4 莉奈と
◆1 手すり
――寒いね。
どこからか声が聞こえた。
顔を後ろに向けると、夕日とビルがおしくらまんじゅうしていた。声の主は見当たらず、回した首だけが疼く。
古びたマンションの五階から望むその景色がどこか遠い世界のように感じる。十一月も中旬に差し掛かり、こうして夜風が頬の産毛を撫でてくる頃になると、莉奈の荒んだ感情はさらに色を失くしてしまうようだった。
――莉奈ちゃん、可哀想。
声は先ほどより深みを増し、色濃く耳に残る。期待混じりに辺りを見回した。やはり誰も居ない。そうだよね、と落胆し、視線を足元に落とす。
莉奈はベランダの手すりにビニール紐で縛られていた。手すりは酷く錆び付いており、ばりが手首の皮に食い込むので下手に動くことはできず、そこでぼうっと拘束されているしかなかった。
半年前に我が家に来た義母の由紀恵は、三ヶ月かそこらで莉奈に虐待を始めた。
もともと、嫁いでくる前に初めて父に紹介されたときなど、あからさまとも取れるような好意を向けてきたので、莉奈は初めっから彼女のことなど信用していなかった。裏に潜んだ莉奈をうっとうしく思う心が、表情の節々からにじみ出てくるようだ。
絶対に母とは呼ばなかった。由紀恵さん、と余所余所しく呼んだ。
風の吹きすさぶ中、閉め切られたカーテンを無意味に見つめる。
父は毎日仕事で遅いため、小学校から帰れば嫌でも由紀恵と同じ空間に二人きりになってしまう。この奥で由紀恵と時間を共有するくらいなら、こうしてベランダに縛られていたほうがずっとマシに思えた。
――またあのオバサンなの、莉奈ちゃん。
声はどうも莉奈の手元から聞こえてくるようだった。手すりだ。茶色くあせた手すりはずっと莉奈に話しかけていたようで、ずっと無視していたことに彼女は少し罪悪感を覚えた。
「手すりくん、由紀恵さんのこと知ってるの?」
――知ってるよ、あのオバサンが来てからさんざんだもの。
「どうして?」
――観葉植物がそこにあったんだ。ぼくの友達だった。
「なんの話?」
――莉奈ちゃんの足元にある、それ。
ベランダの端には雑然とプランターが放置してあった。もう亡くなってしまった、莉奈の本当の母が趣味で育てていたものだ。昔は家族同然だったのに、由紀恵が来てからというものただの雑草に成り下がり、水気のない枯れた葉っぱが頼りなく風に揺られていた。
――そこのアイビーはぼくの親友だよ。今はもうすっかり弱り切っちゃって、二週間くらい前から話しかけてるんだけど反応がないんだ。
アイビーの茎はおじぎをするように頭を垂れ、プランターの縁に葉をぺたりと乗せている。
「死んじゃったの?」
――息はしてるよ。でも、隣のオーガスタはこの前死んじゃった。寒さに弱いんだ。
プラスチック鉢から生えたオーガスタはもう原型を残さないほど萎れている。昔は莉奈の身長ほどの高さがあり、茎も太く豪奢であった。邪魔だと言うことで由紀恵にベランダから追い出されてからというもの、すっかり気温にやられてしまったのだ。
――莉奈ちゃんも、このところ毎日ベランダで縛られてるね。
「うん」
――莉奈ちゃん、可哀想。
「でも、由紀恵さんと一緒にいるよりはここがいいよ」
――どうして莉奈ちゃんが部屋から追い出されなければいけないの。
手すりは泣き出しそうな声で言った。莉奈は目を泳がせ、枯れた観葉植物たちをなんとなく眺める。
――追い出されるべきなのは、あのオバサンなんだ。
そうでしょう? と手すりが同意を求めてくるので、莉奈は曖昧に頷いた。
――ぼくに任せて、莉奈ちゃん。
「どうするの、手すりくん」
風が吹きつけ、手すりの錆が微量に舞う。手すりは、ゆっくりと莉奈に語りかけた。
「由紀恵さん、マンションの下からお父さんが手振ってるよ」
翌日の夕方、莉奈は早まる鼓動を抑え、由紀恵をベランダへと誘導した。由紀恵は一度彼女を睨めつけ、仰々しくソファから腰を上げてベランダの窓を開けた。ベランダに出て片手に手すりを掴み、軽く下を見下ろしていた。
「お父さんなんて、どこにいるのよ」
「もっと下だよ」
莉奈はあくまで平常心を心がけた。由紀恵は訝しみながら、今度は両手を手すりに掛け、深く下を覗き込む。
――もっとだ。
「もっと下だよ、由紀恵さん」
手すりが短く言い、莉奈もそれに倣った。
突然、「ぎゃっ」と由紀恵が悲鳴を上げた。錆びきった手すりは由紀恵の体重を支えきれず、呆気なく折れてしまったのだ。由紀恵の姿が消える。下から彼女の甲高い悲鳴が聞こえ、それもすぐに消失した。
折れた手すりの間からマンションの下を煽ぎ見る。由紀恵は四肢を奇妙な方向に投げ出し、アスファルトへ静かに横たわっていた。不思議と何の感情も沸いてこない。興味の失せた人形が壊れたらこんな気持ちなのだろうか、と莉奈は想像する。
声が消えていた。仕方がないので、莉奈は昨日の手すりの言葉を反芻する。
――これは運命であって、そしてぼくたちの意志なんだ。
それから何度話しかけても、壊れた手すりはもう何も言わなかった。
* * *
◆2 黒電話
――君は、意気地無しだね。
