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7 どうでもいいです

「ほんとっ、お前って常識ねーのな。やっぱあれだな、カエルの子はカエルっつーか。カーチャンに似てんだろうな、お前って」

 うん。どう考えても俺が悪い。

 出先で重要書類を間違ってケンタのゴミ箱に突っ込んできたなんて、いまどき小学生でも吐かないよ、そんな言い訳。

 でも一応探したんだよ、書類。相手先から受け取った設計図書だとか契約書だとか。俺もそれの重要性は分かってるつもりだったんだけど、なにしろ昨日は残業で朝方まで起きっぱなしだったし、そんな身体でケンタの油っこいチキンをもしゃもしゃやってたら気分が悪くなったのだ。思考も正常さを失ってた。それで、トレーのクリスマス広告と一緒にポイ。帰社するため、吐き気を押さえながらプラプラ歩いて四十分、ようやく気づいた。

 あれ、俺、あんとき捨てちまったかもしんねぇ。

 急いで戻ったときにはもう遅い。店員が、ゴミならもう回収しましたよ、って言う。もちろん俺は、じゃあそのゴミ袋の中身改めさせてくれって詰め寄った。そしたら店員は申し訳なさそうに外に向かって人差し指を突き立てたのだ。店員の指し示す方を見て、俺はびっくりし過ぎて胃の中のチキンを噴射してしまうところだった。

 ゴミ収集車がのろのろとケンタの前を発車しているところだったのだ。ちょ、ちょ、ちょ、と俺の舌は回りきらなくて、それでも足はつんのめりながらも前へ出た。

「まぁてぃ!」

 時代劇の主役さながらの台詞を発する。そこでゴミ収集車が止まってくれればいいんだけど、俺の声が届くわけもなく、仕方なく全身に脂汗を垂らしながらもそれを追った。

 そして、俺はしょんぼりしながら会社に戻ることになる。満面の笑みで迎える次長に事の成り行きを説明すると、一変、彼はさっと表情を無くしてこう言ったのだ。

「お前、ちょっと来い」

 やべぇ、ボコボコにされる。

 てめぇ無くしたんなら正直に言えワケわかんねぇ嘘吐きやがってお前の顔面をお月さまにしてやろうか、って。顔面をクレーターだらけにされると思ったんだ。

 でも、現実は甘くはなかった。現実は思ったより手痛い傷を与えてくれる。

 次長は俺を無人の会議室に連れ込み、パイプ椅子にどっしりと腕組みして座り込んで、そして俺の人間性やその他欠点をチクチクと攻撃してきた。

 これならば、殴られたり踏みつけられたりした方がマシと言うものだった。

 まぁしかし、それだけならぎりぎりで耐えられようと言うも。俺の母親をネタにされるまでは。

「そもそもお前よくこの会社に入れたな。結構良い大学の出なんだっけ? お前のカーチャン、相当身体汚したんだろうな。ナハハ、お疲れさま」

 ナハハ、と笑いつつも、次長は蔑んだような目色で俺を攻撃した。

 俺も正直、母のことは尊敬していない。ていうか嫌いだ。

 若い頃は「風俗って、チョー稼げるじゃん」と言って家族を傷つけるし、父には離婚を言い渡されるし、離婚しようというときに息子である俺の親権を訴え、そして言いくるめ、俺はあえなく母に連行されるように家を去った。そんで、今でも奴は懲りずにキャバクラで働いている。いい年して化粧はケバケバだ。

 そんな母とは百八十度違う人生を送りたかったから、俺は必死に勉強して大学へ行った節がある。母に似て頭の悪い俺だったが、それはもう死にもの狂いで勉強した。

「勉強なんて社会で生きていく上ではなんの役にも立たないのよ」

 という母のお前が言うな的な教育理論をシカトして。

 大学に合格したとき、俺は勝った、と確信した。何と戦っているのか分からんが、それでもあの瞬間、勝利を味わったんだ。そして俺はこの大手の企業に就職した。まさに母とは違うエリートコース。まさに、ざまぁみろ、という感じだったのだが。

 この前母が、「あんたの上司、うちの店に連れてきなよ。最近指名がとれなくてさぁ」と臆面もなく言った。生活費に関わる問題なので、仕方なく次長ら一行をドラクエの仲間のように背後に携え、母の勤めるキャバクラへ案内した。

 母は、次長らに俺の幼少時代の恥部を語った。俺は赤面して縮こまりながら、皺を隠しきれていない母の頬を流し見た。俺なんか若気の至り話より、むしろ、母の存在の方が恥ずかしかった。

