表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
1/2

前編




「……起きた?」



 誰かのその声で、わたしは、永遠のような深い眠りから目を覚ました。


 だけども、覚醒したとは、言い難い。だるい。身体がだるすぎる。それでも重たいまぶたをどうにか押し上げると、予想に反して光に目がくらむこともなく、それどころか、あたりはずいぶんと薄暗くて、少しだけ不思議に思った。


 今は夜?


 あれ、今って、いつ……?


 ぼんやりと目が捉えたのは、紗の天蓋から透けた窓の向こう側。電気もなく、群雲からちょうど顔をのぞかせる月の、蒼白く頼りないほろほろとした光だけが、唯一の光源。


 夜空にわずかな違和感を抱きつつも、まず、ここはどこなんだろう、そんな疑問を浮かべたわたしは、未だ横たわったままで。


 見かねたように、誰かがまた、そばでささやいた。


「誰に言われてこの部屋に来たのかは知らないけど、じきに朝が来る。起きたのなら、早くお帰り」


 若い男の人の声だった。子供に言い含めるような、優しくて、だけど有無を言わせないそんな響き。今すぐ出ていってほしそうな、切実さもにじんでいた。


 彼の声は、わたしの記憶の中の誰とも重ならない。たぶん、はじめて聞いた人の声。


 それを確かめるために、顔が見たいと思った。なのに、悲しいことに、月明かりだけでは、すぐそばにいるはずのその人の姿でさえ薄闇に溶けておぼろげだった。


 窓とは反対側、ベッドの端に浅く腰かけて、わたしを見下ろしているシルエット。背が高いのか、体格がいいのかさえ、わからない。影はいっそ幽霊めいているのに、不思議と恐怖は感じなかった。それはきっと、最低限、言葉が通じるからだ。


 それに、わけもなく襲って来るような相手だったら、わたしはとっくの昔に永眠していたはずだし。そう考えたところでようやく頭が正常に働き出して、さっき彼の話していた内容に遅まきながら驚き、慌てて身を起こした。


 彼が遠回しに伝えていたのは、見ず知らずの人、つまりわたしが、自分の部屋で我が物顔で眠りこけていた、というようなことだった。どれだけ迷惑をかけたんだろうと思うと頭が痛くなった。


「あまりに昏昏と眠っていたから、死んでいるものかと思っていたけど……平気そうだね」


 ほっとしたようなそのつぶやきに、穴があったら入りたい気持ちになった。呆れてくれた方が、まだ気持ちとして楽だった。


 それにしても、わたしはどうして、人様の部屋のベッドで寝ていたんだろう。思い出そうとすると、途端、こめかみがずきりと痛む。打ちつけたように、ずきずきと。


「もしかして、怪我をしている?」


 わたしの頭に手のひらが触れた。繊細そうな指先で、わたしの髪をどける。患部に添えられた手のひらから体温が直に伝わり、熱があるわけでもないのに、とても熱い。頰までトマトみたいに真っ赤だろう。暗くてよかった。


 やわらかい声に反して、手のひらの大きさや固さが男の人を意識させるもので、急に心もとなくなって、反射的に身じろぎしてしまった。彼がどうというわけではなかった。見えないからこそ、感覚が研ぎ澄まされて、身体が震えただけ。


 だけどそれが、彼を少しだけ傷つけた。すぐに手が引っ込んでいく。それでも相変わらず、語調は穏やか。


「大丈夫そうだけど、早めに医者に診てもらうといい。明日はきっと……みな忙しくなるだろうから。だから早く帰って、もう二度と、ここへ来てはいけないよ」


「ここ……?」


 わたしには彼の言う『ここ』がどこなのか、はっきりとわかっていなかった。それを察したわけではないだろうけど、彼はすぐに答えをくれた。


「そう、ここ。私の部屋。ここ訪れたことはこの先なにがあっても、誰が相手でも、話してはだめだ。絶対に」


 うなずかなければ、許してもらえない気迫だった。わたしが黙って首肯すると、彼はほんのりと微笑んだようだった。


「きみにそれを命じた人間がいるのか、もしくはきみ自身が思い立って来たのか、それは私にはわからない。だけど私は、今この瞬間も、誰かに慰めてもらおうとは思っていない。慰められるいわれもない。……思った通りの結末に、ようやくたどり着いたのだから、これは充分に満足な結果だと言えるだろう?」


