婚約者と妹に「役立たずの聖女」と追放されましたが、実は私が加護を止めると王国は三日で滅びます。それでは、さようなら。
第一話 婚約破棄された瞬間、推し筋肉ルートが始まりました
ジョーラオ王国の王城の大広間。
王侯貴族が見守る中、王太子アレクシスは婚約者の私を見下ろしながら告げた。
「リリア=アストレア。お前との婚約を破棄する。
そして、国外追放を命じる」
隣には純白のドレスをまとった妹エレナ。
勝ち誇った笑みを浮かべている。
「姉様、ごめんなさい。でも、本当の聖女は私だったみたいなんです」
……また、その顔。
欲しいものを奪った時だけ見せる笑顔。
幼い頃から何度見ただろう。
「リリア、お前は十年間、何一つ奇跡を起こせなかった。
それに比べ、エレナは祈ったその日に奇跡を起こした。
これからは彼女が王国の聖女だ」
拍手が起こる。
「さすがエレナ様!」
「ようやく偽物が消える」
「王太子殿下の英断だ」
誰もリリアを見ようとしない。
……まあ、そうでしょうね。
リリアは小さくため息をついた。
正直に言えば――
婚約破棄そのものは、そこまでショックではない。
だって。
(アレクシス様って、鍛えるのが嫌いなのよね)
細い腕。
白い指先。
毎日の剣術訓練も途中で切り上げる。
「筋肉は野蛮だ」
などと言って笑う人だった。
リリアは理解できなかった。
筋肉は美しい。
努力の証。
民を守るために鍛え上げられた身体は、芸術品だと思う。
そんなことを口にすると、「リリアは変わっている」と笑われた。
だから誰にも言えなかった。
そして、リリアには人には言えない日課がある。
騎士団の朝練を、毎週こっそり見学することだ。
特に――
第一騎士団長ラインハルト様。
朝日を浴びながら剣を振るう姿は、まるで一枚の絵画。
鍛え抜かれた肩。
鋼のような腕。
去り際の後ろ姿が特に良い。
(はぁ……今日も素晴らしい広背筋でした)
もちろん本人には秘密である。
そんなことを考えていると、
「最後に何か言い残すことはあるか?」
王太子が勝ち誇ったように言ってきた。
リリアは静かに頭を下げる。
「ありません。国外追放、了承しました」
会場がざわつく。
もっと泣き叫ぶと思っていたのだろう。
でも。
泣く理由がない。
むしろ……
(これで毎朝、お祈りに行くこともなく、
妹ばかり見てる両親や婚約者から離れられて、せいせいするわ)
国を離れる寂しさはあったが、それ以上に、面倒な人たちの相手をしないで済む方が嬉しかった。
「では失礼いたします」
リリアは踵を返した。
「姉さま、ごめんなさいね」
背中から妹の嬉しそうな声が聞こえる。
リリアは振り返らない。
そのまま王城を出た。
夜風が頬を撫でる。
胸元の銀の聖印を静かに外す。
十年間。
教会に赴いて祈り続けた。
王都を包む結界。
魔物除けの加護。
豊穣の祝福。
すべて私の祈りが支えていた。
でも、もう終わり。
「……これで、追放ルートに突入したのかな?
この先はゲームにはないから、どうなるかわからないわ」
リリアは前世、日本で暮らしていた会社員だった。
そして、この世界は前世で夢中になって遊んだ乙女ゲーム。
『聖なる乙女と七人の騎士』の世界。
婚約破棄イベント。
偽聖女。
全部ゲームどおり。
でも、最推しは王太子じゃない!
第一騎士団長――ラインハルト様だった!
