人生ハードモード
温かくて優しい場所でゆったりとたゆたっていたように思う。しかし、突然、暗くて狭く、苦しい所から急に明るいところに出たかと思うと、自分の喉から信じられない声が出た。
「おぎゃあおぎゃあ」
「おめでとうございます。女の子ですよ!」
なんだこれは。驚きながらも状況を把握しようとする私の目はよく見えず、手足も重く、ただ明るい空間を人影らしきものが行き来する。
やがて何かで顔をぬぐわれ、体をこすられ、布のようなもので覆われている間、周りはバタバタとし、やがて静かになり、誰かのすすり泣く声が聞こえた。
「ご当主様になんと……」
「ありのままに言うしか……」
その時、
「待ってください!産室に入られては、クレア様が!」
「うるさい! 私に指図する気か!」
その怒鳴り声と共にドアがバン、と開いた音がし、誰かが部屋に入ってきたようだ。
「クレアは!」
「それが……お子を産み落としてすぐに……」
「なんということだ……クレア……」
その誰かが、崩れ落ちるような音がした。
「ご当主様、クレア様が命を懸けて産み落とされたお子でございます。かわいらしいお嬢様ですよ」
そう言うと誰かが私を持ち上げた。
「娘……クレアの……」
そう言った男が近づいてくる気配がした。私は周りを見るためになんとか目を開けようとした。しかしさっきから眠くてたまらない。それでも必死に開けた目に人影がうつった。
「おお、金の髪だけでなく、瞳も侯爵家の紫……」
そんな驚きの声が上がる中、私をのぞきこんだ男はこう言った。
「せめて色だけでもクレアに似てくれればよかったものを」
「ご当主! 一世代に二人も淡紫が出るのは貴重なこと! そのようなことはおっしゃるものではありません」
「もうよい! クレアの娘だ。乳母を探して死なせぬように育てるがよい」
男は他人事のようにそう宣言した。
どうやら私は赤ちゃんとして生まれたようだ。眠ってしまいそうになりながらそう考えた。
「お前さえ生まれなかったら、クレアは死なずにすんだのに」
そのまま眠りに落ちた私に、男のつぶやきだけが記憶に残った。
それから目を覚ました私の感じたものは、激しい空腹だった。訳も分からず本能のままに泣きわめくと、誰かがやってきて温かい乳房を含ませてくれた。そしておむつを替える。日のあるうちに湯を使わせる。二度目からはお腹がすいてもすかなくても、だいたい決まった時間に乳を飲ませ、おむつを替える人が来るようになった。
そのリズムが固まる頃になると、私も赤ちゃんの体に慣れていろいろ考えられるようになっていた。
これはあれだ、いわゆる赤ちゃん転生というやつだ。本好きの私は、そんな夢のある本もよく読んだものだ。
自分の記憶をたどってみると、定かではないが病院のベッドで死んだ気がする。さらにたどってみると、温かい気持ちが沸き上がる。優しい旦那様とかわいい子どもたち。ベッドで泣きそうになっていた子どもはもう孫もいる年で。そうだ、きっと少し早めではあったけれど、幸せに過ごして死んだに違いない。
それでどうして赤ちゃんになっているのか、しかも記憶を持ったまま大人のように物事を考えられ、言葉もわかる状態で。
乳を飲まされ、おむつをまた替えられる。その人はいつも、私を少しの間抱っこして揺らしながら、だんだんはっきり見えてきた私の目をのぞきこんで話しかけていく。
「かわいそうにねえ、お母さんが亡くなっただけでなく、お父さんからも疎まれて。本来なら乳母だっていいとこの人をつけるのにさ、ろくに探しもせずにさ。あたしのような平民をあてがわれて、貴族は本当に訳がわからないよ」
しかし、そうしてあやしてくれるのも長い間ではない。
「マーサ、乳をあげるのにいつまでかかってるの。人手はいつも足りないんだからね!」
そう言って同僚らしき人がすぐに呼びに来るからだ。
「ほんとはもっと抱っこして話しかけてあげなきゃいけないんだけど、このお屋敷の人は何を考えてるんだろ」
それでもそう言って、できるだけ長い間一緒にいてくれようとするマーサは本当によい人だ。
私は有り余る時間の中で今までのことを思い出し、よく考えてみる。
生まれた時の騒ぎからわかったのは、今世の母は、私が生まれたと同時に亡くなったこと。そのせいでお父様に疎まれていること。生まれた家はどうやら侯爵家らしい。確かに見えるようになってから見た部屋は殺風景だけれども広いことは広かった。もっとも侯爵というのがこの世界でどのようなものかはよくわからないけれども。
金の髪に紫の瞳。淡紫が二人、と言っていたから、兄か姉がいるのだろう。それも一度も会ったことはないが。私は赤ちゃんらしく思う通りに動かない顔で、それでも皮肉気に笑った。誰かが見ていたらさぞかし不気味だったに違いない。
会ったことがあるのはお乳をくれる人とお風呂に入れてくれる人だけど、父親ですら一度も来たことがないのだから。
あ、もう一人いる。それはまた後で考えるとして。
乳を与えて清潔にしておけばいいと思っているみたいだけど、そんなんじゃ赤ちゃんは育たないのだ。たくさん抱っこして、たくさん話しかけて、窓からの薄暗い光だけではなく、時々はお日様にも当てて。
泣いたらあやして、笑ったら喜んで。そうして人として育ってゆくのに。
貴族だからとて、子どもを放置しているこの状況が普通であるわけがない。おそらく父親が子どもを疎んでいるから、手をかけて何かとがめられるのが怖くて、誰も手を出そうとしないのだろう。
しかし生まれ直したからには、不幸に生きるつもりはない。誰も育ててくれないなら、自分で育つしかない。とりあえず、思うようにならない体をたくさん動かして、たくさん泣こう。
それが赤ちゃんのお仕事なんだから。そう決意した私だが眠気に負けて、何もせずに寝てしまった。不覚。