ep.02 其の女、可燃物
「そうね……。例えば染色体XYである貴方が性的衝動、いわゆるリビドーに突き動かされるのはどのようなシチュエーションなのかしら」
放課後の文化棟の一室、姿も知らぬ偉大なる先輩方が守ってきたこの歴史ある尊き学び舎たる部室で彼女はそんなことを唐突に言い始めた。
「今僕は盛大なセクハラを受けていると取ってもいいんですかね」
「いいえ、むしろその解釈こそが私に対する盛大なセクハラだと受け取るわ」
何だこの女は。頭狂ってるんじゃないのか
「どういうことですか。今の議題と文学にどのような因果関係があるんですか?」
「もちろんあるわ」
そんな因果関係を自信満々に言わないでほしい。僕の方が赤面してしまいそうだ。
「例えば島崎藤村は姪を妊娠させているし、あまつさえ【新生】でその経緯を綴っているでしょう。森鴎外は国費でドイツ留学していたのに踊り子を妊娠して逃げ帰っているわけで。川上宗薫なんて【失神】という概念すら作ってしまったのだから」
「まぁ文豪にエキセントリックな人物が多いのは認めますけど、だからと言ってエキセントリックであることが必要条件な訳ではないですよ」
「つまり部分集合ではあるけれど全体集合ではない、そう言いたい訳ね」
「そういうことです」
なんて頭を使った頭の悪い会話なのだろうか。
実に頭が痛い。
虹彩奪目で絶世独立だと騙されて数奇さと奇人っぷりを知らないクラスメイトに会話を聞かれでもすれば、磔にされて廊下に晒されるに違いない。
こんな会話はさっさと切り上げて読書に耽るか、家に帰って呆けたほうが有意義だ。
「けれど進藤君、少なくとも文豪の多くが性に対して奔放なのだから、より深く文学を理解しようとするなら一考の余地があると思うの」
「先程分かりましたって言いましたよね。だから今こんな話題について仕方なく議論しているんじゃないですか」
「さっきも言ったけれど立体的エロスに聞いているのよ。幾千幾万の有象無象が撫でた話に興味はないわ」
「意味が全くわかりません。というかわかりたくもありません」
「つまりね、いわゆる性欲の琴線というものはカテゴライズされている部分と個々人の持ち合わせているシチュエーションからなっていると思うの」
「はぁ……」
「ふぅ……もっと分かりやすくしましょう」
なぜ今僕は馬鹿にされたのだろうか。
まるで出来の悪い生徒を教える教師のような態度をするのだ。
どちらかと言えば阿呆な生徒の空論を聞かされているのは僕のはずだ。
「多数性・少数性をX軸、抽象性・具体性をY軸に置き換えましょう」
言いたいことは分かる、いやわかりたくはないのだが。
「いわゆる成年誌、噛み砕いて言うならエロ本ね。これは……」
「ちょっと待ってくださいっ。相原先輩、ここは神聖なる学び舎ですよ?」
その無駄に形のいい口を閉じろ。
「知っているわ。何を当たり前のことを言っているのかしら」
そうここは教師も巡回する教室であり、今は完全下校時間にもなっていないのだ。
それにもかかわらずこの女は男子高校生ですら帳が落ちてからするような話をなぜ今、僕相手にしているのだ。
「こんな碌でもない話を教師や他の生徒に聞かれでもしたらどうするんですか」
「そんなことなら心配には及ばないわ」
「は?」
「なぜなら今日新藤君と話をするために来ないで、と伝えているもの」
「What the Fuck!なんて女だ!」
「新藤君……流石に神聖な学び舎でそんなスラングを垂れ流すのは品性を疑われるわよ?」
「それを言うなら先輩ですよ!猥談が目的で部活に来るな、なんて何を考えているんですか!」
「別に猥談が目的ではないのよね、心外だわ」
「いや、仮に猥談がしたいというのは先輩の自由です。けどそう言うのは同性の江川先輩たちとしてくださいよ!」
「あら、いやよ。加奈子たちとは語り尽くしたもの」
「嘘だ!」
あの庇護欲の塊と言っても過言ではない江川先輩が喜々として猥談をするなんて信じられない!いや信じたくもない!
無邪気にお菓子を頬張る江川先輩を思い浮かべて思考を浄化しているとこの女は口角を歪め、それはそれは楽しそうに口を開く。
「あの子、結構イケる口よ?」
絶対に嘘だ!うそだああああああああああああああああああああああああああああ!