兄さまと私
兄と仲良くなるまでおそらく一週間とかからなかっただろう。
今までの別離をうめるかのように、兄は私のところに訪れるようになった。というか、ずっと私の部屋にいる。
まず、小さなテーブルと椅子、それにソファが持ち込まれ、ベビーベッドしかなかった広いだけの部屋が少しは居心地がよくなった。兄はそこで夏休みの勉強をするようになった。私は大歓迎だった。
兄はうるさいわけでもない。午前中にやってくると、私が寝ていない限り抱っこして床に降ろしてくれる。私が床に降ろされるものだから、床にはじゅうたんが敷かれ掃除も以前より丁寧になった。
そして兄が勉強している間、私は思う存分床の上を転げまわれるようになった。時々はお座りもして休憩だ。そうして兄は勉強に一区切りがつくと、私を膝に乗せぎゅっと抱きしめる。
「リーリア」
「にーに、あーい」
そしてにーにと言われるのをことのほか喜ぶ。そうして兄が小さいころ読んでいた絵本などを持ってきて、二人で並んで床にうつ伏せになって読み聞かせてくれたりする。
お昼ご飯もおやつも一緒だ。もっともまだ私はマーサにお乳ももらっているので、離乳食で形だけお付き合いだ。兄は自分の食事の合間に、スプーンで離乳食を食べさせてくれる。最初はひと匙が多すぎたり、匙を口に突っ込みすぎたりして、
「だーい!」
と私が怒ることもしばしばだったが、最近は上手に食べさせてくれる。ただし、それは昼の間だけだ。兄さまは、朝と晩はお父様と一緒に食事をしているし、昼は王城勤めのお父様も夜は家にいるから、うかつに私の部屋に近づけないのだ。
そんな楽しい日々を過ごしていたある日、私は兄の膝に座って一緒に絵本を見ていた。と、急に兄の体が硬くなった。
「ルーク、そこで何をしている」
この声は半年以上前一度聞いたきり。
「お父様……」
「何をしている」
その人は淡々と問いを繰り返した。
「リーリアに、本を読んでやっていました」
「リーリア?」
お父様だという人は、視線を下げて私のことをやっと見た。きれいな長い金髪を首の後ろで一つにまとめた冷たい目の人。その目は兄さまと同じ淡い紫色。
私を見たお父様も、まったく同じ事を考えたに違いない。
「クレアの……」
そうつぶやくと、いっそう冷たい目で私を見た。しかし、私は目をそらした。言っておくが、負けたのではない。
「だーい」
いつもより低い声が出てしまったのは仕方がないだろう。お父様にとって私はお母様の亡くなる原因を作った問題そのものなのかもしれない。だが実際はそうではない。あえて言うなら、体の丈夫でないお母様と子どもを作ったお父様の責任だ。
私は冷静にそう思う。しかも、親としての責任から逃げて今まで一度も娘を見に来なかったような人だ。私は思っていた。侯爵家というのならお金はあるのだろう。そのお金で身に着けられるものは身に着けて、程よい所で逃げてしまおうと。前世の記憶があって、働くのが苦でなければ生きる道はどこかにあるだろう。ここはそれまで寄生するだけの場所だと思えばいいと。
「だーう、にーに」
もうお父様のことはどうでもいいから、本を読んで? 私は絵本をたしたし叩いて、兄さまを見上げた。
「そうだね、リーリア」
兄さまは頷くと、
「お父様、何か御用でしょうか。そうでなければリーリアに本を読んでやりたいのですが」
と言った。お父様は、私については一言も触れずに、
「勉強が終わったのなら、好きにするがいい」
そう言うと歩き去ってしまった。その時、ハンナという年若いメイドが、
「お嬢さまですのに、なぜ」
とつぶやいた。
この人は兄さまが私の部屋に来るようになってから、私につけられた専属メイドらしい。今まで放置していて今更四六時中人がそばにいるのもどうかとは思うが、兄さまが私に興味を持ったのをこれ幸いと、セバスが急いでつけた。親戚筋からの紹介で新しく採用したメイドだそうだ。だから今までのこの屋敷での私の扱いが今一つわかっていない。
侯爵邸には執事が何人かいるのだが、セバスは使用人の管理を担当しているのだそうで、侯爵が私に興味がないと公言したために、私に使用人をつけられなかったのだそうだ。
「ルーク様のかわいがっている妹ということになれば、公然とつけられますからね」
と、相変わらず赤ちゃんに何を言うんだかという感じである。
今世の父親に興味がないわけではない。しかし生まれたての時に「お前さえ生まれなければ」と言われ半年以上放置されていたのでは、こちらから歩み寄る理由などない。せいぜい働いて私の教育費を稼げばいいのである。
「リーリア、リーリアには私がいるからね」
「あーい、にーに」
兄さまは私を絵本ごとぎゅっと抱きしめた。だから何かが出ちゃうの。助けて、セバス!
兄さまが夏休みの間に、私はつかまり立ちまでクリアした。八か月だとそう早くもないだろう。それに、寝返りだけでなくついにハイハイまでできるようになった。これで私の行動範囲はずいぶん広くなった。
といってもまだ部屋から出してもらったことはない。ハイハイし、つかまり立ちをする私を見て兄さまが喜び、セバスが喜び、マーサがお乳をくれるのが一日二回まで減ってきた頃、兄さまの夏休みは終わり、学院に戻ることになった。
「リーリアはきっと私が学校だってわかっていないよ。明日から急に私が来なくなって、もう大事にされていないと思ったらどうしよう」
兄さまが泣きそうにおろおろしている。私はフッと笑って首を左右に振ってみせた。
「にーに、だーう」
わかってるよ、安心して。そして兄さまの頬をぺちぺちとする。
「リーリア、少しだけ我慢だよ」
うんうん、冬休みまでだよね。そのころには歩いているかなあ。
「週末には戻ってくるからね」
はやっ! 週末か! 私は思わず心で突っ込んだ。私がハンナを見ると、ハンナが説明してくれる。
「一週間は十日で、そのうち二日がお休みですから、えーと、リーリア様が八回ねんねしたら、帰ってくるんですよ」
そうか、一週間は十日なのか。しかし、一生懸命簡単に説明してくれてるけど、赤ちゃんには八日間はわからないよなあ。私はにやりとした。
「あ、リーリア様のその顔」
なにかな?
「時々、大人みたいに笑うんですよね。何もかも知っているみたいな」
お、ハンナ、結構鋭い?
「そんな顔してても、私のリーリアはなんてかわいいんだ」
いつの間にか兄さまが兄バカになっていた。