あきらめないのだ
次に目を覚ました私は、さっそく赤ちゃんのお仕事を開始した。とりあえず泣くことからだ。
「んぎゃ、んぎゃあ、ふぎゃあ」
難しい。ちょっとひ弱な感じだ。もう一度。
「ぎゃ、んぎゃあ、ぎゃあ!」
よし、いい感じに力強い。時計はないが、五分ほど泣いて疲れたので休憩する。それにしても赤ちゃんが泣いてるのに誰も来ないとは本当にどうしようもない家だ。
さあ、次は手足を動かす訓練だ。布団がかかっているが、何とかなるだろう。さ、右手。あれ、左手が動く。さ、左手。あれ、足が二回動いた。そうか、赤ちゃんはまだ思う通りに動けないのだなあ、と思いながら必死に手足を動かしていたら、いつの間にかお布団がはがれ、私は疲れ果てて寝てしまっていた。
手を動かそうとするとなぜか自分にパンチを食らわせたり、手に当たるものはなぜかつかんでしまうので服がぐちゃぐちゃになったりと、赤ちゃんライフはままならないものである。
誰も見ていなくても天井を見て笑ったり、誰も来なくても大声で泣き叫んだり、それでも乳母とお部屋の掃除をする人と、お風呂に入れてくれる人以外は来ないままで、おそらく三か月は過ぎたことだろう。
なぜわかるかって? 首が据わって、まだ寝がえりはうてないけれどだいぶ左右に動けるようになってきたからだ。だんだん思うように手足が動くようになってきたので、敷き布団を蹴ってベッドの上のほうにも移動できるようになった。まあ、元には戻れないので誰かが来るまでそのままという情けないありさまなのだが。
表情を豊かにするために、乳をくれる人にも、お風呂に入れてくれる人にも、何なら掃除をしてシーツを替えてくれる人にも話しかけ、笑いかけている。なんてけなげな赤ちゃん。
乳をくれるマーサとは本当に仲良しになった。
「こんなにほっとかれてるのに、よく笑っておしゃべりして、かわいい子だねえ」
そうして抱っこをしながら部屋を歩き回ってくれるので、たまに窓の外も見えたりする。窓の外はもう緑で、広い芝生に、手入れされた庭園があるようだ。
抱っこしてあやしてくれるマーサは、子どもを何人か育てているせいか、私のたわいのないおしゃべりにもちゃんと答えてくれるいい人なのだ。
もっとも、お風呂に入れてくれる人とは目も合わない。むしろ怒られるほうが多い。
「うるさい子だね。賢いルーク様とは大違いだ」
と言われたこともあって、私には兄がいてルークという名前だということがわかって収穫ではあった。
「あんたのせいでクレア様が亡くなって、ご当主様もルーク様も不憫だよ」
そう言ってごしごしと私をこする。泣いちゃうぞ? 赤ちゃんの肌は傷つきやすいんだからね。
「あんた、やめなよ。傷ついて怒られるのはあたしたちなんだよ」
「だってさ、ご当主様だって、ルーク様だって、見にも来やしないじゃないか」
「ルーク様は学院だろ」
「同じ王都内なんだから帰ろうと思えば帰れるはずさ。クレア様をそれは慕っていたからねえ。きっと見たくもないに違いないのさ」
ふむふむ。お兄様は学校に通っていると。とすると結構年上かなあ。私は湯につかりながら思い切り体を動かして、水を跳ね上げた。
「まったく、びしょぬれだよ! この悪ガキが!」
三か月の赤ちゃんに悪ガキも何もないのである。悪意は大人にこそある。
なんて、ほんとはわざとびしょぬれにしてやったのだ。ざまあみろ。この赤ちゃんには、悪意もちょっとばかりある。にやりと笑った私に、
「気味の悪い子だよ!」
と言い放ち、しかし世話をしないわけにもいかないのでしっかり服を着せて使用人は帰っていった。はあ、疲れた。
よい子は夜は寝るものだが、赤ちゃんの間はそうそう長く寝てはいられない。とはいっても、割と早い時期からマーサは夜は来なくなってしまった。仕方ない、マーサにも自分の生活があるのだから。
