じのために突き落とされたのだと疑っているらしい。防犯カメラの映像のちょうど死角で、肝心の落ちるその瞬間はきちんと映っていなかったが、その場から逃げだした怪しい男がいたという証言もあるとか。
話を聞いて、ひとつ安堵したこともある。わたしの巻き添えになった人がいなかったのが、不幸中の幸いだった。
形式的に、なにか見てないかを訊かれたけど、その事件とわたしの転落事故は、完全に別件だと思う。無駄足を踏ませて心苦しいけど、なにも見ていないし、見ていたとしてもわたしは覚えていない。まだ思い出せない。そう告げた。
今でも駅にいたのが、会社に向かうときだったのか、家に帰るときだったのか、そんなことさえ曖昧だった。頭を打ったせいだけではない。もうずっと、わたしの心も身体も、疲弊してぼろぼろだった。
あれだけ寝たのにまだ寝足りないほどで、横になれば間髪を入れずに眠れてしまう。
何度かそうして浅い眠りについたけど、わたしの思惑は、その度に裏切られた。
終始ぼんやりとしていたわたしに、警察人は諦めず、なにか思い出したらなんでもいいから教えてほしいと、名刺だけ残して帰って行った。
入れ替わりでぷりぷりした姉が入って来て、今は休めと脅された。精魂尽き果てた妹を脅すって……。
「いーい? もう寝るのも飽きたっ、ってなるまで、充分すぎるくらい休みなさい。いっそ入院してると思わず、ホテルに泊まってる感覚でいればいいの。ご飯は出るし、まあ、窓からの景色も悪くはないじゃない? それに検査は黙ってても周りが勝手にやってくれるし、カウセリングなんか単なる愚痴聞きだと思えばいいのよ」
それはとても、姉らしいポジティブな考え方だった。病院の食事は味気ないものだと勝手に思っていたけど、量も多くてなかなか美味しい。山のような八宝菜とか、さらにはエビフライが出たときには、あれ? ここファミレスだったっけ? と、本気で思った。
栄養失調ぎみだったから、そういう人用のメニューなんだろうか。栄養満点すぎる食事で、わたしの身体はこうして次第に回復していくんだろう。
そうして彼のことを胸の奥にしまい込んで、なんでもないようにこれから先、生きていくんだろう。
そう達観できるような性格なら、よかったのに……。
今だって、治療も、怪我よりも心療内科の方に重きを置かれている気がする。
だけどなんて話せばいい?
エレンのことは、姉にさえも沈黙を貫いたままだった。
どうすれば忘れられるんだろう。
だってこんなにも、心が忘れたくないと願っているのに……。
「……お姉ちゃん、お店はいいの?」
お義兄さんが彼の実家の近くでパン屋をしていて、姉はそこを手伝っている。わたしが無事と知ってお義兄さんは先に帰ったけど、姉はまだ戻らずこちらに残っていた。
「怪我した妹残して帰れないでしょう。退院したら、一緒に帰るわよ」
「帰るって……」
「うちによ。他にどこがあるの?」
わたしたちに実家はない。もうない。昔住んでいたアパートも、母が亡くなったときに引き払った。わたしの帰る場所は、今住んでいるアパートだけだった。
姉の言っている『うち』とは、姉夫婦の家であり、わたしにとっては、他人の家となんら変わりなかった。
お義兄さんも姉も、迷惑がったりはしないことはわかっている。これはわたしの気持ちの問題だった。姉夫婦の家にお世話になるのは、正直気が重いし、居心地よくいられるとも思えない。
「それにしても、本当に事件に巻き込まれたんじゃないのよね?」
「うん……たぶん」
「たぶんってなによ、たぶんって」
「だって、覚えてないし……」
「その日になにがあったとか、誰と会ったとか、なにを食べたとかも、全然?」
わたしは指に嵌めた指輪をいじりながら、黙ってうなずいた。むしろ帰る途中の事故だったのだと今知ったくらいだ。
「ここだけの話、あの刑事たち、やっぱりまだ夕那のことも、事件性があるって思ってるみたいよ」
「そうなの?」
「お姉ちゃんの勘」
それをどこまで信用すればいいのか……。
「なんか思い出したらちゃんと正直に話すのよ。病院でめったなことはないと思うけど、もうあんな怖い思いさせないで」
ああもう。これはもう一生言われ続けるなと諦めた。
あの日のことを思い出そうとすると、どうしてもエレンのことにばかりに意識がいってしまい、結局まだなにも思い出せずにいる。
もしかすると普段と違ったことがあったかもしれない。せめて足を踏み外したとか、肩をぶつけられてよろめいたとか、そんな些細な記憶が蘇れば、刑事さんたちにわざわざご足労願わなくてもよくなるのに。
姉が帰った病室は一気にがらんとしてしまい、わたしは寝るしかないので枕に頭を沈めた。殺風景な室内をぼんやりと眺めながら考える。
あれを夢ではなく異世界トリップと仮定して、それが起きたのは果たして、階段から落ちて意識を失った後のことだったんだろうか。
そう考えるとしっくりくる。だけどエレンのベッドに寝ていた段階では、わたしの足首は確か、捻挫なんてしていなかった。
「でも、頭は痛かった気もする……」
こめかみあたりに、間違いなくあのときと同じ痛みがあって、だけど不思議なことに、後頭部や側頭部にも、触ると痛みを伴う箇所がある。
これは一体、どういうことだろう?