 彼がなにについて話しているのかを理解しないまま、適当な意見を言うことはできなかった。だけど、彼はきっと、肯定してほしいのだろう気がした。自分のしたこと、もしくは、していることが、間違っていないのだと。その気持ちだけはなぜか痛いほどに伝わって来た。


 答えに窮しているわたしを、彼は責めたりはせず、むしろ早々に自分から言葉を取り下げた。忘れて、と。


 彼は、だめだな、と、苦く笑う。


「つい、口が滑った。きみが私のことをなにも知らないようだったから。……間違っていたら申し訳ないけれど、きみは貴族の娘ではないだろう。それに娼婦というわけでもなさそうだから、市井の? それとも隣国から拐かされて来たのか……」


 わたしは……。


 そうだ。わたしは貴族の娘でも、もちろん娼婦でもない。違う。わたしはたぶん、この世界の人ではない、と、今気づいた。少なくても、この国の人間ではない。


 だっておかしい。雲が晴れて、まっさらになった夜空を、彩る星々の並びが、知識として知っているものと全然違う。わたしの知っている星座が、ない。……ひとつも。


 濁流のような天の川らしきもの。そこから散りばめられた小さな星の瞬きは、わたしのいつも見ていたさみしい都会の夜空とも、プラネタリウムで見た壮大な星空とも、異なっていた。


 綺麗だ。けれど、怖い。今にも降ってきそうな星が、圧倒的すぎて、驚嘆を超えて、ただ恐怖だった。


「どうしたの?」


「ここは、どこ、ですか……?」


 震えながらも、彼の方が年上かもしれないので、敬語を使った。彼は言う。


「そのあとに続くのは、『わたしは誰?』、かな?」


 彼はおもしろがっている風ではなく、困った様子だった。


「わたし……は、」



 考えろ。わたしは、わたしだ。



 わたしは。



 わたしは……。




「――夕那」




 そうだ。そうだった。わたしの名前は、夕那ゆな


 名前を思い出せたことで、自分という人間の核が定まったおかげか、不安がわずかに薄らいだ。それでもまだ、依然としてわからないことだらけだったけれど。


「ユナ? かわいい響きの名だね。どこから来たの?」


「日本から」


「……そう」


 それは聞いたこともない国の名前だったんだろう。だけど彼は、それを口にしなかった。わたしが無理やり拐かされて、この国へと連れて来られた哀れな娘と思っているらしいから。知らないと言ってしまえば、わたしが故郷へと帰る希望を失うと思って、明言を避けた。


 優しい、けれど、残酷だ。


 遅かれ早かれ、知るというのに。


 わたしはもしかすると、帰れないのかもしれない。これがわたしの見ている夢なんかでなければ。


 彼は唐突に立ち上がった。寝室を出て行き、しばらくして、足音に合わせてじゃらじゃらと金属がぶつかり合うような音を立てながら戻って来た。


 ベッドの上で膝を抱えていたわたしの横に、ずっしりと重量感のある袋が置かれた。触れてみるとそれは麻の袋で、促されて中をのぞくと、硬貨らしき金銭のかたまりが、また、じゃら、と鳴る。


「それだけあれば、数年は宿や食事に困らないと思う。あげる」


 あげるって……。簡単に。


「私にはもう、いらないものだから」


 お金がいらないって、どんな状況なんだろう。そんなこと、考えても無駄だった。


 お金なんて、あるに越したことはない。先が見えない中で、とりあえずお金があれば必要なものを買うことができる。彼が言ったように、住むところや食料、それに、身の安全や、知識だって買える。


 だけど、わたしは、「いただけません」と断り、麻袋から手を離した。


「どうして?」


「もらういわれがないから、です」


 彼はさっき、慰められるいわれはないと言った。それと同じことだ。


 それなのに、本当に、理解できないというような響きでわたしへと尋ねる。目を丸くしているかもしれない。


「代わりになにか代償をもらおうと思っているわけではないよ」


 無償でわたしに施しをしてくれるのだと、彼は言い切った。


「それならなおさら、もらえません」


 お金は大事だ。彼が働いて得たお金は彼のもの。彼がどう使おがそれは彼の勝手ではある。だけどそれをただの同情でもらう勇気はなかった。額が大きすぎる。


 ふと、記憶が断片的によぎる。


 そうだ。わたしは生活のために、働いていた。労働者。だけど、月に百時間近いサービス残業。働いても働いても、給料は毎月同じ額で、驚くほどの薄給。終電を逃して会社に泊まり込むこともざらで、わたしは、なんのために働いて、なんのために生きているのか、わからなくなっていた。代わりなんていくらでもいる。わたしがいなくても、世界は回る……。



 そうして……。



 そうして?




