第五話「ご機嫌」
朝の通勤電車の中────
誰もが億劫で気だるい気持ちだろう。だが自宅が非科学的世界となっている雅人にとっては現実世界を取り戻して感じられる唯一の時間帯だ。
毎日、地蔵から逃れるかのように早々とアパートをでるようになり、すっかり会社への遅刻もなくなっていた。
……なんだか、家庭から逃げている旦那のようでもある。ならば、地蔵は嫁か。雅人にとっては洒落にもならない話だ。
(俺の善行とやらは、一体どうなっているんだ? 俺はずっとあいつと一緒なワケ?)
ブツブツと、出社時刻より早く会社へ着きそうだった雅人は自販機で缶コーヒーを買い、駅のパン屋でパンを買って食べていた。
朝はパン派の雅人だが、毎朝団子に変わってしまっている。寝起きに団子は少々きつい。やはり朝はパンとコーヒーだと思いつつ、駅のパン屋って何でか潰れないよなぁ。と、パン屋さんに失礼なことを考えていると、
「ん?」
駅前の花壇に前かがみで座って食べていると、何やら足元に黒い物体を発見した。
よく見ると財布のようだ。間違いなく誰かの落し物だろう。そうだ、自分も落とした財布の届け出を出さなくてはいけない。この財布を落とし主もさぞかし困っていることだろう。
駅なので駅に持って行くか、それとも道路を挟んだ向かいの交番がいいか。どっちでも良いとも思われたが、首を左右にキョロリと迷う。
しかし、ずいぶんとくたびれた男性用の二つ折り財布だ。少しためらいながらそっと札入れを覗くと……五千円札が一枚と千円札が一枚だけ入っていた。大人の財布のようだが、そうだとすればもう少し入っていてもいい気がする。
「……しけてんな」
放っておいてくれ。と本人が目の前にいれば怒っただろう。
カード入れまではさすがに抜き取ってまでは見たりはしなかったが、パッと見て分かるレンタルビデオ屋のカードや、古本屋のカードが入っていた。そして運転免許証らしき物。免許証に電話番号が書かれている訳でもないので、それも見るのはやめた。
お金を拾ったら何割もらえるんだっけなどと小学生のみたいなことをふざけて思いながら、雅人は交番の方へと向かった。
交番へ拾った財布を持って行くと、名前やら住所やらの書類を書かされた雅人。
(意外と面倒だな)
できれば今後は財布の落し物には遭遇したくない。さっさと書いて終わらせようとしていると、落し物の中身を確認していた警官が、ん? と小首を傾げる。
「君、宮地雅人さん?」
「はい。何ですか?」
名前を確認されて、雅人は聞き返す。
「あ、やっぱり! 君、四日前に財布おとしてるよね?」
そう言って警官が奥から取り出してきたのは、間違いなく雅人の財布だ。
誰かが拾って届けてくれていたのだろう。さすが日本だ。こうして手元に無事戻って来るとは。
「でね、驚くことにね、君が今日拾った財布の持ち主と、君の財布を拾って届け出してくれた人とが、一緒なんだよー!」
何やら一人で興奮気味に話す警官と、一人で安堵に浸っている雅人だ。
「その人、誰ですか?」
当たり前だが、拾い主の名前を聞く。
「えーとね、桂野浩さん。そこの近くのスーパーのすぐ隣の会社の……」
「桂野浩?」
ピクリと雅人が反応する。
「うちのハゲ課長!」
思わず雅人が付けたニックネームで言ってしまった。
「えっ、君のハゲ課長なの?」
思わずハゲをつけて言ってしまった。警官はハッとして慌てて口をふさぐ。
何てことだ。このくたびれていて、しけた中身の財布が課長のものなのか。と、雅人は偶然の出来事よりもそっちにショックを受けた。
(意外と苦労してるんだな……)