攻略本まで買って、
「この筋肉、美しすぎる!」
大興奮していたくらいの最推しである。
しかもゲームでは、最後まで誰とも結ばれない隠し攻略対象。
「つまり……」
婚約はなくなった。
王太子とも終わった。
妹がそのルートを持っていった。
ということは――
「推しを全力で応援……じゃなくて、恋をしてもいいってこと!?」
思わず口元が緩む。
その時。
王都全体が小さく震えた。
誰にも見えない結界に、一本の亀裂が走る。
だが、まだ誰も気付いていない。
王国が失ったものにも。
そして、本物の聖女がようやく自由になったことにも。
第二話 追放された聖女を追ってきたのは、最推しの騎士団長でした
王都を出て三日。
リリアは小さな馬車に揺られながら、隣国との国境へ続く街道を進んでいた。
「本当に、お戻りにならなくてもよろしいのですか?」
御者の老人が心配そうに尋ねる。
リリアは窓の外へ目を向け、小さく笑った。
「はい。追放されたので……」
老人は何か言いたげだったが、やがて静かに頷いた。
「……あなた様ほど国のために尽くした方を、私は知りません」
「ありがとうございます」
リリアは微笑む。
胸は少しだけ痛む。
十年間。
教会で祈り続けた日々は、もう終わった。
でも、不思議と後悔はなかった。
むしろ、肩の荷が下りたような気持ちだった。
(それに……)
頭に浮かぶのは、王太子ではない。
逞しい背中。
鍛え抜かれた腕。
戦場で誰よりも前に立つ姿。
第一騎士団長、ラインハルト様。
前世の私は筋肉が大好きだった。
もちろん今も変わらない。
でも、彼を好きになった理由は、それだけではない。
三年前。
王都近郊の村へ結界の祈りを捧げに向かった遠征でのことだった。
帰り道、護衛の隊列から少し離れてしまったリリアは、魔物と鉢合わせた。
その巨大な爪がリリアへ振り下ろされる。
(死ぬ――)
そう思った瞬間だった。
「リリア様ッ!!」
叫び声と共に現れた。
次の瞬間、リリアの身体は大きな腕に抱き寄せられていた。
ガキィン!!
鋼と爪がぶつかり合う。
リリアを抱き締めたまま、ラインハルトは魔物の一撃を背中で受け止めていた。
鎧が砕け、鮮血が飛び散る。
「団長!!」
騎士たちが駆け寄る。
それでも彼は笑っていた。
「ご無事ですか?」
最初に心配したのは、自分ではなく私だった。
「……どうして」
震えるリリアに、彼は照れくさそうに笑う。
「あなたを守るのが、私の役目ですから」
あの日からだった。
筋肉が好きだった憧れは。
一人の男性への恋へ変わったのは。
「……もう、お会いすることもないのでしょうね」
思わず漏れた言葉は、風に溶けていった。
◇◇◇
その頃、王都では。
王宮魔術師が青ざめた顔で叫んでいた。
「陛下! 王都結界の出力が三割も低下しています!」
国王は立ち上がる。
「原因は何だ!」
「リリア様がいなくなったからです!」
「何だと!?」
王太子アレクシスの怒鳴りつける。
「そんなことがあるか! エレナがいるではないか!」
「彼女では不可能です!」
魔術師は首を横に振る。
「エレナ様が起こせる奇跡は局所的な治癒です。しかし、王国全域を覆う結界は、十年間リリア様お一人の祈りによって維持されていました!」
誰も言葉を失う。
自分たちが追放した相手こそが、王国を支えていた。
その事実だけが重く広間にのしかかった。
◇◇◇
夕暮れ。
リリアは国境近くの小さな村へ辿り着いた。
素朴な石造りの家。
風に揺れる麦畑。
王都とは違う穏やかな空気に、自然と肩の力が抜ける。
「そろそろ隣国ね。そこでなら静かに暮らせるかな」
その時だった。
後ろから馬の蹄の音が響く。
タッ、タッ、タッ――。
一頭の黒馬が土煙を上げながら近づいてくる。
夕日に照らされ、その姿が見えた瞬間。
リリアは息を呑んだ。
「……ラインハルト様?」
馬から降りた長身の騎士。
旅装に身を包んでいても、その鍛え抜かれた身体は隠せない。
肩に羽織る黒い外套。
日に焼けた精悍な顔。
そして、どこまでも真っ直ぐな青い瞳。
ゲームで何度も見た推し。
そして、この世界で恋をした人。
ラインハルトはリリアの前まで歩いてくると、静かに片膝をついた。
「ようやく、追いついた」
「どうして……ここに?」
胸が高鳴る。
彼は王国最強の騎士団長だ。
王都を離れられるはずがない。
思わず尋ねる。
「騎士団は、どうしたのですか?」
ラインハルトは穏やかに微笑んだ。
その笑みは、戦場では決して見せない優しいものだった。
「辞めてきました」
「……え?」
リリアは言葉を失う。
辞めた?