 そうして――どうなったんだろう?




「きみは拐われてきたただの娘だと思ったけど、違ったかな。もしかして人ではない……天使か、それとも、悪魔だった?」


「あなたこそ、誰なんですか?」


 彼こそ、人でない可能性だってまだある。


 彼は少し驚いたのか沈黙を挟み、次いで、おかしそうに笑った。


「?」


「そういえばそうだったな、と思って」


 本来なら自己紹介を真っ先にすべきなのに、わたしは寝起きでぼんやりとしていて、彼は彼で、妙に心ここにあらずの状態だった。見えなくても、彼はずっとあたりに意識を向けていた。たった今ようやく、わたしを真正面から見た気がする。


「エレン」


「エレン?」


 言葉が通じるのに、名前は外国風。よくある異世界トリップものの話のような状況だなと思った。――いや、そうなのかもしれない。まだ夢の可能性も捨ててはいないけど。


 エレンは笑いをおさめると、その穏やかな口調で続けた。


「ここはクローバーフィールド。小さいけれど、ひとつの独立した国だよ。そしてこの寝室は一応……城内にある、私の私室」


 だったらここは、お城?


 お城に部屋があるということは?


「……王子様?」


 返事はない。だけどもそのだんまりは、むしろ雄弁な肯定だった。ますますそれっぽい。異世界っぽい。


 しかしだったらなぜ、彼はこんな真っ暗な部屋にいるんだろう。明かりも灯さずに。


 それに、しきりにわたしをこの場所から遠ざけようとする理由は?


 ひとつ謎が解けることで、わからないことが何倍にもなった気がした。


「電気……明かりは、ないんですか?」


「広義の意味でならある。だけど、この部屋にという意味でなら、ない」


「? ……暗くないんですか?」


「暗いよ。でも見えないこともない。今きみがしているような、不安げな表情は見える」


「わたしは、不安そうな顔ですか?」


「うん。きみには、私の顔が見えない?」


「薄ぼんやりとしか。輪郭くらい」


「そう。よかった」


 なにがいいんだろう。わたしに見られないことが?


「できればきみを外の安全な場所まで連れて行ってあげたいけれど、明日までは、この部屋にいなくてはならないから……ごめんね」


「明日、なにかあるんですか?」


「そう。大人しくこの部屋にいないと、あらぬ誤解をされてしまうかもしれないから」


 というと……。


「アリバイ作り、とか?」


 わたしの単純な発想を、彼は適当に流した。


「まあ、そんなところだ。だからそれまでに、きみはここをうまく抜け出してくれるとありがたいのだけどね……」


 エレンの視線は窓へと向けられてから、現実的でないと首を振るのが見えた。その様子から、この部屋は少なくとも、三階以上にありそうだった。


「明日以降に、外へ連れて行ってもらうわけにはいかないんですか?」


 その質問に、エレンは、無理だろうねと一刀両断する。


「あなたが忙しいのなら、他の人でも……」


「この部屋にいるかぎり、無理だ。私はここから出られないし、そもそも外に信頼できる相手も、いない」


「出られないって……軟禁でもされているんですか?」


 そう、とだけ。短く返ってきた。

 

 王子様なのに軟禁され、まわりには敵しかいない?