意外だと思うのは、時々部下と飲みに行くと、気前良く奢ってくれたりするからだ。課長のことを煙たがっている社員も、それを目当てで一緒に飲みに着いて行くという、なんとも悲しい現象が起きていたりもする。
きっと家では奥さんの尻に敷かれ、小さく丸くなり縮こまって部屋の片隅に追いやられているのだろうと勝手に哀れな想像する。いつも飲み会で酔っぱらいながら自分を含め部下たちに長たらしい説教を垂れるのは、課長なりのストレス発散のはけ口の一つだったりしたのかもしれない。
(あれでも、悪いひとじゃあないんだよなぁ……)
拾ってもらった財布にジッと目線を落としながら、感慨深く思う。
「いやぁ、驚いたよぉ。親切な上司と部下なんだねぇ。いいねぇ! 何かお礼にでも奢ってあげなきゃだねって、君もお礼される側じゃーん! アハハッ」
お喋りな警官は、朝から大事件でも一つ解決したかのように、いい気分になっている。「この財布、俺から直接渡しますんで!」
そう言って雅人は課長の財布を奪い取り、くるりと後ろを向いて交番を出て会社へと向かう。
「あ、ちょっと君ぃ!」
背後で警官の止める声が聞こえたが、聞こえないふりをしてそのまま小走りで去った。
交番で時間を食ってしまい、十分遅れで会社に着いた雅人。
それでも、おっ今日も早いな。と同僚から声がかかる。
「あれ? 課長は?」
隣のデスクの新人君に雅人は尋ねる。
いつも校庭の前の鬼教師のように立って目を(ついでに頭も)光らしている課長の姿が見えない。
「デスクにいますよ、ほら」
新人君が課長のデスクを指さす。確かにいた。いつもの光り輝くオーラ(?)がなく、しょんぼりと暗い顔で書類に目を通している。
「今日の課長、なんか朝から元気ないみたいなんスよね。あれですかね? 最近流行りの中高年男性の更年期ってやつ?」
今日も朝から新人君は相変わらず、なにかとんちんかんなことを言っている。中高年男性の更年期に流行りがあるかどうかは定かではない。
周りで他の社員たちも課長を話題に話をしている。
「なんか、娘に言われたらしいぞ。『彼氏の頭がヤバいの、お父さんみたいになったどうしよう』って」
どこから仕入れた情報なのか。嘘か本当か。
「うわっ、それきついな」
と言っているのは、男性陣。
「同情する~」
「でも娘に同感~」
容赦ない意見が、女性陣。
課長の目が光っていないのをいいことに、いつもより自由に仕事に取り掛かっている社員たちだ。
「追い打ちをかけられるかのように財布を落とって話だ」
と、村田が雅人に一言だけ付け加え説明。
「そういや、お前の財布は? 見つかったのか?」
雅人は黙ったまま村田の横を通り抜け、課長のデスクへと向かう。
「課長」
「……何だ、宮地? わざわざと遅刻の報告か?」
課長は覇気のない声で問う。
「これ、課長のですよね?」
雅人はスーツの上着のポケットから、先程拾った財布を取り出して見せる。
「え? これはわしの……お前が拾ってくれたのか?」
驚いた顔で大きく目を見開き、財布と雅人を交互に視線を移す。急に何が起きたのか分からない様子だ。
「そんでもって、こっちの財布は課長が拾ってくれたんですよね? これ、俺のなんですよ」
これまた課長は大きく驚き、今度は見開いたままの目をパチパチと瞬きさせる。
「ありがとうございます」
素直に感謝の言葉を述べて頭を下げる雅人の姿に、課長は大いに戸惑ってしまう。いつもの雅人からは考えられない態度だったからだ。
「い、いや。わしの方こそ……か、かたじけない!」
課長も大慌てで焦りながら雅人に礼を述べる。
