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3 扉の向こうは別世界

 (あずさ)は昔から、完全に閉め切られた扉が怖かった。

 扉を閉め、また開いたとき、もし扉の向こうが別の世界になっていたら……という想像をよくしてしまう。万が一そうなった場合、自分はどうすればいいんだろう。なんて考えては、あまりの怖気で身を縮みこませてしまう。

 こういう身も蓋もない妄想は幼年期にはよくある。

 もし無人島にひとりぼっちにされたら。殺人鬼に監禁されてしまったら。宇宙人に誘拐されたら。感受性の高い子供はテレビや漫画にすぐ影響されてしまうし、大抵は取り越し苦労でしかなかったりする。

 特に梓は、そういう想像力に長けた子供だ。

 梓の想像する『扉の向こうの世界』はその時々で様々だった。都会の中心街であったり、荒廃したどこぞの地であったり、野生動物の鳴き声がとどろくジャングルであったり、というふうに。

 むしろ、『扉の向こう』がどんな世界であるのかは、大した問題じゃない。問題はその場所ではなく、扉が別世界につながること自体が恐ろしかった。



 梓は、今年の春に中学生になった。

 いよいよ彼女も、有りもしない恐怖に怯えていては笑われてしまう身分である。

 今まではトイレで用を足すときでさえ扉を開けたままだった。風呂も、寝室も、リビングも、冷蔵庫やクーゼットの扉に至っても。

 この世代の少女にとって、中学生という存在はどこか大人びて見えるものである。背もぐんと伸びる時期だし、小学校までになかった制服着用という義務もある。実際、中学三年生などは大人と同じくらいの背丈を持つものだっている。

 なにより、中学からは勉強やスポーツなどの競いごとへの気負いも強まる。周りと競うということは、それだけ自分を大人へと高める行為でもあるのだ。

 大人にならなきゃいけない。自分でもそれを実感していた。

 季節は春で、時間は深夜の0時を回ったところ。

 やけに眠りが浅いことに、梓は不快感を覚えた。加えて、軽くもよおしていた。

「中学生はおねしょなんてしないから、大丈夫だよ」

 一人きりの部屋で呟き、布団を頭からかぶる。そう自分に言い聞かせるも、このままでは眠れそうもない。

 かち、こち、と壁掛け時計の針の音がやけに耳にさわる。

 全身がもぞがゆい気もする。

 枕の位置をいくらなおしてもしっくりこない。

 決して苦しい姿勢ではないはずなのに、呼吸が乱れる。

 瞼の裏の眼球がくるくるとせわしなく動く。

 これだけ寝付けが悪かった日がかつてあっただろうか。そんな苛立ちを覚える。

 もう、と梓は声を漏らし、布団を足で押し上げた。立ち上がり、電気を点けると、おぼつかない調子で上下する胸を撫でつけた。

 ふと、部屋の扉へ目を向ける。

 扉は、こぶし一つ分ほど開いていた。クローゼットも、テレビ台の開き戸も、微妙に開いたまま。小学生までで身についた悪い癖である。扉を閉める習慣は、まだまだ治っていなかった。

『中学生になってまで、だらしないわね梓は』

 つい最近、母がそんなことを言っていた。あくまで茶化し半分だったようけど、それでも梓にはこたえた。あんた、いつまでも子供のまんまね、なんて言われたようなものだったから。

 ため息を吐き、ぱたんぱたんと部屋中の扉を閉めていく。怖くないよ、怖くないよ、そう呟きながら。

 それから、梓はテレビを点けた。中学校の入学祝いに祖父がプレゼントしてくれた小型テレビ。父が、勉強するときはちゃんと消さないとだめだよ、と言っていた。勉強に差し支えるからと、あまりこのプレゼントをよく思っていないようであった。

 音量を最小限のぎりぎりまで落とす。両親を起こしてしまえば叱られるかもしれない。それでもテレビを点けておくのは、少しでも部屋を賑やかにしておきたいという、せめてもの抵抗だった。