階段から落ちてまずこめかみあたりを打ち、意識を失ったところであの世界に行った、ということ?
それはなんというか、中途半端……。
こんな頭で考えたところで、答えなんか見つからない。横になっている内に、わたしは何度目かの眠りに落ちた――……。
――ユナ。
夢うつつで、誰かがわたしの名前を囁くのを聞いた。
意識は起きているのに身体がまだ眠っていて、金縛状態でわたしは願う。
これがまた、あの続きならいいのに。
まぶたを開けたら、そこに彼がいればいいのに。
耳に、肌に、心に刻んだ彼の声が、わたしの身体の奥から聞こえてくる。何度も何度も繰り返し、再生すればするほど、悲しいことに、薄れていく。
ごめんね。ありがとう。その最後の言葉は、永遠の別れを思わせるから、ユナ、と名前を呼ぶその声だけを都合よく引き出す。
唇に触れた、あの幸せな時間とともに……。
どれくらいした頃か、はっとして目をさますと、夕焼けで部屋全体が橙に染まっていた。
窓の外を眺めながら、無意識に指で唇をなぞる。そこにほんのりと、感触と余韻が残されているようなぬくもりを感じてそっと苦笑する。
「エレン……」
名前をつぶやくだけで、あたたかくなる。同じくらい、胸が締めつけられる。
嘆息をもらしたとき、ドアがノックされた。
「……はい」
姉はノックなんてしない人だし、ここの看護師さんたちもそう。お義兄さんだろうかと訝りながら身体を起こす。現れたのはまた警察の人だった。
何度来られても思い出せないものは思い出せないのに。
しかしその制服警官は、単に書類の作成のためだけに訪れただけのようで、言われるがままに差し出された紙を黙々と読み、署名し、最後に母印を押した。
ティッシュで親指をぬぐいながら、警官の顔をながめたが、帽子もあるので表情がよくわからない。まだなにか用があるのか、わたしを黙って見下ろしていた。
また頭がずきりとして、手のひらでこめかみを押さえる。
「……大丈夫ですか? なにか、思い出しましたか……?」
「いえ……すみません」
なにか掴めそうで、掴めない。
そのとき姉が無遠慮にずかずか入室してきて、制服警官は、お大事にと残して、入れ違うようにそそくさと退出していった。
まるでここの主人のような態度の姉にため息をついた。いい加減帰ってあげないと、旦那さんが困るだろうに。
姉は興奮した様子でパイプ椅子にかけて言った。
「ねえねえ、聞いて! さっき超絶イケメンがリハビリしてて!」
「へえー」
「でもまだリハビリは早いって看護師さんに怒られながら連行されて行っちゃったから、ちょっとしか見れなかったんだけど、国宝級レベルのイケメンだったわ!」
「ふぅん」
どうでもいい。
「反応薄いなあ、もう! イケメンは目の保養なんだからね。あんたもイケメンを見てたら心も和むし癒されるでしょ? イケメンゴリラでもいいけど」
どうしよう。旦那さんが不憫すぎる。
そしてゴリラでもいいんだ……。
「それにしても、あんたの彼氏はお見舞いに来ないわね……」
「だからね、お姉ちゃん。彼氏なんていないし、不倫なんて、絶対にしてないから」
反論しながら指輪をはめた左手を布団の中へと隠した。
「だったらその指輪、自分で買ったの? まさか中古品? 裏に変な字が書いてあったもんね。海外から流れてきたものとか?」
もうそれでいいや。めんどうになって、否定しなかった。
「夕那にも早くいい人が現れてくれたらいいのに。こう、敵から守ってくれる、屈強な感じの」
敵なんていないし。それに。
「屈強な人は、ちょっと……」
姉はまだゴリラを引きずっているような気がする。
「だったら軟弱な人?」
極端すぎる。
「そういえば、あんたの趣味、よく知らないわ。ぱっとしない地味な人と付き合ってたのは覚えてる」
「……そんなときも、あったね」
姉はわたしの指を一瞥してベッドの柵に肘を置いた。
「どんなタイプが好みなの?」
「どんなって言われても……」
どんなだろう?