王国最強の騎士団長が?
「な、なぜですか?」
彼は一歩近づく。
「私は、王国のためだけに剣を振るっていたのではありません」
低く、優しい声が胸に響く。
「あなたを守るために、騎士になったのです」
その一言で、時が止まった。
「あなたが追放される王国に、私が仕える理由はありません」
真っ直ぐな眼差しが私だけを映している。
「これからは、一人の男として、あなたの隣に立つことをお許しいただけますか?」
夕焼けが二人を優しく包む。
王国では誰にも認められなかった聖女。
その彼女を、誰よりも大切に想い、誰よりも強く守ろうと決めた男。
こうして、本当の物語は、婚約破棄のその先から始まるのだった。
第三話 最推し騎士と、新しい国へ
夕焼けに染まる村の入口。
リリアは、目の前に立つ元騎士団長ラインハルトを見つめていた。
「……本当に、騎士団を辞めてしまわれたのですか?」
まだ信じられない。
王国最強と呼ばれた第一騎士団長。
国王からの信頼も厚く、多くの騎士たちの憧れだった人が、すべてを捨ててここへ来た。
ラインハルトは穏やかに頷く。
「はい。私が剣を振るってきた理由は、一つだけです」
真っ直ぐな青い瞳が私を見つめる。
「あなたを守るためです」
胸が熱くなる。
あの日――。
魔物の鋭い爪から身を挺して守ってくれた姿が脳裏によみがえった。
(……やっぱり、格好いい)
前世から筋肉好きだった私は、鍛え抜かれた身体に目が行ってしまう。
旅装になっても隠し切れない厚い胸板。
(ああ……やっぱり素敵)
思わず見つめていると、ラインハルトが少し照れたように咳払いをした。
「……何か付いていますか?」
「い、いえ!」
危ない。
筋肉を見つめすぎてしまった。
前世の癖は簡単には治らないらしい。
ラインハルト様は小さく笑う。
「リリア様は昔から、私を見る時だけ不思議なお顔をされますね」
「えっ!?」
「訓練場でも、遠征でも」
「…………。」
(ばれていたーーっ!?)
恥ずかしさで顔が真っ赤になる。
まさか朝練を物陰から見ていたことまで知られていたのでは……。
穴があったら入りたい。
そんなリリアを見て、ラインハルトは珍しく声を上げて笑った。
「安心してください。
あなたのその表情を見るのは、好きです」
その言葉だけで、心臓が大きく跳ねた。
◇ ◇ ◇
翌朝。
リリアは村の広場へ向かった。
村人たちが不安そうに集まっている。
「昨日、森の近くで魔物を見かけまして……
魔物なんて、この辺にいなかったのですが……」
リリアは静かに頷いた。
「少しだけ、お時間をいただけますか?」
銀の聖印を両手で包み込む。
目を閉じ、静かに祈りを捧げた。
温かな光が地面へ染み込む。
光は村全体を優しく包み込み、透明な膜となって広がっていく。
風がふわりと吹き抜けた。
鳥たちが一斉にさえずり始める。
「これは……」
村人たちが息を呑んだ。
リリアは微笑む。
「村全体に魔物避けの結界を張りました。
これで一年ほどは、魔物が近づくことはありません」
一瞬の静寂。
次の瞬間。
「おおっ!!」
歓声が上がった。
村長が震える足で近寄り、その場で深々と頭を下げる。
「ありがとうございます……! こんな小さな村のために……」
「どうか頭を上げてください」
リリアは慌てて手を差し伸べる。
「私が好きでやったことですから」
すると、小さな女の子が私の手をぎゅっと握った。
「お姉ちゃん、また来てね!」
「うん」
自然と笑みがこぼれる。
王都では誰も感謝してくれなかった。
でも、この小さな村では違う。
それだけで胸がいっぱいになった。
少し離れた場所から、その様子を見守っていたラインハルトは、目を細める。
「やはり、あなたは誰かを救っている時が一番素敵です」
「……そんなことを言われると照れます」
彼は優しく笑った。
「これからのことですが、一つ提案があります」
「提案ですか?」
「私の姉は隣国――アルヴェイン王国へ嫁いでおります。