「怖くない、怖くない」

 梓は扉を開き、廊下へ出た。

 トイレは一階。梓の部屋は二階の奥だ。それに廊下は真っ暗で、廊下の明かりのスイッチは階段付近にある。

 この位置関係を改めてうらんだ。どうして、自分の部屋の隣にはトイレがないんだろう。

 ともかく、早く行ってしまおう。頭の中でぐるりぐるりとうずまく不安を、梓は必死に取り払った。さぁ行くぞ、と歩を進める。

 ぎし。

 ぎし。

 ぎし。

 深夜に床板を踏む音は、たとえ自分が鳴らしているものでも恐怖心をあおる。

 少しでも音をなくそうと思った。昔、児童文学で忍者の話を読んだことがある。床板の上を滑らせるように、足を前へ前へと出していく。かつて忍者はこうして城へ忍び込んだらしい。

 抜き足。

 差し足。

 忍び足。

 しかしこれがやけに進みにくい。それに、これでは忍者というより、

「あたし、泥棒みたい」

 言って、梓は後悔した。今度は、泥棒に遭遇したらどうしよう、という想像をしてしまったのである。

 いったん部屋に戻ろう、そんな弱音が心の中で沸き、頭を振った。どうせトイレ行かなきゃ眠れないでしょ、と気を持ち直した。

「泥棒なんかいませんよ」

 呟きながら、すっ、すっ、と慎重に進み、ほどなくして階段付近まで到着する。

 手を伸ばし、電気を点けた。ぱちっぱちっと蛍光灯がまたたき、すぐに廊下が照らされる。

 ここで梓は、いつの間にか自分が中腰になっていることに気づいた。足はきりきりとつま先立ち、手は、何かから身を守るように腕を抱いていた。

 自分の姿勢が恥ずかしくて、慌てて背筋をピンと伸ばす。家族の誰かに見られていなかったかと階段の下を見下ろしたが、そもそも暗くてよく分からない。そして、すぐに目を背けた。暗い場所は出来るだけ見たくない。

 目をそらしながら階段の明かりを点ける。ちゃんと明かりが点いたのを確認して、梓は階段を降り始めた。

 どこまで臆病なんだろう。自分の情けなさをひそかに嘆く。

 と、その瞬間、右足が階段を一段踏み外した。どん、とさらに一つ下の階段の板を踏む。

 突然の出来事に、声も上げられなかった。腹の中身がふわりと浮いた気がした。心臓がばくばくと鳴っている。両手はとっさに手すりを掴んでいた。ひたすら大きな瞳をぱちくりさせる。

 梓はその体勢のまま、静かに心臓の高鳴りがおさまるのを待った。

「ちっ、ちびっちゃいそうだったぁ」

 ようやく口から出た言葉は、間抜けなものだった。

 結局、階段を降りるには廊下のときよりも時間がかかった。

 階段を右に曲がると、右手に両親の寝室があり、その先をさらに右に曲がると風呂とトイレがある。

 もうすぐだ。息をのみ、梓は前を見た。一階の廊下の一番先、遠い正面には玄関がある。

 玄関のガラスは半透明で、どうしてか、その向こうに人の影があるような気がした。

 もちろん気のせいだ。月明かりの入れ具合でそう見えるのだ。

 分かっていたけれども、やっぱり怖かった。

 梓は右手の壁に対面し、そこに両手をついた。玄関の方を見ないようにする作戦である。壁をずっと見ていれば怖くないはず。

 壁に両手をついたまま、ゆっくりとカニ歩きを始める。すぐに両親の寝室の扉があり、ドアノブに手をぶつけながらもなんとか進む。

「ひっ」

 思わず声を上げる。扉の隣の壁に、茶色い染みがあったのだ。一瞬それが人の顔に見えて、びっくりしてしまった。

「だれ? こんなところに染みをつくったの……」

 言っている途中で気づく。染みをつくった張本人は、梓自身だった。

 半年ほど前。父の部屋にコーヒーを持っていってくれと母に頼まれた。コーヒーはカップになみなみと注がれていて、持っていくときどうしてもふらふらとなってしまった。こぼさないように、こぼさないように、とカップに集中するあまり、転んでしまったのだ。

