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1 横になれば

 連勤明け、といっても朝の話ではない。湿った夜のこと。

 ほの暗い月明かりを十分に吸った1DKのアパートで、帰り際の高島屋で買ったヒールを指で弄びながら、すこしずつ、コンビニの安い麦酒をすすっていた。ヒールは新品らしく喉が詰まるような香りを発散し、自分の口から漏れるなま暖かい吐息と相まって、わたしは何度か空気を飲み込んで吐き気を抑えた。


 わたしの夜は、いつ明ける。

 一瞬鼓膜を揺らしたのは、昼間のおじいちゃんの怒鳴り声。オペーレーターであるわたしはマイクに唇を押し当てるようにして、耳の遠い彼になにか呪詛でもつぶやいてやりたい気持ちを我慢して、何度も案件を聞き返した。わたしはただ、早く教えてほしかっただけだった。購入後すぐに壊れたというその湯沸かし器の、製造番号を。


「そのまま、横になってもいいよ」

 無人の会議室に忍び込み頭をテーブルに押し当て、こっそり居眠りをしていたら、以前所属していた部署の主任から言われた、冷たくも優しくもない言葉。同い年で上司の彼女。あれは居眠りしていたというほどでもなかった。ただわたしは目を閉じていただけ。疲れなんて少しも拭えていない。それは彼女も分かっていただろう。おそらく、なにもかもを知っている。ずっと消えない目の下のくまを、毎朝厚いファンデーションで塗り隠していることさえも。


 安い麦酒は都合がいい、とわたしは思う。

 いくら呑んだって酔いが辛くない。経済的にも、身体的にも痛くない。子どもの頃、父は呑んでいたそれを「見た目と同じ。おしっこみたいに不味い。でもね、それがいいんだ」と評した。「すごくみじめで、気持ちが良くて、いつ死んだっていいくらい」とも言った。その通りだと思う。あの人にはそういうお酒の楽しみ方が合っているし、そして、いまのわたしにも。


「わたしが好きだったのは、きみじゃなくて、きみといっしょにいられた時間」

 卒業証書の入った丸筒を下り坂に転がしながら言ったわたしの台詞を、きみは覚えているだろうか。

 中三の夏から付き合い続け、長い四年間を共にしたきみ。はっきり言ってきみのことは好きでも嫌いでもなかった。最後まで気付かれなかったと思うけれど、わたし、しょっちゅうきみの愚痴を友人に漏らしていたし、きみといっしょにいるより、きみを糧に築いた友人関係の方が得たものが大きかった。ただこれだけ言えるのは、あの四年より長い時は、たぶんもうわたしには訪れない。

「わかるでしょ、きみにも」


 わたしの夜は、いつ明ける。

 なんば言いよるか、いっちょんわからん、いいから金を返せ、とおじいちゃんは一通り喚いて、名前も住所も告げずに電話を切った。そのときふと見た窓からの景色。入道雲。空高く舞う鳶。ビルの屋上で汗を叩く保守員。溶けてゆくタバコの煙。それで。ひどい眠気に襲われ、ホワイトボードと乳白色のテーブルだらけの殺風景な会議室へと向かった。

 もう横になっていい。一週間でもいいから休暇を取って、温泉でも行ってきなさい。

 そのあと彼女は、なんと言った? 覚えていない。いま一つ曖昧で、記憶の一部が食べられちゃったみたい。彼女と同じ教室で解いたあの数式の方が、よっぽど思い出せる。

「このあとご飯でも行かない? 美味しい焼き鳥屋さんを見つけたの」――だったら、よかったのに。

 呑み尽くした缶を部屋の端に寄せて、すっかり狭くなってしまった部屋を横切り台所に向かうと、グラスに水を注いで一気に飲み干した。しばらく、流れ出す水柱を見つめた。水柱はシンクと蛇口をひとつなぎにし、さかい目を同じくしている。わたしは二度えずいた。喉までせり上がる熱いものをこらえて水柱を注視した。

 安い麦酒は都合がいい、いくらだって我慢できる、とわたしは思う。

 あの父親ともしばらく会っていない。あの人はいまどうしているだろう。学生時代からの夢であるという映画監督には、もうなれたかな。そんな風に考えて思わず笑みをこぼす。なってるわけないじゃん。


「頭の中ばっかりで、なにも言ってくれなかった」

 卒業式のあとのこと、覚えているかな。

「だから好きだった」

 きみはあのとき、とてもひどいことを言った。あの四年より長い時もなかったけれど、あれより残酷な言葉だって、この先ありえない。

 それから高密度な二年間を共にし、そして別れた。美ら海水族館の見上げるほど大きな水槽を前にして、別れを告げられた。濃厚で空っぽだった四年とは正反対に、あの二年は途方もなく浅薄で、ぎゅうぎゅうに詰まっていた。だからこその別れだった。

 わからん、いっちょん、わからん。

 そう言ってやりたかった。多分、きみも同じ気持ち。でも今はお互い違うだろう。わたしたちはあの卒業式までだった。今だからこそ分かる。


 わたしの夜は、いつ明ける。

 休暇を取ったら、彼女は温泉旅行についてきてくれただろうか。父が生きていたら、わたしと同じお酒を呑んでくれただろうか。きみとわたしが昔のまま空っぽだったら、この1DKにきみの姿はあったのだろうか。

 わたしの夜は、いつ明ける?

 休む間もなくシンクを打つ水音を聞きながら、休みを知らない身体をフローリングに横たえ、つま先で新品のヒールを蹴りあげた。ヒールは一瞬だけ宙を舞い、カーテン越しの月明かりを吸収しながら、無音でカーペットに落下した。わたしは寝そべったまま寝間着のボタンをひとつ外した。なにもない、いつもの夜。ひとつだけ違うのは、ふかふかのベッドでも、ちくちくしたカーペットでもなく、頬にさわる、夏らしくない冷たい床の感触。そのまま仰向けにころがり、瞼の上から青白い月光と蛇口の涼しい送水音を浴びながら、深く息吹をする。ほの暗い視界に浮かぶのは、入道雲、舞う鳶、溶けゆくタバコの煙と、転がり転がり、下り坂の終点で路線バスに踏みつぶされた卒業証書入りの丸筒。

 わたしは息を整えてお腹のうえに手のひらを乗せた。今日だけは眠れるかもしれないと、ほんの少しだけ思った。

ジャンル、文体も様々な短い物語七編を投稿していきます。

当サイト、HP、ブログなど各所に一度は投稿しているので全て再掲載になります。

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