姉の嫁ぎ先は侯爵家です。事情を話せば、きっとあなたを温かく迎えてくれるでしょう。」
リリアは驚いた。
「そんな方に、ご迷惑では……」
「迷惑ではありません」
ラインハルトは迷いなく答える。
「姉は昔から、聖女様のファンです。それに……」
一度言葉を切り、優しく続ける。
「あなたを一人にはしたくありません」
その一言が胸に染みる。
もう王国へ戻る理由はない。
必要としてくれる人がいる場所へ行こう。
リリアはゆっくりと頷いた。
「……はい。ご一緒します」
ラインハルトの表情が、ぱっと明るくなる。
「ありがとうございます」
こうして二人は、小さな村の人々に見送られながら歩き始めた。
目指すは隣国アルヴェイン王国。
祖国では「偽聖女」と呼ばれた少女と、すべてを捨てて彼女を選んだ元騎士団長。
誰も知らない新しい土地で、二人の運命は静かに動き始める。
一方その頃、王都では結界の弱体化がさらに進み、各地で魔物の出没が相次ぎ始めていた。
まだ国王たちは知らない。
自分たちが追放した本物の聖女が、たった一晩で小さな村を一年間守る結界を張ったことを。
そして、その奇跡はもう二度と無条件には、王都では使われないことを。
第四話 偽りの栄光と、追われる本物の聖女
一方、その頃――。
ジョーラオ王国では、王城中が騒然としていた。
「東門付近で魔物の群れを確認!」
「南方の街道でも結界の濃度が低下しています!」
「各地の神殿から加護が弱まったとの報告です!」
次々と飛び込んでくる凶報に、玉座の間は重苦しい空気に包まれていた。
国王は険しい表情で玉座の肘掛けを握り締める。
「……まだ、結界を張ることができないのか?」
王宮魔術師長が震える声で答えた。
「リリア様がいないと……王国全土へ聖魔法が届きません。
現在、結界の出力は半分以下まで低下しております」
その言葉に、国王はゆっくりと視線を王太子アレクシスへ向けた。
「アレクシス」
「……はい」
「説明してもらおうか」
王太子は額に汗を浮かべながらも反論する。
「偽物の聖女を追放しただけです!
エレナが本物の聖女なのです!」
その瞬間だった。
バンッ!
国王は机を叩きつけた。
「黙れ!」
玉座の間が静まり返る。
「何が本物だ!」
「王国を十年間支えていたのはリリアだったではないか!
お前は何を見ていた!」
アレクシスは言葉を失う。
さらに宰相も厳しい眼差しを向ける。
「殿下。政治とは、噂ではなく結果を見るものです。
リリア様が去った翌日から王国が崩れ始めた。
それが答えでしょう」
貴族たちも口々に囁き始める。
「早まったのでは……」
「王太子殿下の判断ミスだ」
「このままでは王国が危ない」
昨日まで味方だった者たちが、一斉に距離を置き始める。
アレクシスは拳を震わせた。
一方、その隣ではエレナも青ざめていた。
「エレナ」
国王が低い声で問う。
「お前なら王都の結界を維持できるのだな?」
「もちろん、できます」
自信に満ちた声で答える。
「姉様でもできたのですから、私にもできます」
神殿の祭壇。
エレナは必死に祈りを捧げた。
しかし。
ぽうっ。
掌に小さな光が灯っただけで終わる。
王都を覆う巨大な結界は、ぴくりとも反応しない。
「そんな嘘よ、姉様ができるのよ。わたしにだってできるはずよ」
神官長は静かに目を閉じた。
「やはり、無理でしたか……」
エレナの顔から血の気が引いていく。
自分には、王国を守るほどの力などなかった。
ただ、人の傷を少し癒やせるだけ。
それだけだった。
◇ ◇ ◇
その日の夕方。
緊急会議が開かれた。
「リリアを連れ戻せ」
国王が断言する。
「もはや他に方法はない」
宰相も頷く。
「ですが、追放後の足取りは不明です。
どこへ向かったのかも分かりません」
国王は苦々しく息を吐く。
「総力を挙げて探せ。国境警備隊、騎士団、密偵――使える者はすべて使え」
しかし、その時だった。
一人の青年が前へ進み出る。