「なにか……したんですか……?」


 軟禁されるようなことを。


 訊くなと本能が告げていた。だけど、彼は訊いてほしそうだった。


 おそるおそるうかがうわたしに、彼はなんでもないことのようにさらりと答えた。


「異母弟を、殺そうとした」


 ぽかんとした。内容と一緒に、ひゅっと息を呑んだ。冗談ではないことは、彼の真剣なその声から嫌でも感じ取れた。


「なんで……?」


 まだ会ってたった十数分の人間だったけど、彼が人を殺そうとするような悪い人間にはとても思えなかった。


 彼のなにを知っているのかと訊かれたらなにも答えられないにしても、心に闇を飼っているような気配はまったくしなかった。


 彼から感じるのは凪いだ海のような、悲しいくらいの穏やかさだけ。


 エレンからの返事はない。わたしもなにも言えず、唇をきゅっと結んだ。


 いつしか月が大きく傾いでいた。夜空を眺めながら、それが最善だった、と、彼は消え入りそうなかすかな声でつぶやいた。


 わたしには到底、理解できるものではなかった。


 例えば、殺そうとする行為こそが真の目的だったんじゃないか。


 理由があるんだろう。たとえば、跡目争いで国が二分されてしまうから、わざと手を汚そうとして身を引いた、とか。


 都合のいい、わたしの想像だけど。


 それでも彼は、人を、しかも血の繋がった弟を、殺めずに済んでよかったと安堵しているんじゃないかと思えて仕方なかった。


 でなければ、彼の心は、あまりにも静まりすぎている。


 見ず知らずの他人を気遣えるほどに、落ち着き払っている。


「これから先、ずっとこの部屋に?」


 それは頭がおかしくなりそうな、酷な未来だった。


 しかし彼は黙ったまま首を横に振った。


 それならよかった。安堵しかけたわたしに、彼はなんてことないように告げた。


「おそらく明日、私は処罰を受ける」


「え?」


 処罰……?


 まさか……。


「懲役刑、とか?」


 エレンが淡く笑んだ。だんだん目が慣れてきて、彼の表情の動きを感じられるようになってきた。もっと重い罰を受けると、その微笑が雄弁に語っていた。そうなることを期待しているようでもあった。