わたしはエレンを思い浮かべた。
まず、優しい。ほぼこれ。自分のこと、命でさえ後回しにしてしまうような。
たぶん、強がり。それを外に見せない。悟らせない。大丈夫そうにしていたら、誰も労ってはくれないのに。気づかれずに、あそこにいた。……ひとりで。
だからわたしは、目をそらせなかった。一秒でも目を離してしまえば、はじめからそこにいなかったように消えてしまいそうで。
わたしの方がそうなってしまったけど……。
「ふうん」
「なに?」
「あんたの顔。うきうき恋する乙女じゃなく、なんか老成してるっていうか……おばあちゃんみたい」
さすがにそれはひどい。
でも、そうかと納得いく部分もあって。
うちのおばあちゃんは、戦争で家族を失った。親も兄弟も……恋人も。わたしたちの前では元気で、だけど、本当にごくたまに、ここではないどこか遠くを見つめているときがあった。
おばあちゃん、こんな気持ちだったのかな。
「叶わなかった恋はしつこいから、まあ、覚悟しときなさいね」
この人には敵わないな、と苦笑した。
夜が訪れるたび、月がかかるのを眺めて、死んでしまった人を偲ぶんだろうか、わたしは。これからも、一生。
ああ。頭が痛い。
本当にいろんな意味でだけど、こめかみのたんこぶが、特に。
痛いからこそ、生きているって実感して、またつらい。無限ループ。
さすがにうじうじしすぎだから、彼が草葉の陰から呆れているかもしれない。
奮起して、ベッドから降りた。足をひょこひょこ、窓辺に向かう。この世界でも、月は綺麗。
見とれていると、ふいに、カーテンの向こう側、病室のドアが開いた気配がして息を呑んだ。
もう消灯時間だから見舞客ではないし、看護師さんなら堂々と入ってくる。一気にパニックに陥った。
起きていなければきっと、気づくことはなかった。
まさか、事件の犯人が?
警察がうろついていたから、わたしが目撃者だと誤解して、口封じに来た、とか……?
そんな……なにも見ていないのに。
これは刑事さんたちを恨む。彼らがちょろちょろするから、わたしが目撃者だと誤解された。
声を出さないように口を押さえて、ベッドの下に隠れた。
暗闇で、息を殺してじっと待った。
傷害事件なら、犯人はナイフとかを持っているかもしれない。もし見つかってもみ合いになったら、こちらが圧倒的に不利だ。
いくら探してもこんなところに武器はない。盾になりそうなパイプ椅子くらい。
怖い。殺されるかもしれない。なのに恐怖心の裏に、ひと握りの期待が浮上して、打ち消すように腕を強く抱いた。
エレンとは違う。国のための死と、わたしの無駄死にを一緒にするなんて。だめ。
それにわたしは……まだ死にたくない。
こんなところで。
むざむざと。
殺されてたまるか。
――す、と。カーテンがスライドした。黒いシルエットが侵入してくる。わたしの寝ている、と思っているベッドに、一歩、一歩、確実に近づく。
靴の大きさから、おそらく男。
どうしよう。どうしよう。
誰か気づいて。
ああっ、ナースコール。届かない。
影がベッドの脇に立つ。息をしたくないのに、心臓が早く脈打ち、呼吸が乱れる。
必死にナースコールへ伸ばした指先が、ベッドの底のどこかに触れた。こつん、となにかが落ちる音がした。血の気が引いた。
相手も気づいただろう。足を止めた。
ベッドに寝ていないのは暗くても一目瞭然。相手は、かがみ込むように、膝を曲げた。
ひ、と喉が鳴る。
その瞬間、ふたつの光る目と目が合った。
絶叫した。もし、口を塞がれていなければ。
男がわたしの足首を掴んで、ベッドの下から引きずり出し、口を押さえつける。わたしの叫びはくぐもって男の指の隙間からもれただけ。
床に押さえつけられ、鼻と口に枕を押しつけられた。呼吸が苦しいことよりも、顔の骨が砕けてしまうのではという恐怖に襲われた。
必死に足搔く。せめて、自分を殺めようとする犯人が誰なのか知らなければ、死んでも死に切れない。
いや、こんな時刻に病院内をうろついて咎められないのは、医師か看護師か警備員か、それか、警察官くらいなものだろう。
無我夢中で宙をかくわたしの指が、男の顔を引っかいた。
男が顔を覆ってうめく。その拍子に帽子が落ちた。起きてから何度も目にした、警察官の青い帽子。
「な、んで……」
どうして。
どうしてわたしを狙うの?