「父上」
玉座の間に響く穏やかな声。
それは第二王子、ユリウスだった。
兄とは対照的に、誠実で冷静な人柄から多くの臣下に信頼されている青年である。
彼は静かに一礼した。
「この任務、私にお任せください」
国王は目を細める。
「お前が行くのか?」
「はい」
ユリウスは真っ直ぐに答えた。
「ですが、私はリリア様を無理やり連れ戻すつもりはありません。
まずは謝罪を。王家が犯した過ちを認め、誠意を尽くします」
その言葉に、広間の空気が変わる。
国王はゆっくりと頷いた。
「……よかろう。リリアの捜索は、お前に一任する。
必ず見つけ出してくれ」
「承知いたしました」
深く一礼するユリウス。
しかし彼の胸中には、別の思いもあった。
(兄上……あなたは最後まで、リリア様の価値を見ようとしなかった)
(だから失ったのです)
(せめて私は、一人の人としてリリア様と向き合いたい)
こうして第二王子ユリウスは、本物の聖女を捜すため、王都を後にするのだった。
一方その頃。
何も知らないリリアは、ラインハルトとともに祖国から遠ざかる街道を歩いていた。
寄り添う二人の距離は、少しずつ、しかし確かに縮まっていた。
第五話 新たな国へ、そして崩れゆく祖国
柔らかな朝日が街道を照らしていた。
「今日は、この村で少し休憩しましょうか」
リリアがそう言うと、隣を歩く元騎士団長ラインハルトは穏やかに頷いた。
「ええ。旅も急ぎすぎない方がいいでしょう」
二人が立ち寄ったのは、街道沿いの小さな村だった。
村長は二人を見るなり深く頭を下げる。
「旅のお方、どうかお気を付けください。この辺りは最近、魔物が増えておりまして……」
リリアとラインハルトは顔を見合わせる。
原因は分かっていた。
祖国の結界が弱まったことで、周囲の魔物まで活発になっているのだ。
「私に少し、お手伝いさせてください」
リリアは村の中央へ歩み出る。
胸元の銀の聖印を両手で包み込み、静かに目を閉じた。
優しい祈りが空へ溶けていく。
やがて淡い金色の光が村全体を包み込み、大地へと染み込んでいった。
温かな風が吹き抜ける。
木々がさわさわと葉を揺らし、小鳥たちがさえずり始めた。
「これで一年ほどは、魔物は村へ近づけません」
一瞬の静寂。
そして――。
「おおっ!」
歓声が広場に響いた。
村長は目に涙を浮かべながらリリアの手を握る。
「ありがとうございます……!」
「これで子どもたちも安心して外で遊べます!」
母親たちも何度も頭を下げる。
「本当に助かります!」
「どうかお身体を大切になさってください!」
リリアは少し照れながら微笑んだ。
「皆さんが笑顔で暮らせるなら、それだけで十分です。」
その姿を見つめるラインハルトの表情は、とても優しかった。
(王都では、感謝されることなど一度もなかった。)
(それなのに彼女は、見返りなど求めない。)
やはり、この人こそ本物の聖女だ。
誰よりも知っている。
彼は胸の内で静かに誓う。
(もう二度と、この笑顔を失わせはしない。)
こうして二人は村々を巡りながら旅を続けた。
結界を張るたびに人々は笑顔になり、
別れ際には、焼きたてのパンや果物、温かな毛布を持たせてくれる。
「また来てください!」
「神様のようなお二人だ!」
「どうか、お幸せに!」
その言葉に、リリアの胸は少しずつ満たされていく。
王都では得られなかった「ありがとう」が、この旅には溢れていた。
数日後――。
大きな石造りの門が見えてくる。
門の上には、美しい白い獅子の紋章。
ラインハルトは懐かしそうに目を細めた。
「見えました。アルヴェイン王国です」
リリアは大きく息を吸う。
「ここから……新しい人生が始まるんですね」
「ええ」
ラインハルトは静かに頷いた。
「今度は、あなたが笑って暮らせる国です」
二人は並んで国境を越えた。
誰にも祝福されなかった追放の日とは違う。
未来へ向かう一歩だった。
◇ ◇ ◇
一方、その少し後方。