 怪しいはずのわたしに、あまりに動じなかった彼。


 普通はまず、警戒する。身を害されるのでは、と。


 なのに彼は、まるで、死期を悟った猫のように、すべてを受け入れて、今にも、闇の中に溶けて消えてしまいそうだった。


 どうしてだろう。そういう人を、知っている気がした。


 だからつい考えなしに、自分の願望だけが、わがままにも口をついて出た。


「いや」


 ベッドについていた彼の手を掴んだ。あたたかい。彼が今、生きている証だ。


「死なないで」


 それがただのわたしの思い違いで、笑い飛ばしてくれるのを待った。待つだけ、無駄だった。やんわりと押し返すように手を離される。


「だから遠慮せずにこれを持って、私のことは忘れてお行き」


 彼にはもう、お金はなんの意味も持たない、ただの重荷なんだろう。


 一緒に行こう。喉まで出かかった言葉は、彼の顔を見て、押し込んだ。この人は、なんて迷いのない、晴れやかな笑顔をするのか。


 彼は、会ったばかりのわたしがなにを言っても、決して折れない。その強い意思を前に、わたしは怯んでしまった。


「それとも最後に、私を慰めてくれる?」


 エレンがいたずらっぽく問いかけ、思わせぶりな指がわたしの髪を、そっと耳へとかける。


 はじめから言っていたその言葉の意味することを今さらながら悟り、顔が紅潮した。恥じらいもあった。けれど、心を占めたのは、小さな怒り。


 そう言えばわたしがおそれをなして出て行くと思ったんだ。子供のように、侮られた。これでもわたし、二十五年も生きているし、働いている。立派に大人なのに。


「それなら、一晩の対価だけ、もらいます」


 気づくとそう口に出していた。


 わたしの提案によほど驚いたのか、彼は不自然に身体をびくりとさせて固まった。


 それとも、わたしでは一晩の相手にはならないと呆れたんだろうか。不安に駆られはじめたころ、彼が戸惑いを隠せず、これまでと打って変わってぎこちなくつぶやく。


「……そ、そんなことを……軽々しく、言うものでは」


「軽々しく訊いてきたのは、そっちです」


 エレンは押し黙った。わたしの勝ちだ。でもこんなの、全然嬉しくない。


「あなたは最後に、善行をして、自分の人生を締めくくる綺麗な結末としてわたしを利用しようとしているんでしょう?」


「それは、違っ」


「違わない。お金だけ突きつけて投げ出すのは、無責任です」


 彼にはなんの責任もない話だが、元来責任感の強い性格だったのか、唇を固く真一文字にして黙り込んでしまった。


 彼の事情をくんだとしても、これは一方的で気持ちのいい話ではなかった。


 だけど一晩を過ごし対価をもらったところで、わたしの足はますますこの場に根をはってしまうだろう。少なくともその程度には、この短時間で、彼に好意を抱いていた。


 彼の決心が鈍り、そこにつけ込めたらいい。ベストはふたりそろって助かることだ。


 もしわたしがこの場に来た理由があるのだとしたら、それが彼を救うためだったらいい。


 それも十分、独善的で、押しつけがましいわたしの考えだけど。


「……わかった」


「え?」


 ……なにが?


 考え事をしていたせいで、前の会話をすっかりと忘れていた。


「きみが思ったよりも強情で、ただでは受け取れないということはわかった」


 ――だから、と。


 あ、と、声を発する間もなく、わたしは押し倒されていた。ベッドが、ぎしりときしむ。わたしの顔の横に手をついたエレンの顔は、今はちょうど真上にある。月光を浴びた髪の色は白金色に見えるけど、太陽の下だとなに色になるんだろう。それは今考えなくてもいいことだということだけは間違いない。


「……え、と。強情はひどいかと」


「では、頑固者。後悔しても知らないよ?」


 ……う。


 でも、


「うん。それだけは、自分の責任だから」


 強がってみたものの、この展開は正直、想像していなかった。冷や汗がじとりと背中を湿らす。


 まさかはじめて会った素性の怪しい女を、仮にも王子様がどうこうするなんて。完全に想定外だった。


 わたしの経験値は同年代の子たちよりも浅くて、耳年増なだけで、本当は男の人に触れられただけで赤くなってしまう。


 薄暗くて本当によかった。せめて震えているのが伝わりませんように。


 ぎゅっと目をつむると、上で、ふ、とエレンが笑う。それから、覆いかぶさっていた気配が消えた。おずおず目を開けると、仰向けになったわたしの隣に、彼が横になっていた。肘をついてこちらを見下ろしてくる彼に、いくつも疑問符を浮かべる。


「……?」


「ユナの好きなように、慰めて?」


「え……と、はい」


 わたしの焦りは丸わかりだったらしい。気遣われた。情けないし、恥ずかしい。


 とりあえず、頭を撫でてみた。さらさらだ。男の人の毛髪とは思えない細くて柔らかな指通り。お風呂かシャワーか、とにかく身体は洗っているあたり、明かりは与えられなくても、そこまで冷遇された環境ではないことに胸を撫で下ろした。


 しかし距離が詰まったことで、彼の顔がさっきよりもよく見えて困る。蒼白い光が白皙の頰を淡く照らす。思った通りに優しげな面差しだった。


 気持ちがいいのか、枕に頭を沈ませて、エレンはまぶたを下ろした。


 せめてこのまま、いっときでいいから、現実を忘れて眠ってしまえればいいのに。夢で見る世界が、彼に優しければなおいい。


「手が止まっているよ」


「あ、はい」


 頭撫で撫でが相当気に入ったのか、催促されてしまった。大人になってから、成長過程でも、頭を撫でられるなんてあまりないことだから、小さな頃を思い出して浸っているのかもしれない。


「……ユナはやっぱり、天使なのかな」


「悪魔かもしれませんよ」


「そうかもしれないね」


 エレンはあっさりと意見を翻した。


 はじめから、天国に行けるとは、思っていないのかもしれない。


「だとするならば、悪魔というものはとても狡猾でしたたかな存在らしい。可憐な容貌と甘い言葉で人を惑わして、堕落へと導く」


 可憐な、だなんて、はじめて言われた。お世辞でも嬉しい。相手がエレンだからかも。


 彼を生かせられるのなら、わたしは悪魔でありたかった。そのせいで国が荒れても、わたしは知らない人たちよりも、目の前のこの人さえ救えればいいのにと、エレンの感情を無視して、非情で傲慢なことを思った。もしかするとわたしの本質は、悪魔寄りなのかもしれない。