「あ、あれだな。今夜飯でも……」
言いかけた課長に手で制止させる。
「いえ、いいです。今回のことはお互いチャラってってことで」
財布の中身は見なかったことにしますんで、無理しないで下さい。と、小声でこそっと雅人は告げると、課長はギクッと顔を強張らせる。
「あ、あれはだなぁ、今月は色々入り用だってだなぁ……」
額の汗をハンカチで拭いながら、言い訳のように説明する課長に、わかってますよ。と雅人は言った。その顔に意地の悪さは一切感じられない。
「宮地、お前……」
課長は参ったように苦笑した。雅人もそれに笑いを返した。
一部始終を目撃した社員たちは、何だかよく分からないが、課長と宮地が和解したぞ! と、面白半分で冗談を飛ばし合う。
雅人はデスクに戻ると、村田に話の続きを戻す。
「課長が拾ってくれた」
「……へぇ」
さほど驚きを見せない顔の村田だ。
「──で、課長は俺のがってワケ」
「なるほど」
今の課長と雅人のやり取りを理解したようで、これには面白いものを見たといった感じで顔を口の端を上げた。
一連の事態を理解しているのかしていないのか、空気が読めないのか読まないのか、新人君が何の気なしにポツリと口にする。
「宮地先パイ、最近ビミョーにやさしくなりましたよね。彼女でもできたんスか?」
──バシッ
たった今、やさしいと言ってくれた新人君の頭を雅人は思いっ切りシバく。
「なんで俺に彼女がいないのが前提なんだよっ!」
「本当だろ」
村田が横から一言。捨て台詞を残すかのように、面倒はご免だとばかりに自分の席へと戻っていった。
「……先パイ、書類がコーヒー浸しッス」
新人君をシバいた勢いで、デスクの上に置いてあったマグカップが倒れ、書類がコーヒ―にびしょ濡れだ。こいつのせいか、自分のせいか。と、シバかれても何のダメージも受けてない新人君を横目に、急いで書類をティッシュなどで拭った。
◇
会社から帰宅した雅人の両手には、珍しく野菜などの調理が必要とされる食材が入った買い物袋が二つ提げられていた。
「地蔵、今日は俺が夕飯作ってやるよ」
聞き間違いなくそう言うと、ネクタイを外して上着をハンガーにかけると、ワイシャツの袖をまくって気合を入れて台所に立った。
「何じゃ、今日はご機嫌のようじゃのぅ」
「そうか? 俺はいつもこうだぞ」
いいや、嘘だろう。いつもとは全然違っている。だが、本人はそれに自覚がない。課長との一件で、雅人は何だか気分が心地よく晴れていた。
普段、ほとんど料理をしない雅人だ。腕を組んで、う~ん。と頭をひねりながら、シンクの上に並べた食材を眺める。
「一体何ができるのかのぅ」と地蔵は言い、楽しみな様子でテレビを見ながら昼間干してあった洗濯物を畳み出す。雅人のパンツなどの下着は、地蔵が毎日洗っている。最初は、やめろ! と嫌がった雅人だが、もう潔く諦めたのだった。
──約二時間が経過。
食卓に並んだ料理は、カレーライスだ。雅人は自信満々でドヤ顔を決めてみせたが、大抵は男性でも簡単に作ることができるだろう。
「これは……肉が入っておるのか?」
「当たり前だろ。肉なしのカレーライスなんてあり得ないだろ」
う~む。と地蔵は考えた。
「わしは精進料理しか食わぬのじゃ」
「今どき、なに古臭いこと言ってんだよ。うちの実家の法事の時、坊さん刺身食ってたぞ」
「……まぁ、近年ではそういった風潮もあるがのぅ」
少し逡巡した後、
「うむ。おぬしがせっかく真心を込めて作ってくれた料理じゃ。このカレーライスになってしもうた牛に感謝の気持ちを込めて有難く頂かねばのぅ」