 それで、コーヒーを壁にかけてしまった。

 そんなこともあったなぁ、と少し和んで、梓はまた横歩きをする。

 ようやく壁が終わり、風呂と廊下への短い廊下に到着した。これでもう大丈夫、と壁から手を離し、廊下へと足を踏み入れた。

 ぐにゅり、と左足が何かを踏んだ。一瞬遅れて、下からギャッと何かが鳴いた。

 驚いて左足を上げる。階段のときと同様、驚きすぎて声すら出なかった。

 恐る恐る梓は下を見おろす。その何かは、怒ったように梓を睨んでいた。

「な、なんだ、ちびちゃんか」

 飼い猫だった。生まれつき体が小さいから『ちび』という名前なのである。

 ちびはキッと睨み続けていたが、梓は逆に安心した。ゴキブリか何かを踏んだのかもしれないと思ったからだ。踏んでいたのは、ちびのしっぽだった。

 梓は膝を折り、ちびのしっぽを撫でる。

「ごめんね、痛かったよね。でも、こんなところで寝てちゃだめだよ」

 ふーっ、とちびは威嚇し、どこかへ駆けていってしまった。ほんとにごめんね、と梓は心の中で囁いた。

 いよいよ、トイレに着いてしまった。

 ごくりと生唾を飲み、トイレに入っていく。

 扉を閉めるかどうか、梓はしばらく悩んだ。

 実は、今だにこれだけはどうしても閉められないのである。一番怖いのがトイレの扉だった。

 空間が狭ければ狭いほど、人間はより孤独を感じてしまう。

 梓も、トイレの独特な閉塞感が苦手だった。学校のトイレはまだいい。個室に入ってもトイレの外が騒がしいため、まだ気が紛れる。

 問題はまさに今で、昼間の学校とは違い、さざめきの一つさえしない状況なのだ。

 両親も起きてこないし、今くらい開けたままでもいいんじゃないか。

 そんな甘い考えがちらつくも、梓は気丈に振る舞うことを決めるのだった。

「中学生は、もう大人です」

 がちゃり、と扉を閉める。寝間着と下着をおろし、便座に腰掛ける。

「うっ」

 ぎゅっと、空気で首を締めつけられるようだった。前も後ろも、右も左も上も下も、六つの平面全てが梓を圧迫してくるように錯覚した。

 目がくるくると回る。前を見たり、上を見上げたり、下を見下ろしたりと、視線がせわしない。

 ばっと後ろを振り返る。当然何もないし、強いて言えば便器のふたと水洗タンクがあるくらい。

「怖くないよ。幽霊とかいないし。ぜんっぜん怖くないよー」

 ともかく、と用を足す。ぶるぶる、と頬が震え、腰から頭にかけて筋肉が弛緩していく。ほぅ、とひとまず息をついた。

 残尿感だけはどうにか解消した。それでも、まだ梓は瞬きすらはばかられるほどびくついていた。

 遠くから、ちびがマーオと鳴いた。

 扉の向こうの、遠くから。

「怖くなーい、よぉ……」

 声が小さくなる。梓の中で、今まで考えまいとしていたことが駆け巡った。

 扉の向こうのことである。

 別世界。そんなものにつながるわけがないということは頭では分かっている。理屈として知ってる。でも、もしその理屈をこわされたら?

 理解しているからこそ、それが瓦解するのが恐ろしい。梓は今まさにそういう、疑心暗鬼に駆られていた。

 そして梓は、ついに黙ってしまった。

 全身が石化したようにぴたりと固まり、じっと目の前の扉を見据えるのみとなってしまう。ひとり言を呟けたのは、まだまだ余裕があった証拠だった。

 時間が過ぎていく。

 このままこの場で固まっていた方が勇気が鈍るんじゃないか。

 しかし、人間の体は恐怖という本能には正直だった。

 それからどれほどの時間が経っただろう。

 梓はついに、小さくしゃくり上げ始めていた。どうして怖いのか、何がそこまで怖いのか、自分でもうまく説明できなかった。整理がつかなかった。ただ、親を探す幼児のように怯えるだけだった。



 はたと、梓は目を薄く開ける。

 まだトイレの中だった。疲労のためか、それとも夜更かしのためか、いつの間にか便座の上でうたた寝をしていた。

「ねむぅい……」

 ぼそり、と口から漏れる寝ぼけ声。

 目の前の扉を見る。梓の中で疑問が浮かぶ。

 どうして、こんなものを怖がっていたんだろう?