「ほんと恥ずかしい息子ですけど、これからもよろしくお願いしますね」

 あんたのが恥ずかしいよ、クソババア。

 そう。俺は見下していたはずなんだ、母という人間を。

 そして今、次長は嘲笑を交えながら、俺の母親のことを小馬鹿にしている。次長の突っ込みがあまりに的を射ているもので、俺は共感しつつ「ごもっとも、ごもっともでございます」と申し訳なさそうに頷いた。共感してやると次長はだんだんと調子づいてくる。毒舌ぶりにも脂が乗ってきた。

 俺はへらつきながら身を屈め、革靴を片方脱いだ。

「本質的にはクズなんだよ。お前ら母子は」

「えへへ、えへへ」

 そんで、革靴の裏を思い切り、次長の幸薄い頭上に振り降ろしてやった。パッカーンって、間抜けな音がした。何が起こったか分からんという様子の次長はひたすら目を白黒させる。

「俺の母ちゃんが何だって!? もういっぺん言ってみろ、殺すぞこらぁ!」

 次長の胸ぐらを掴んで頭をパコパコしばくと、彼は口をあんぐり開けたまま「え、あ」と呻いていた。その顔がカエルみたいで妙に笑えて、次第に俺はパコパコしながら高笑いをしていた。そのうち同僚や先輩が入ってきたので俺はパコパコを止め、それでも笑いが止まらなくて、彼らを振り払いながら会社を飛び出していた。

 ゲラゲラ笑いながら全速力で駆けていくリーマンを見て、通行人はどう思っただろう。きっと頭のハジけた奴だと思ったに違いない。



 気づくと、俺は見知らぬ駅に座り込んで旅行のパンフレットを眺めていた。駅構内の旅行代理店の店頭パンフ。開いていたのは世界一周旅行と銘打たれた一ページ。アラブだった。俺はひそかに石油王にでも憧れていたのだろうか。

 旅行代理店のガラスには自分の顔が映っていて、ぞっとするほどの能面をしていた。完全に素面である。

 立ち上がり、周りを見渡す。やはり俺の知らない駅だ。ただ人通りは多く、少なくとも辺境じみた駅に来たわけではないと知る。駅は高架橋によってデパートなどと地続きになっており、橋の上では路上演奏やダンスパフォーマンス、ティッシュ配りや売り込みなどが盛んに行われていた。

 秋にも関わらず人の熱気でむせ返るようだったので、俺は背広を脱いで手に持った。

 携帯を見ると、会社や同僚らからの着信が十数件ほど入っていた。嫌気がさす。現代の日本人は携帯電話に支配されている気がする。会社の上司が休日出勤を命じると決めれば、たとえホテルで女といちゃついてたって呼び出せる。たとえば恋人なんて作ってしまえば携帯によって二十四時間彼女に監視されてしまうという条件付き。そんな役目まで負わされる携帯電話は可哀想だ。

 だから、今日だけはおやすみ。電源を切り、ポケットに仕舞いこんだ。ついでに全身のポケットというポケットを探って持ち物を確認してみる。

 持っていたのは財布と携帯ぐらいだった。バッグは会社に置いてきてしまったらしい。

 さて、これからどうしようかしら。

 まずはカラオケに入ってストレスを発散しようと思った。六時間ヒトカラしてくたくたになってやることにした。けれど俺はあまり歌を知らず、五十分で曲が尽きてしまった。そのあと、一人ボウリング、一人ネットカフェ、一人焼肉としゃれ込んでみたけれど、どれも楽しくなかった。コンビニでジャンプを立ち読みしたが先週号を読んでいなかったことに気づき、あまりのつまらなさにその場で地団太を踏む。ちら見してくる周りの客を睨み回しながら、俺は駅の高架橋へと戻った。

 ホームレスが一人、新聞紙に丸まって眠っていた。

 彼の前には週間雑誌や漫画雑誌が並べられており、空の缶詰が二、三個置かれていた。これで路上販売をやっているつもりなのだろうか。

 はたと俺は目を見張る。先週号のジャンプだ。手にとって見ると、やはり間違い。慌ててホームレスのおっさんを叩き起こす。

「あぁんだ?」

「これ売ってくれ」

「あ? あぁ」

 ホームレスのおっさんは大儀そうに上半身を起こし、胡座をかいて首のあたりをボリボリさする。それから無言で指を三本立てた。

「三百円か?」

「ばーろー。三十万だ」

 フリーザが自らの戦闘力を明かしたときのような衝撃が走った。けれどおっさんはフリーザではないので、このまま蹴りを入れてジャンプを奪い去ろうかと画策する。

 するとおっさんは顔面土砂崩れのように破顔して笑い、どんと俺の肩を押した。

「うそうそ。三千円で売ってやるよ」

 ほっと胸を撫でおろした。何だか騙されてる気がしないでもないけど。でも俺にとって読み逃したジャンプは充分、三千円の価値がある。おっさんにお礼を言い、財布を取り出した。