物語の犯人のように、土壇場で悠然と答えをくれるはずもない。
ぽろぽろと涙がこぼれて視界がにじむ。
それでも、昼間、ひとりでここへ訪れた警察官の顔だということだけはわかった。
もしかすると、偽物なのかもしれない。警察官のふりをして近づいて来たのかも。わからない。
ここに来てもまだ、わたしの記憶は戻らない。
だけどそれでいい。エレンのことさえ忘れていなければ、それで。
誰にも知られず、わたしは殺されてしまうのだろうか。
枕を押しつけて呼吸を止めさせられて。それで自然死のようになるのだろうか。
来ないで!
声にしようとしたのに、恐怖で凍りついたのどの奥からは、ひゅっというかすかな息がもれただけだった。
床を這って逃げる。でもすぐに壁に突き当たってしまった。
男が迫ってくる。死にたくない。必死に抵抗したが、敵うはずもない。両腕を掴まれて、また床へと押しつけられた。
助けて。
助けて。
助けて……!
「エ……、レンっ……!」
最後の最後に、わたしは彼の名前を呼んでいた。
もう世界のどこにもいない人。
助けに来てくれるはずのない人なのに、わたしが助けてほしいと願ったのは、彼だった。
だからだろうか。
聞こえるはずのない幻聴を聞いたのは。
「ユナッ……!」
どか、と音がして、わたしに覆い被さっていた男が低いうめき声を上げた。誰かが気づいて助けに来てくれた! そう思って喜んだときには、男がその人へと向かって飛びかかっていた。
もみ合うふたり。部屋は電気もつけておらず薄暗いせいで、周りのものにぶつかっては激しい音を立てる。わたしはようやく悲鳴を上げた。その一瞬の隙を突くように、男の頭上へとなにかが振り下ろされた。よく見るとそれは、不思議なことに、松葉杖の形をしていた。
頭を打たれた男は、白眼をむいて、ゆっくりと横に傾いだ。
気を失い、床に伸びた男から、わたしは視線を持ち上げる。
そこにいるのは、病院の患者服を着て、松葉杖を剣のように構えた、男の人のシルエット。
涙がぽとりと落ちて、視界が晴れる。
背の高い、端正な顔立ちをした黒髪の男性が、わたしを見つめていた。
その穏やかな瞳と目が合うと、わたしの胸は打ち震えた。
色が違う。それでも、わたしを見つめるその目は、間違いなくエレンのものだった。
信じきれず、おそるおそる問いかけた。
「エレン……?」
松葉杖を下ろした彼は肩で息をしながら、少しだけ苦笑して言った。
「今の名前は、廉、というんだ」
その声にまた涙が溢れ落ちた。
「レン……?」
彼は苦笑すると、伸びた男を悠々とまたいで、わたしの前へと片膝をついた。伸びて来た手に、今度は怯えることなく自分からすり寄った。エレンとは別の手。だけどどうしようもなく、彼の触れ方。
「死んでしまったのかと思ってた」
「死んだよ」
彼はあっさりとそう言った。
人ごとのように。それでいて、どこか遠い昔を懐かしむように。
びくりとしたわたしの頬を親指で撫でる。涙の跡を消すように。
「どうやら、人は死んだら天国や地獄に行くのではなく、生まれ変わるらしい」
「生まれ変わったの?」
彼は微笑んだ。その顔に安堵したとき、急に、彼がわたしの方へと倒れて来た。