一頭の馬を走らせる青年がいた。
第二王子ユリウスである。
彼は国境の門を見つめ、小さく呟く。
「ようやく……ここまで来ましたか」
調査によれば、本物の聖女は隣国へ向かった可能性が高い。
ユリウスは手綱を握り直す。
「どうか、ご無事で」
彼の目的は、連れ戻すことではない。
王家の過ちを詫びること。
そして、彼女自身の意思を尊重することだった。
◇ ◇ ◇
その頃、祖国ジョーラオ王国。
王城では、ついに国王の決断が下されていた。
「王太子アレクシス」
重苦しい空気の中、国王は厳しい声で告げる。
「本日をもって、お前を王太子の座から罷免す。」
玉座の間がどよめく。
「なっ……!」
アレクシスは目を見開いた。
「父上、何を仰って――」
「黙れ」
国王は冷たく言い放つ。
「王国を危機に陥れた責任は重い。
王太子としての資質なしと判断した。」
宰相が静かに勅令を読み上げる。
「第一王子アレクシスは王位継承権を剥奪。
今後は偽聖女エレナの婿として伯爵家へ、家督を継ぐものとする」
「そんな……」
アレクシスの顔から血の気が引く。
「私は……未来の国王。それが……伯爵だと?」
膝から崩れ落ちる。
昨日まで王冠を夢見ていた男は、一日でその未来を失った。
その隣では、エレナも青ざめていた。
宰相は淡々と続ける。
「なお、アストレア伯爵家は近年の事業失敗により、多額の負債を抱えている。
領地も二年連続の不作で財政は逼迫。再建は容易ではない」
その報告に、アレクシスは愕然とした。
「……嘘だ。そんな話は聞いていない!」
エレナも震えながら父を見る。
伯爵は苦しそうに俯いていた。
娘を聖女に仕立て上げ、王家との縁を得ることで家を立て直そうとしていた。
だが、その目論見は崩れ去った。
王家の信用も失い、財政難だけが残ったのである。
華やかな未来を夢見ていた二人は、ようやく気付く。
自分たちが欲しかった「地位」も「栄光」も、すべて砂上の楼閣だったことに。
一方で、本物の聖女リリアは、大切な人とともに新たな国で穏やかな未来へ歩き始めていた。
運命の天秤は、静かに、しかし確実に逆転し始めていた。
最終話 もう私は、誰にも都合のいい聖女にはなりません
アルヴェイン王国へ移り住んでから、一か月。
リリアはラインハルトの姉・テレシアが嫁いだ侯爵家で穏やかな日々を送っていた。
朝は庭で花の手入れをし、
昼は近隣の村へ赴いて結界を張り、
夜は温かな食卓を囲む。
「リリアさん、焼きたてですよ」
テレシアが笑顔でパンを勧める。
「ありがとうございます」
その何気ない毎日が、リリアには何より幸せだった。
誰かに命令されることもない。
誰かと比べられることもない。
感謝の言葉が自然と飛び交う暮らし。
(こんな毎日があるなんて)
王都にいた頃には想像もできなかった。
そして――。
「リリア」
庭で薪を運ぶラインハルトが笑う。
鍛え抜かれた腕で軽々と薪を抱える姿に、リリアは思わず頬が緩む。
(やっぱり……今日も素敵)
その視線に気付いたラインハルトが首を傾げる。
「どうしました?」
「な、何でもありません!」
慌てて視線を逸らす。
筋肉を眺めていたことは、絶対に秘密である。
そんな穏やかな時間を過ごしていたある日。
侯爵家へ一人の青年が訪れた。
「失礼いたします」
深い紺色の外套をまとった青年は、静かに頭を下げる。
「ジョーラオ王国第二王子、ユリウスです」
リリアは驚いた。
「ユリウス殿下……」
応接室へ案内されると、ユリウスは席に着くなり深々と頭を下げた。
「まず、お詫びを申し上げます。
王家を代表し、あなたに謝罪いたします」
その姿に、リリアは目を見開く。
王族が、頭を下げている。
「兄だけでなく、父も、王家も、あなたの功績を理解できませんでした。
本当に申し訳ありませんでした」
静かな部屋に沈黙が流れる。
やがてユリウスは顔を上げた。
「お願いがあります。王国へ戻っていただけませんか。王都の結界は限界です。