 あまりの眠気で恐怖が消え去っていた。それとも、あんまり長いこと怯えたために、緊張がぷつりと切れてしまったのか。

 眠い。

 早くベッドに横になりたい!

 そんなことしか頭になかった。

 寝ぼけ眼のまま下着と寝間着のズボンを穿き、立ち上がってドアノブに手をかける。

「明日も学校、だからぁ、早く、寝なきゃ……うぅん」

 ドアノブを回し、扉を押す。


 ――サァァ。


 この場には似つかわしくない音と空気が、梓の肌に触れた。鼻の奥がしゅっと乾く。

「んー」

 眠気で閉じかけた視界で、梓は前方をじっと睨む。

 扉を開ければ、そこに廊下と壁があるはずだった。しかし、寝ぼけ眼がとらえた景色は――あまりにも広大すぎた。

 視界いっぱいに広がる一面の砂。脳裏に『砂漠』という単語がちらつく。

 鼻を啜ろうとしたけど、空気が乾燥しているのでむせてしまいそうだった。

 砂はどこまでもどこまでも続いている。砂の地平線から上半分は、群青色の空が占めていた。梓は首を傾げながら上空を見る。

 黄金色にてらてらと輝く丸いそれは、二つ並んで空に浮かんでいた。思い浮かべた名称は『月』だった。

「お月さまが、ふたつ?」

 突如、あたりに突風が吹く。風は砂塵を巻き上げ、舞い上がる砂は頬や手足を打った。痛くて、少しだけこそばゆかった。薄く開いた瞳を、さらに薄める。

 おかしいな、家の中なのに風が吹いてる、梓はぼんやりと吐息を漏らすように言う。

 おかしいな?

 おかしいな……。

「あ、そっか夢か」

 ばたん、といったん扉を閉じ、再度扉を開ける。

 今度こそ、眼前に廊下と壁が現れる。さきほどの風は止んでいた。いや、最初から風など吹いていなかったのかもしれない。無機質なのに安心感のあるその光景を数十秒眺める。

 かくん、と梓の頭が揺れた。

「ねむぅい……」ぱたり、ぱたり、と彼女は歩きだした。「ねるぅ」

 たんたん。リズムよく廊下を歩き。

 とんとん。リズムよく階段を上り。

 たんたん。またリズムよく廊下を歩き。

 自分の部屋の扉を開け、テレビと明かりを消し、倒れ込むようにベッドへ横になった。

 梓の寝息が聞こえたのは、それからほんの一分足らず後のことであった。



 翌朝、ポケットにはなぜか、少しの砂粒が入っていた。それに気づいた梓は、少し目を吊り上げた。階下の母へ向かって、はんぶん叫ぶように言う。

「お母さーん! ちゃんとパジャマ洗濯してよー! ポケットに砂入ってたぁ!」

「あんたももう中学生なんだから、たまには自分で洗濯しなさい!」

 母の返事はまるでバッティングのように飛んでくる。

 梓は納得がいかないながらも、制服に着替えて部屋を出た。


 ――ばたり。


「ん?」

 部屋を出て、ふと違和感。振り返ると、その正体に気づいた。部屋の扉を、無意識のうちに閉じていたのだ。

「わぁ、癖治ったかも。なんでだろ」

 梓は不思議そうに扉を見つめ、首を傾げた。

 なんだか、昨日何かがあったような気がする。苦手な知恵と記憶力を絞って考えて、思い出してみた。

 さらさら。ひゅう。ぽん。

 何ひとつ、思い出せなかった。何かを忘れている気がする。気がするけれど、それは風に飛ばされてしまって、砂粒のようにあっという間になくなってしまった。

「ま、いっか」

 手にはまだ砂がついていたので、さっと払い、梓はあらためて歩き出した。

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