5 うしろの彼女
真っ暗な森の中、車を止めた。見上げれば無数の星が闇を切り裂いていた。
バックミラーで後方を見ながら、煙草に火をつけ、そこへ向けて吹き出す。映し出されたそれが煙に霞んだ。
「あなたはいつも一人ね」
前方から声が。いや、錯覚だ。正確にはうしろから。
「あなたがなにを考えているのか、正直、最後まで分からなかった」
「それはこっちの台詞だ」
車を発進させる。少し山道を進んで、すぐにやめた。もう一度煙草を吸う。
「あなたはいつも一人だけど、平気そうだった」
「そうでもないよ」
「否定するのが好きね、相変わらず」
ここで初めて振り返る。彼女は虚ろな視線を、さきほどよりやや下方に落とし、自嘲気味に頬を緩ませている。あるいは、それも錯覚なのか。前へと向き直る。うしろの彼女がささやくように言った。
「寂しくはないの?」
「寂しくないよ」
「また否定。……でもね、私の目には寂しそうに見えた。だってあなたには夢がないでしょ。なにをしたいとか、これがやりたいとか、あれが欲しいとか、そういうものが一切なかった。誰が話しかけたって黙りだったし。どんな誘いにも乗らない。一人で散歩して、ご飯を食べて、毎日同じ場所で寝る。講義室で見かけるあなたには希望がひとつも見えなかった。空っぽだった」
「そんなことはない」
「好きなものだって、ひとつも言えないじゃない」
「好きなものくらいあるよ」
「また否定。じゃあ言ってみてよ、好きなもの」
「君」
うしろからため息が聞こえた。声色に怒気がはらんでいた。そんな風に捉える。
「そういう口先だけの言葉に騙されるのって、十代までよ」
「でも君は騙されただろ」
「私だって、昔は若かったから」
「違う」
バックミラーを見ると、うしろで彼女が首を傾げていた。僕は息を吸い込む。
「今だ」
さわさわと森が揺れた。梟が鳴いた。曇ったガラスを指でこすり、木々を突き刺す月光を見据え、目を細めた。
「ぜんぶ、君のことだよ」
彼女はうしろで息を潜めている。長い合間を置いて、続ける。
「君はいつも多くの友だちに囲まれていた。僕よりずっと優秀な人間ばかりが、君のそばに集まった。その中には当然異性も含まれていた。にも関わらず、君は僕を選んだ」
彼女は黙っている。
「なにも楽しくなかったんだろう。囲ませているように見せかけて、実は縋り付いていたんだろう。僕の目にはね、君の方が寂しそうに映ったよ。しかし君は君で、僕のことを寂しいやつだと思っていた。お似合いじゃないか。どう足掻いても似たもの同士だ」
「認めたくないわ……」
数分ぶりに発せられた彼女の声に、力はなかった。
「どうしてこんなことになったの?」
今となっては、簡単な問いだった。幾度も悩んで導き出した結論を、あとは口にするだけ。
「君が強か過ぎたんだよ。社会に対して、人間に対して、全てに対して。本当は一人でいるのが嫌なくせして、生きることに対して挑み過ぎた。そこが決定的な違いだ。似ていたって結局それは類似止まり。一度入った亀裂は二度と修復しない。僕は君をずいぶんと恨んだし、妬んだし、地の底まで陥れてやりたいとまで考えた」
「おそろしい男」
「そんなことないよ。これくらい普通だ」
彼女は、もう僕の否定については諦めた。横目に見ると、煙が睫毛を触りかすかに震えていた。
「やがて君は周りを見捨てた。一人になろうとした。僕さえも捨てて、完全に。――ねえ、本当にすまないと思っているよ。本来なら僕はそういう展開を喜んだはずだったんだ。でもそうはならなかった。君の変化が僕にまで及んでくるのが、とてつもなく不安で、死にたくなるくらい怖かったんだ。僕は僕でいたかったし、君は君でいてほしかった。本当は、どんな君でも大切にしたいと思っていたのに」
彼女は頬の筋肉ひとつ動かさず、沈黙を貫いた。僕は泣きたい気分に駆られた。
「なあ、君は本当に、」
架空の、硝煙じみた靄が森を包み、ガラスの隙間を縫って車内へ侵入した。僕や彼女の耳や目に入り込んで、音色を濁らせかき消した。夜がすぐうしろまで迫っていた。真実の欠片を垣間見る。
「どう足掻いたって、あなたは結局、いつも一人でいる」
躊躇いのあと、頷く。
「ねえ、寂しい?」
声が追いつかず、頷く。
「一人は――嫌?」
硝煙が晴れる。
遠くを見ると、森の向こうが明るんでいた。やっと息が通るようになり、僕は音もなく深呼吸をした。
うしろを振り返る。
「やっぱり一人は嫌だよ」
彼女は頬に髪を張りつけ、口の端から一筋、赤い液体を這わせた。虚ろな瞳でこちらを見ると、にこりと微笑んだ。そんな気がした。そう思うことにする。
「でも、もう一人じゃない」
ぷぅん、と目の前を蝿が舞った。