「わたしには、エレンの方が天使に見えます」


「それはなぜ?」


「実はここが天国で、あなたは天使か神様で、わたしを現世へと帰そうとしているのかもしれないって」


 さっき、死を考えている彼に重なったのは、他の誰でもない、自分だった。そういう人を知っている気がしたのではなく、あれは鏡に映る自分だったのだ。


 わたしはたぶん、死んだんだ。


 悲しいけど、そう仮定するのが一番しっくりくる。


 ここが地獄ではなく天国だと思ったのは、いくらなんでも閻魔様や鬼たちが、こんなに穏やかな死を待つ人ではないだろうという、単純な理由。


 過労死したのか、事故死か。


 自死ではないと、思いたい……けども。


 まだそうと決まったわけではないから、わたしの心は落ち着きを保つことができている。――それに。ひとりでないことが、わたしを支えてくれている。


 彼はわたしの言葉を真に受けることなく、戯れ話として会話を続けた。


「ここが天国、か。……そうなればいいけれど」


 みんなが幸せに暮らせる国になれば。


 エレンがまた自分の命を軽んじるようなことを想像をして、国にばかり目を向けているから、顔を両手で掴んで、わたしの方へと向けさせた。


「今はわたしだけ見て。他のことは考えないで」


 エレンは目を見はった。


「わたしをここに置いていかないで。あなたがいないのなら、この世界でわたしだけは、幸せにはならない。絶対に。死ぬまで不幸だと言い張る」


 エレンは絶句していた。構わない。はなからわたしが彼の心残りになれるとは思っていない。だけどせめて、喉にささった小骨程度の、煩わしい引っかかりくらいに思ってくれたらいい。


 一瞬目を泳がせたエレンが、たっぷりと胸を鎮める間をとってから、つぶやいた。


「こんな日に、こんな脅しじみた、熱烈な愛の告白されるとは思わなかった」


 脅しと言えば脅しだし、愛の告白と言えば愛の告白でもある。


 嫌いな人にそばにいてほしいとは思わない。好きだからだ。それは、否定しない。


「こんな日だから、です」


 でなければこんな大胆なこと言ったりできない。薄暗いおかげでもある。でなければ悶絶してのたうち回っている。


 エレンの手のひらが、同じようにわたしの頰を包み、ぐっと引き寄せる。顔が近づいて来て、息を詰めた。唇が触れ合う直前、だけど、彼は思い留まる。触れたのは、切なげな吐息だけだった。落胆した。


「わたしじゃ、だめですか」


 好みじゃないのなら、それはもうどうしようもないことだ。


「あ」それとも、ものすごく今さらだけど、「もしかして、奥さんとか、将来を誓った恋人とかが……?」


「いない」


 即答だった。それを聞いて、ほっとした。


 彼のこの性格だから、少しでも巻き込む相手が少ないように生活してきただろう。恋人も作らず、家族も作らず、安心して休める場所を持たず、張り詰めた緊張感の中で、生きてきたんだろう。


 そう考えたら、胸の奥がぎゅっと掴まれたように痛くなった。たまらなくなった。


「前言撤回してもいいですか?」


 エレンは行き場をなくしていた両手をわたしの頰から離して、小さく安堵の息をついた。


「そうした方がきみのためだ。お金のために身を売るなんて、やはり」


「お金はいりません」


 彼がなにかを言う前に、わたしは明朗な声で言い切った。


「あなたを、慰めさせてください」


 今度こそエレンが完全に言葉を失った。瞬きすらしない。なんて無防備なんだろう。わたしは軽く触れるだけのキスをした。してやったり。


「……いや、でしたか?」


 エレンは諦めの色をした長い長い嘆息をもらし、とうとう白旗を揚げた。わたしのおそるおそる尋ねた質問に、首を横に振る。いやではない、と。


「呆れた人だね。本当に意味、わかって言っている?」


「もう。くどい」


 今度は自分から押し倒した。エレンの意外とたくましい胸に手をついて、唇を合わせかけたところで、右手に当たる金属の感触がふと気になって、動きを止めると、怪訝そうだった彼は合点がいったかのように、首から銀の華奢な鎖を手繰り寄せた。