「エレン……? どうしたの?」
のぞいた顔には血の気がなく、彼の体を支えたわたしの手に生暖かいものが触れて、思わず手を引いた。わたしの指がわずかに赤く染まっている。彼の脇腹も、じわじわと。
彼は松葉杖をついていた。薄緑色の患者服も着ていた。病気か、怪我をしていなければ、そんな格好で、こんなところにいるはずかなかった。
「エレン? やだ、エレン! 廉!!」
泣き叫ぶと彼はわたしの腕の中で笑った。
「あのときみたいだ……」
「そんなことはいいから!」
必死に励ましていると、医者と看護婦さんたちが駆けつけてきた。物音や悲鳴を不審に思った隣の病室の人が知らせてくれたらしい。わたしは彼らに泣きながら彼を助けてと懇願した。
わたしはエレンの具合がどの程度悪いものなのか知らなかったから。
「傷口が開いただけですよ」
安心させるようにそう言われてもなお、彼を失うことへの恐怖心は消えなかった。
わたしが詳しい事情を聞けたのは、翌日の昼になってからだった。
あの男……わたしを襲った男は、やはり例の事件の犯人だった。
ただ、わたしが思っていたのと、時系列が異なっていた。
わたしがその現場を見ることは不可能だった。
なぜなら最初に殴られたのが、わたしだったからだ。
まずはじめに、わたしが植え込みの煉瓦でこめかみの辺りを殴りつけられ、意識を失った。そしてその犯人が、今度はわたしを助けようと乱入した事件の被害者を、持っていたナイフで刺した、というのが真相だった。
ナイフで刺された被害者は幸いにもすぐに発見されて、救急車を呼んでもらえたらしい。
自力で目を覚ましたわたしは、殴られる直前の記憶を失ったまま、帰宅しようとしていたにも関わらず会社に行かなければという強迫観念から、ふらふら駅まで戻り、階段で力尽き落ちたらしい。
犯人はわいせつ目的で同じような犯行を繰り返していて、わたしはその何人目かの犠牲者になるところだったと聞かされた。
だけどわたしは一番驚いたのは、その事件の被害者が彼だったということだ。
「どうしてエレン……廉が?」
日当たりのいい個室のベッドで、看護師さんにきつく言いつけられたせいかおとなしく横になった廉は、パイプイスに座るわたしの手を引き寄せ握った。
「信じてもらえないかもしれないけど、生まれたときからぼんやりと、前世の記憶があったんだ」
信じるも信じないもない。異世界トリップがあるのだから、異世界転生もきっとあるはずだ。
わたしは目で先を促す。
「……こうして夕那と同じ国に生まれたのはいいけど、正直、会えるとは思っていなかった。同じ時を生きているかさえ、わからなかったから。できれば、夕那がどこかで幸せに生きていてくれたらと、いつもそう思っていた」
だけど……と、彼は沈んだ声で続けた。
「あの時、自分は死んだ。だったら同じように、夕那も死んでしまったのではないかと、そう思うようになった。致命傷ではないものの、頭部に明らかに暴行を受けた傷があったから」
もしかすると、わたしも死んでいたんだろうか。
彼がいなければ、わたしが刺されて、死ぬはずだった――?