 財布の中身を見て愕然とした。千円と少ししかない。キャッシュカードも、会社のデスクのカードケースに入れたままだ。

 おっさんにそれを告げると、おっさんは激怒して俺の胸ぐらを掴んだ。

「冷やかしか、てめぇ」

「すんません。もう買うのやめます」

「駄目だ、さっきてめぇは買うと言った」

「でも、金ないっす」

 おっさんは黒くすすけた顔で俺を睨み据えた。所々抜けた歯並びを剥き出しにさせる。野獣のような臭い鼻孔をつく。

「とりあえず千円よこせ」

「は、はい」

 おっさんは俺から千円をふんだくり、日の光に透かして野口の絵柄を眺める。それからじろりとこちらを見た。

「残りはバイトで補ってもらう」

「バイトすか」

 おっさんはそう言うと、風呂敷に雑誌類を並べて包み、腰を上げた。

「来い、もっと人の多いところに行く」

 すたすたと軽い足取りで歩いていくので、俺は慌ててジャンプを脇に挟み、おっさんを追いかけた。

 おっさんは先程の千円札を券売機に入れ、切符を買ってさっさと改札口を抜けていった。俺もなけなしの小銭をはたいて切符を購入する。

 おっさんは電車の座席に腰掛けると、「渋谷に着いたら起こせ」とだけ言ってうたた寝を始めた。電車のドア上部に貼られた路線図を見ると、このまま乗れば渋谷に着くらしいことは分かった。そのまま逃げることも出来たが、今度おっさんに街で出くわしたらぶん殴られる気がしたので、大人しくおっさんと対面する座席に座って渋谷に着くのを待った。

 渋谷の一駅前で起こそうと近寄ると、おっさんは俺の近寄る気配だけで跳ね起きた。野生動物並の反応レベルだ。

 おっさんは渋谷の駅前で風呂敷を広げ、さっきみたいに古雑誌露店を開く。俺が手ぶらで突っ立っていると、おっさんは一言、集客しろ、と命じてきた。戸惑い、まごついていると、おっさんが俺のケツに蹴りを入れてくる。

「早くしやがれ!」

 そこらのチンピラよりも凄みのある形相だった。俺は仕方なく、イベント会場のスタッフばりに声を出した。

 読み逃した雑誌はございませんか。

 先週号、先々週号のジャンプやマガジンを取りそろえてございます。一部三千円とお買い得ですよ。

 しばらく続けたが、来るのは余所余所しさを含んだ視線ばかりだった。人は異質を本能的に避ける生き物である。そして俺たちは今、完全に異質だった。

 何やってんだろ、俺。

 やがて後ろから苛立ったような舌打ちが聞こえた。

「おい、三千円は高すぎる。三百円に下げよう」

「え、でも俺は三千円で売らされましたよ」

「ヘリクツ言うんじゃねえ。さっさとしろ」

 それから二時間ほど続けたが、結局一冊も売れなかった。おっさんはまた雑誌を風呂敷に包み、次の場所へ向かうべく立ち上がった。

 バイトはまだまだ続くようだった。その後俺は露店に出すための雑誌をコンビニのゴミ捨て場で拾い、それから道に落ちているアルミ缶を集めさせられ、そのアルミ缶を売ってこいと言われたので業者に売って小銭を稼いだ。コンビニ袋三つをいっぱいにしたのに、百五十円にしかならなかった。

「金を稼ぐのは大変だろう」

 おっさんは、職場体験を終えた中学生に向けるような言葉をかけてきた。俺は額にかいた汗を拭い、無言で頷く。

 そんな俺の背中を叩き、おっさんはガハハと笑った。

「おっといけねぇ。今日は豚汁食えるんだった」

 おっさんは無精ひげを撫でる。行き先を問うと、日比谷公園だ、と彼は答えた。また歩いていくつもりらしい。直線距離では三キロくらいだろうが、なにしろ東京の道は入り組んでいるので体感ではもっと距離を感じるだろう。

 日は傾き始めていたが、存分に全身の水分をカラッカラに奪ってくれた。背広を腕に持ち直し、汗まみれの脇にジャンプを挟み、俺はネクタイを緩める。おっさんの後ろ姿が霞んで映てくる。

 あぁ、ほんと何やってんのよ俺。

 日比谷公園へ着く頃にはもう夕方になっていた。俺は疲弊しきり、肩で息をしていたが、おっさんは表情一つ変えていない。ホームレスというのはつくづく生命力の強い人種だと思う。

 公園では、行政の支援団体らしき集団が長机を並べいた。工場の流れ作業を思わせる動作で次々と豚汁をホームレスたちに配っている。俺たちもその列に混じり、なんとか豚汁を獲得した。