 おあずけを食らって残念そうに見えたのは、わたしの願望だけではないと思う。


 服の下から現れたのはシンプルな指輪で、エレンの髪のような白銀色で、そのつるりと細い曲面にわたしを映していた。


 エレンは鎖から指輪を外して、わたしへと手渡す。内側に、文字が彫られていた。不思議と読める。――愛する息子へ。


「昔、母がくれた。お守りにと」


 声音がほんの少し、やわらかくなる。愛しんでいるようにも、懐かしんでいるようにも聞こえた。


 昔と言うだけあって、今のエレンの指には合わない小さめのサイズ。彼はふとなにか思いついたかのように、おもむろに指輪とわたしの手を取って、指の太さを確かめるように触れてから、そのひとつに指輪を嵌めた。驚くことに、その指に、あつらえたかのように、ぴたりと合った。


 ああ……もう。


 なんで、左手を取ったんだろう……。


 しかも、なんで……、なんで、薬指に……。


 自分の左手薬指に収まったその指輪に、泣きたい気持ちになった。


「失くしたくないから、ユナが持っていて」


 没収されるからなのか、それともどさくさで紛失してしまうことを危惧してか。結局わたしがなにをしても、彼が決めつけた自分の運命を変えられない。悲しい現実を突きつけられただけだった。


 わたしだけ傷ついて、彼は楽になるなんて。なんて、ひどい人なんだろう。


 それでも、なんでわたしは、こんな人のことを、会ったばかりの、黙って死を待つだけの人なんかを、好きになってしまったんだろう。


 涙目で睨んで、噛みつくように口づけた。ただただ想いをぶつけるだけの稚拙なキス。それを彼は、粛々と受け止める。わたしの髪を指に絡める。余裕な態度がまた、わたしを苛立たせた。


「慣れてるんですね」


 かわいくない女だと思いながらも嫌味が飛び出した。


 呆れるか、怒るか、それともただ困ったように微笑むだけか。しかし彼は思ったのとは違う顔をした。


「いや、待って。それは、違う。本当に」


「? なんで焦って……?」


「誤解されたくない。ユナにだけは」


 う、わ……。それは、反則だ。


 そんなことを言われたら、また好きになってしまう。ますます戻れないところに心が引きずられてしまう。


「……ごめん」


 唐突に彼が言う。


「なに、が……」


「泣かせるつもりでは、なかった」


 エレンがわたしの目元から、あふれた滴を指で掬う。彼はわたしよりももっと悲しげに顔を歪めていた。涙でにじんでいたから、本当のところはわからない。でも、そうだったらいい。


 エレンの唇が額に落ちて、目元、頰へと降りてくる。なだめるみたいに最後に唇へと触れて、彼はわたしの髪を撫でて言った。


「やっぱり、天使だったね」


「え?」


 涙がこぼれて、視界は、さっきよりもずいぶんと明るい。はっとして窓へと目を移すと、月と星の輝きごと闇色の夜空をなぎ払うかのように、白い光が世界を包みはじめていた。


 わたしがぐずぐずしている間に、夜が明けたんだ。


「やだ、待って」


 エレンに伸ばした手は、しかし、彼の肩口をすり抜けて、宙をかいた。


「……え?」


 自分の両手のひらを眺める。わたしの手越しに、向こう側が透けて見えていた。


「なに、これ……」


 自分の身体が少しずつ透明になっていく。消えていく。この世界から。


 エレンのそばから。


「やだ、待って! ――エレンッ!!」


「ユナ、大丈夫。きっと元の場所へ戻れる」


 違う! わたしはっ、そんなことを怖がって嘆いているんじゃない!


「お願いだから、死なないで!」


 それだけだった。


 エレンは目を瞬かせる。瞳の色は、明け空色の澄んだブルー。それから笑った。バカみたいに、幸せそうに。


「さようなら。最後に慰めてくれて、ありがとう」


 慰めてない。わたしはまだ、なにもしてない。


 コンコン。ドアをノックする音が響く。もう、時間が来たんだ。


「エレン、わたしは――!」


 最後の言葉を紡ぐ前に、パチン、と、わたしの身体は朝日を浴びて消滅した。



 エレンは最後まで、己の意思を曲げずに貫いた。



 その世界のその後について、わたしが知る機会は、きっともうない。









 一度沈んだ意識が戻ったとき、わたしは元の世界に戻っていた。



 せめて死後、同じ場所に行けるかもという望みも、あっけなく砕かれた。




 わたしは死んでいなかった。



 


評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