何だか回りくどい言い訳を言っているように聞こえるが、地蔵は食べることに決心したようだ。こうして地蔵の長きに渡る風習に終止符が打たれた。
「なに、大げさなことを言ってんだよ」
「大袈裟などではない!」
地蔵は力を込めて力説する。
「わしは今からこの牛の『命』を食らうのじゃ。感謝の気持ちを込めることを決して忘れてはならぬ。米や野菜もそうじゃ。草木と同じくどれも『命』が宿っておる。そして何よりも、御百姓の方々が大切に育て上げた大事な食物なのじゃ。家畜を育てる人、食物を育てる人、様々な人たちの力により、わしらは日々、食にありつけているのじゃ。どれもすべてに感謝の気持ちを忘れてはいかぬ。いただきます、と言って食べるのはそういう意味じゃ」
「分かったから冷めないうちに早く食えっ。せっかく作った調理人への気持ちも考えろよな」
地蔵は尤もじゃ。と言って、カレーライスを口に運ぶ。
口をモグモグさせて、固いのぅ。と一言。
「悪いな。安物の外国産のだからな」
喉に詰めたりなんかするなよ、しっかり噛んで食べろよ。と雅人は注意する。
「うむ」
だが、肉にもカレーライスにも気に入った様子だ。ちなみにカレーのルーは、子供からお年寄りまで誰もが食べられる甘口を選んであった。
「今度は、馬刺しを食べてみたいのぅ」
ブハッと雅人は吹き出して、米粒を飛ばす。
「精肉の初心者が何言ってやがるっ。俺でもそんなの一度しか食ったことねぇよ!」
「活きの良い、おぬしのような競走馬だった馬の馬刺しが良い」
「競走馬を食いたいのかよっ。俺みたいなって何だよ、それ。しかも、だった。って過去形かよ。俺は足を折った挙句、馬刺しにされる運命なのか?」
何故か馬扱いをされてしまう事にも、諦めた雅人だ。
「雅人よ、くれぐれも無茶をするでないぞ。本当に足の骨を折ってしまわぬようにのぅ」
「あ? あぁ」
突然、意味がよく分からなかったが、忠告を受け取る。
今日は始終、和やかな雰囲気で食卓を囲んでいた。本来、雅人はのんびりと穏やかな性格である。そんな雅人は、
「んー。免許証も戻って来たことだし、明日どっか行くかなぁ……」
休日の過ごし方について考えてる。
「どこじゃっ? どこへ連れて行ってくれるのじゃっ?」
地蔵の顔がパァと光輝き放った。
「……なんであんたも一緒に行くことになってんだよ」
眉根を寄せて嫌な顔をしてみせるも、連れて行かないと否定はしなかった。
「そうだなぁ……天気が良けりゃ、高速飛ばして県外まで行くかなぁ」
「映画がいい」
「は? なんだ、不服なのかよ? てか、何であんたのリクエストに合わせなきゃいけないんだよ」
「助手席で座っているだけなんぞつまらん。それに、お天道様の下も少々飽きたのじゃ」
「……」
地蔵たる者が何ということを言うのだろうか。こいつは本当に地蔵なのか? 思い出したように疑惑と不審感を抱く。
「じゃ、何が観たいんだよ」
「これじゃ」
まるで用意をしていたかのように、パソコンからプリントアウトした用紙を持ち出してきて雅人に渡す。……この地蔵、パソコンが使えるのか。
「えーと。なになに、『八十八か所うどん遍路の旅』って、なんだこりゃ」
「主人公が四国八十八箇所のお遍路巡りをしながら、うどん屋巡りの旅をする話じゃ」
「その主人公、一体どっちが目的なんだよ?」
雅人は溜息まじりに「わかったよ」と、どうでもいいや。といった感じで承諾した。
地蔵は子供のように喜び、興奮した様子で明日に備えて早々と床に着いた──首元を気にして触り、少し顔をしかめながら。
読んで頂きありがとうございました!
料理、洗濯、パソコンのできる地蔵。