 おっさんは汁をすすりながら、知り合いのホームレス数人に声をかけていた。俺はカップを両手に抱え、彼らと少し離れた木の根本に腰掛けた。

 遠くからおっさんたちの背中を眺めながら、なぜだか、舌の奥がふるえた。

 おっさんたちが談笑し、時に情報交換をする姿が、会社の同僚たちの姿と重なる。まとまりのない無法者だと思っていたホームレスにも、こうして彼らなり社会が形成されているのだと気付く。ホームレスだって生きるために必死なんだ。社会から逃げ出した俺と比べると、彼らの方がより社会人然としている気がした。

 下を向き、猫背になりながら豚汁をすする。口にはいつの間にか砂がこびりついており、汁ののど越しもざらざらしたけれど、あまりの美味しさに涙が出てしまいそうだった。実際、ちょっと出た。ぽろりと落ちたそれを皮切りに涙腺が決壊し、たちまち嗚咽で豚汁が喉から逆流して、俺は盛大にせき込んだ。その拍子に豚汁を地面にぶちまけ、それがまた悲しくて、俺は地面に転がりながら「こぼしちまったよお」「豚汁食いてぇよぉ」と幼児のように大泣きした。

 情けなくて、惨めで、きっと俺は社会で生きていく才能はないのだろうと、どうにも悔しくて、しょうがなかった。

 ふと、俺の頭の上に手が置かれる。野獣のような臭いがした。涙で滲む視界を押し上げると、微笑むおっさんが俺を見下ろしていた。

「俺のやるからよ、泣くんじゃねえ」

 おっさんの優しさにまた泣いた。ジャイアンの法則である。性悪な奴がたまに見せる優しさは胸を打つものだ。おっさん、それは卑怯だぜ。俺はまたほんのり泣く。おっさんは無言で公園を出ていった。十分ほどで戻ってきた彼の手には缶ビールが二本握られていて、一本を俺に差し出した。

 おっさんと一緒にビールを煽り、豚汁を水のように喉に流し込んだ。その味は舌の上でとどまらず、全身を濃厚に駆け巡るようで、ここまで旨い酒の呑み方を俺は知らなかった。ビールと豚汁をたいらげて息を吐くと、たった一缶なのに俺はすっかり酔ってしまっていた。

「もう帰っていいぞ。お前は十分働いてくれた」

 おっさんが赤い顔で微笑む。嫌だ、もう一日ホームレスやりたい、俺が言うと、おっさんは静かに首を振った。

「家があるもんはホームレスやっちゃいけねぇんだ。帰れ」

 おっさんが地面に落ちていた先週号のジャンプを取り上げた。

「帰らねえと、これはやれねえな」

 俺は逡巡したが、黙ってそれを取り返した。ホームレスは楽しかったけど、やっぱり先週号は読んでおきたかった。なんだかんだと言いつつも俺とおっさんの絆などそんなものである。自分と社会との繋がりの薄さを再確認しつつ、俺は帰路へ着いたのだった。

 無情。



 家に帰ると、母が布団に横になっていて、盛大にいびきをかいていた。家の電話には留守電が十七件入っていた。全部会社からだった。その電話番号に掛け直すと、次長の大激怒が鼓膜をたたいた。

 辞めます、それだけ言って受話器を置いた。

 母のいびきを聞きながらジャンプを読んでいると、母がのっそりと起き上がり、無造作に目をこすった。

「あぁ……おかえり」

「ただいま」

「それ、先週号のジャンプ?」

「うん」

「マジで。読みたかったんだよね。読ましてよ」

「うん」

 母が差し出す手を、俺はじっと見つめた。所々ひび割れた苦労人の手。俺はあのホームレスのおっさんを思い出した。はやくはやく、とその手が揺れる。真剣な眼差しをつくり、母を見据えた。

「ねぇ」

「何よ、早く読ませて」

「今日、会社辞めてきた」

「あっそ」

 早くよこしなさいよ、と言わんばかりに俺の手からジャンプを取り上げる。やっぱいい加減だな、この人。

 手ぶらの俺は仕方なく母がジャンプを読む姿を眺める。母は巻末のギャグ漫画を読み、大口を開けてげひゃひゃと下品に笑った。

 そんな母を見ていると、俺の怒りや悲しみ、その他もろもろの悩みの全てが宇宙のちりのようにどうでもいいことのように思えてくる。俺は母と同じように、げひゃひゃと笑った。

「明日っからちゃんと就活しなさいよー」

「おー」

 どうでもいいです。どうでもいいです。

 オリジナルのリズムを口ずさみながら、俺は窓越しの夜空を見上げた。

完結です。

最後までありがとうございました!

小岩井豊

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