多くの民が不安な日々を送っています」
リリアは静かに首を横へ振った。
「……申し訳ありません。私は追放されました。
もうあの国へ戻る理由はありません」
その返事にユリウスは目を伏せる。
「……そう、ですよね」
責める資格などない。
王家が自ら手放したのだから。
重苦しい空気が流れる。
リリアはユリウスの表情を見つめた。
兄とは違う。
この人は本気で民を案じている。
だからこそ、胸が痛んだ。
「困っている人を放っておけない」
聖女としてではなく、一人の人間としての気持ちが揺れる。
「どうしたら……」
リリアが悩んでいると、
「その話、少しよろしいかしら?」
優雅な声が響いた。
入ってきたのはラインハルトの姉、テレシアだった。
彼女は扇子を閉じ、にっこりと微笑む。
「とても簡単なお話ですわ」
ユリウスが首を傾げる。
「簡単……ですか?」
「ええ」
テレシアは微笑みながら言った。
「仕事として依頼すればよろしいのです」
「……仕事?」
「リリアさんは、もうジョーラオ王国の聖女ではありません。
ですから、無償で働く義理もございません」
応接室が静まり返る。
「国同士の正式な契約として、結界維持を依頼するのです。
報酬、安全の保証、滞在中の護衛。すべて契約書に明記いたします。
もちろん、断る自由も含めて」
ユリウスは目を見開いた。
「確かに……その通りです」
テレシアはにこりと笑う。
「交渉なら、わたくしにお任せくださいませ。
侯爵家として、しっかりとお話し合いをいたします」
ラインハルトも頷く。
「リリア。あなたが誰かのために力を貸したいと思うなら、私は止めません。
ですが、あなた自身が傷付くような条件なら、私は絶対に認めません」
その言葉に、リリアの胸は温かくなる。
以前の自分なら、何も言えず頷いていただろう。
でも、今は違う。
自分を大切にしてくれる人たちがいる。
そして、自分も自分を大切にできる。
リリアはゆっくりと微笑んだ。
「では、一つだけ条件があります。私はアルヴェイン王国で暮らします。
必要な時だけ祖国へ伺い、結界を張ります。それ以外は、ここで生活します」
ユリウスは深く頭を下げた。
「ありがとうございます。その条件を、王家は必ず受け入れます」
こうしてジョーラオ王国とアルヴェイン王国の間で正式な契約が結ばれた。
本物の聖女は、もはや誰かに命令される存在ではない。
一人の専門家として、正当な対価を受け取り、自らの意思で人々を救うことになったのである。
契約締結の日の夜。
庭には満天の星空が広がっていた。
ラインハルトは静かにリリアの前へ立つ。
「リリア」
「はい」
「これからも、あなたの隣で、あなたを守り続けたい」
そう言って差し出されたのは、小さな指輪だった。
「私と結婚してください」
リリアの瞳から、一筋の涙がこぼれる。
それは悲しみではない。
ようやく手に入れた、本当の幸せの涙だった。
「……はい。喜んで」
ラインハルトは優しく彼女を抱き寄せる。
逞しい腕に包まれながら、リリアは思わず小さく笑った。
「どうしました?」
「いえ……」
照れながら、そっと彼の腕に触れる。
「やっぱり、ラインハルト様の筋肉は世界一ですね」
一瞬きょとんとしたラインハルトは、声を上げて笑った。
「それは最高の褒め言葉として受け取っておきます」
二人の笑い声は、夜風に乗ってどこまでも響いていく。
婚約破棄から始まった物語は、失ったものを取り戻す物語ではなかった。
自分を大切にしてくれる人たちと出会い、自分の価値を自分で選び取る物語だった。
そして、本物の聖女は今日も、大好きな人の隣で、誰よりも幸せな笑顔を浮かべているのだった。
【完】
数ある作品の中からこの物語を見つけ、主人公たちと一緒に笑い、悩み、そして最後まで見届けてくださったことを、心から感謝しています。
また次の物語でお会いできる日を、心より楽しみにしております。
山田 バルス