黒電話は言った。
莉奈は膝を抱え、電話台に背を預ける。ぎし、と木の軋む音がした。ひどく古い電話台だ。こうして少し体重を加えるだけで音を立てるほど頼りないし、色合いだって、木目が判らないほどに黒ずんでいる。引き出しの面に張られた赤茶の革張りは破れ、革の先がくるりと丸まり、中の黄色いスポンジが露出していた。
莉奈は幼稚園の頃よく物を破ったり壊したりする癖があって、時折それで祖母に叱られた。この電話台の革張りだってそうだ。莉奈が五歳のとき、革の弾力に興味を持っては爪をカリカリと立てて遊び、そのうち破れて、今度は革を剥ぐ感覚を楽しんだ。そうすると祖母が凄い剣幕でこちらへやってきて、「物は大切にせんといけん」と莉奈を叱りつけた。
物を大切にする感覚はよく分からなかったが、そのとき初めて声が聞こえた気がした。電話台はあまりの痛みに啜り泣き、台の上に乗っていた黒電話は莉奈に対して怒りを訴えたのだ。
三重の叱責に、莉奈はたまらず大泣きした。泣き出す莉奈を、祖母はただじっと見守るだけだった。やがて泣き疲れ、うとうとし出したところで、祖母は優しく莉奈を抱き締めた。
「反省したかい?」
「うん」
「なら、もうよかた。反省しとるもんば叱りつけるなど、意味んなかことやけんね」
小学六年生になった今知ったことで、この電話台と黒電話は亡くなった祖父との思い出だったそうだ。戦後、四号電話機として製品化されたその黒電話で、祖母と祖父は親の目を盗んで通話に勤しんだそうだ。
莉奈は、こつんと後頭部を電話台に寄りかける。やけに頬が火照るので、冷えた両手を当てて暖めた。それを見て、黒電話がせせら笑う。
――やっぱり君は意気地無しだ。そうやって悩んでばっかり。
「うるさいなぁ」
――思い切って告白しちゃいなってば。
「まだ友達のままでいいもん。今が一番楽しいの」
――友達のままって、だってもうあと四ヶ月で終わりだろう。
「終わりじゃくて卒業するだけ」
――それはつまり、終わるということだよ。あの子、卒業したら北海道に引っ越すんだろ。
莉奈は頭を起こし、両膝で頬を挟んだ。手が裂けるように冷えるので、お尻の下に手を敷く。つんとした空気が耳を触る。今日も寒い夜だ。
恋というものがよく分からなかった。正確には今莉奈が抱えている心持ちが恋というのだろうけど、たとえこの気持ちを相手に伝えたからって、それからあの子とどう接すればいいのだろう。少女漫画をいくら読んでも、ロマンスもののドラマをいくら見ても、やはりそれはピンと来なかった。それなら、このまま友達のままだっていいじゃん、莉奈はそういう言い訳をいつも黒電話にするのだけど、黒電話はいつだって小馬鹿にしたように笑うのだ。
――君の婆ちゃんは、それはもうマセてたもんだ。中学生で深夜まで彼氏と電話なんて、当時じゃ考えらんないぜ。それに引きかえ、君ってやつは。
「あたしまだ小学生だし」
――四月には中学生だろ。
「そうだけど」
――あの子の電話番号なら知っている。通話なら俺がしっかり受け持ってやる。安心しろ。古くさい電話機だが、音の鮮明さなら現代機にも負けないつもりだぜ。
莉奈は三十秒地面を眺めて、二十秒ぽかんと上を眺めて、それから十秒かけて自分の頬を叩いて気合いを入れた。
「決めた、今から告白する」
――その意気だ。がつんとかましたれ。
莉奈が意を決して立ち上がり、黒電話を睨んだ。黒電話も息を呑み、緊張を共有してくれる。受話器を取り、ダイヤルを何度か回したところで彼女の指が止まる。
「やっぱ無理っ」
頬を紅潮させて尻込みする莉奈に、黒電話は呆れたようなため息を吐いた。
「ごめんね、黒電話くん」
――まぁ、いいよ。君に告白する勇気が出るまで気長に待ってやるさ。
二ヶ月後、黒電話は喋らなくなった。
春の匂いのする玄関先で、それは唐突に訪れた。電話台がしくしくと泣き出し、莉奈はそれ以上にもっと泣いた。ほどなく祖母がやってきて、そっと後ろから莉奈を抱く。
「お別れせんとね、莉奈」
「やだ、あたし、どうしたらいいの、壊れちゃやだ」
祖母の皺だらけの腕に巻かれながら、黒電話をぎゅっと握った。
「最後に電話してあげたらよか」
祖母の声が震えていたので、莉奈は泣くのを止めて祖母を見上げた。彼女は口元をきゅっと上げ、細い目から涙を一筋流していた。
受話器を上げ耳に当てると、キーンと張り詰めた音がノイズ混じりに耳を覆う。回転ダイヤルを回す指は、意外とすんなり動いてくれた。
雑音が消えた。それはとてつもなく小さな変化だったが、莉奈の頭の中では閃光が瞬くほどの衝撃だった。
「はい、荒川ですが」
あの子の声だった。
「あの、あたしだけど、莉奈」
呼吸が止まりそうになるのを抑え、喉を絞る。祖母の方を振り返ると、彼女は微笑みを返してくれた。
あとどれだけ話せるかも判らないけど、これで伝えてしまおう。黒電話が最後に頑張ってくれたなら、自分もその分しっかり伝えよう、莉奈はそう心を決める。
――これで、意気地無しも卒業するといいんだけどな。
莉奈は呼吸を整え、次の言葉を紡いだ。