そういうわけで、夜お腹がすいたり、おむつが気持ち悪くて目が覚めてしまうこともよくある。そんなに規則正しく赤ちゃんは生きられるものではないのだ。しかし、夜にまで泣いて騒ぐようなことはしない。元は大人だからね。夜に迷惑をかけたりしないのだ。
そうして静かに起きている夜に、気が付いた。誰かがドアを開けて部屋に入ってきている。
部屋には窓の外から入るかすかな明かりしかない。当主は「生かせ」と言ったはず。まさか私に何かする人なんて、いるはずないのだけれど。それでも緊張で固くなっている私のそばにその人影は近づくと、私をそっと抱き上げ、
「リーリア様」
と言った。リーリア。それが私の名前。マーサですら呼ばなかった私の名前。
「あう」
思わず声を出すと、
「リーリア様、起きていらしたのですね。ではその美しいお目をセバスに見せてくださいませ」
そう言って窓のそばまで私を連れて行った。
「おお、確かに侯爵家の淡紫」
そう言って切なそうに微笑むのは、夜中だろうにきちんとお仕着せを着て、灰色の髪を後ろになでつけた初老の男性だった。私は、
「えーう」
と話しかけた。
「リーリア様、リーリア様」
その人は私を優しく揺らすと、歌うように私の名前を呼んだ。リーリア。名前を呼ばれるのはよいものだ。
「奥様が、クレア様が、生まれた子が女の子ならリーリアと、男の子ならリルムがいいわと、そうおっしゃっていたのですよ。だからあなたはリーリアです」
そうしてゆっくりと部屋を歩き回った。
「この少し下がった眉毛も、美しい目の形も、ちょんと小さい鼻も、髪と目の色さえ茶色ならクレア様そのままなのに、なぜ皆それに気づかないのか」
そう独り言を言い、私の背中をとんとん叩く。そうか、お母様は茶色の瞳だったんだなあと、そう思いながらも気持ちよく寝てしまった。だから、
「悲しみに沈んで何より大切な宝をなくそうとしていることに、早く気付いてくださるとよいのだが」
そうセバスが言ったような気がするが定かではない。
いつも夜に起きていられるわけではないが、たまに起きていると必ずセバスがやってくる。いつの間にか布団がちゃんとかかっているのも、セバスが来ていてくれるからだとわかった。
セバスは問わず語りにお父様やお兄様のこと、お母様がどんな人だったか語ってくれる。お母様は後妻で、最初の妻はお兄様を産んでから三年で夫婦仲が悪く離婚してしまったこと。それを聞いて私は、あのお父様なら性格が悪いから離婚されても仕方ないと思ってしまった。
それからお母様と恋愛結婚したこと。お母様は優しいお茶目な人で、いつもお父様をからかっていたこと。お兄様もかわいがったのでとても懐いていたこと。
お母様のいない屋敷には、お兄様は帰りたがらない、週末も学院の寮で過ごしていること。
お二人があまり嘆くので、屋敷の者は私にはなるべく触れないようにしていることなど。
言ってみればネグレクトに近い話で、それを当の赤ちゃんに話しても仕方がないと思うのだが、それでセバスの心が安らぐのならそれでもいい。お母様への優しい思いと、私のことを愛しいと思ってくれる気持ちが伝わってくるから、好きなだけそうして話してくれるといいと思った。
それに。今世では一度も会えなかったお母様の話を聞くのはうれしかった。
「あーい」
「えーう」
「だーう」
そう律義に相槌を打つ私に、セバスは優しい顔で微笑むのだった。
マーサとセバスがいなかったら、普通の赤ちゃんなら愛情不足で笑わない赤ちゃんになっていたかもしれない。しかし私は十分愛されて死んだし、今だって少ない愛情を自分自身の愛で補って、元気に暮らしている。せっかく生まれ変わったのだから、生きるのをあきらめたりはしないのだ。