手を握る力が少しだけ強まった。彼を見ると、また優しげに微笑み、思いがけないことを口にした。
「夕那を見つけたのは、一年ほど前のことだった」
「……え?」
知らない。
会っていない。
戸惑った直後に、気がついた。
会っていても、その時点のわたしは、彼を知らない――。
「そう。だから、話しかけたりはしなかった」
「どうしてその時のわたしが、まだ会っていないわたしだって、わかったの?」
廉は握りっぱなしだったわたしの手を持ち上げた。左手。そして、薬指にあった指輪を愛しげに親指でなぞる。
「夕那なら絶対に、大切に持っていてくれると思った」
そう言って、わたしの手を持ち上げると、ちゅ、と、指輪にキスをする。
もうだめだった。彼が怪我人で、しばらく絶対安静なのもわかっていたのに、その胸に飛び込んでしまった。
彼が震える背中を優しく撫でてくれると、涙が決壊した。
彼にとっては過去の話でも、わたしにとってはついこの間の話。こうしてそばにいてくれて嬉しい。同じくらい、悲しい。あのエレンが死んでしまったことが、悲しくて悔しくて、涙が止まらなかった。
「死なないでって、言ったのに……!」
「うん」
「生きていてほしかったのに……!」
「うん」
「……好きだって、愛してるって、言いたかったのに……」
「うん。……うん?」
わたしの背中をなだめていた廉の手が、急に、ぴたりと停止した。
怪訝に思って泣き顔にも構わず、顔を上げた。廉はほんのりと、困ったように目を泳がせる。
「あ」また、そのことを忘れていた。「もしかして……?」
「いない!」
今回も即答だった。しかも食い気味に。
それなのに、どうにも信じられずに、もう一度訊く。
だって今の彼にはなんのしがらみもない。それに相変わらず……かっこいい。
こんな優しくて王子様みたいな人を、誰も放っておくはずがない。
「……本当に?」
わたしに疑われ、彼は焦った様子で言った。
「生まれる前から夕那を想ってきたのに、他の女性に目が行くと? こんなこと、本当に自分の口からは言いたくないけど……夕那を見つけてからずっとそばで見守ってきた。弟にはストーカーだと言われたよ」
廉には弟がいるらしい。口ぶりから、今度こそ、仲良くやれているようで安心した。
「ごめん、夕那」
「なにに対して?」
「肝心な時に……助けられなかった」
なんだ、そんなこと。
後悔をにじませる廉の頭を撫でた。こうして撫でられるのが、好きだったから。
「助けてくれた。昨日も、その前も。わたしがこうして生きているのは、あなたのおかげ」
だけど彼は静かに首を横に振る。
「それだけじゃない。一年前から見てきたと言ったよね? だから、夕那がずっと苦しんでいるのを、知っていた。だけどどう助けていいのか、わからなかった。私は……愚かにも出会う前に会ったことでなにかが変わることを怖れた。見て見ぬふりをしていたんだ。それなのに、夕那に愛してるだなんて言われる資格は」
「相変わらず、くどい」
わたしは後ろ向きな言葉ばかり吐く口を唇で塞いだ。
短いキス。その一秒にも満たない時間が、永遠ほどに幸せだった。
唇を離すと、まだ吐息が触れ合うところで、わたしはひとつだけ、心を鬼にして、許せないと思ったことを口にした。
「もう二度と、誰かのために死のうとしないで」
国のためにも、わたしのためにも。
「今度こそ自由に、そして、幸せになって」
自分のために生きてほしい。今度こそ。
廉の腕がわたしを抱きしめた。
耳元で彼は答えた。
「夕那がそばにいてくれたら、幸せだよ」
だったらそばにいよう。
だけどすぐにそう答えるのは、なんか癪だから。
それにまだ、肝心なことを聞いていない。
「わたしの熱烈な愛の告白への返事は?」
エレンにも、廉にも、はぐらかされている。
無理して体を起こそうとした彼の背中を支えた。押し戻しても従う人じゃない。わたしの言うことを全然聞いてくれない、ひどい人。それでも、わたしの好きな人。
「夕那」
「はい」
「私と結婚してくれますか?」
一足跳びに結婚と言われて驚いているわたしに構わず、彼はいたずらっぽく言った。
「知っていた? この世界では、婚約の証として、左手の薬指に指輪を嵌めるらしい」
わたしは笑った。
だったらわたしたちは、とっくの昔に婚約していたことになる。
前世の彼と、だけど。
「今のあなたは、くれないの?」
「夕那が望むのなら。いくらでも、あげる」
ひとつでいい。
いや、ふたつあってもいいかも。
白銀の指輪にもうひとつ指輪が重なる日は、そう遠くはないかもしれない。
最後まで読んでいただきありがとうございました!
数年前に書きかけで放置してあったものなので、作中の話題が古くてすみません……。
たぶん過去の自分は悲恋が書きたかったんだろうと思います。けど、やっぱりありきたりですが最後はハッピーエンドに。