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光創

作者: Ono
掲載日:2026/06/12

 雨は死者の顔を洗うために降るものだとアステルは思っていた。

 灰色の空の下、黒く濡れた土はさらに血を吸ってぬかるみ、折れた槍の突き刺さる間から瘴気が立ちのぼる。戦場の匂いはいつも同じだ。鉄、泥、臓物、焦げた脂、そして助かる者と助からぬ者を隔てる時間の匂いだった。

 アステルは膝をつき、倒れた兵の胸に両手を翳す。手のひらから生まれた光が裂けた肉を縫い、砕けた骨に白い筋を這わせて繋ぐ。兵は喉の奥で息を詰まらせ、やがて苦悶の代わりに嗚咽を漏らした。

「無垢なる光よ、深き闇より命の灯火を継いでゆけ。天の御手よ、彼の者の傷を塞ぎ、肉体を新しき光で満たせ」

 神聖な祈りは、厳格な命令に似ていた。


 光属性の魔法による治癒術を「聖なる奇跡」と呼ぶ者もいる。だがアステルにとってそれはただ目の前の傷を閉じ、熱を鎮め、血を巡らせる技術。生命という壊れやすく変わりやすい器に、もう一度だけ継ぎ目を与える作業にすぎない。

「終わったか、アステル」

 背後からかけられた低い声に振り返ると、仲間の戦士ゲインが立っていた。全身を覆う黒鉄の甲冑には無数の剣筋の跡が走り、隙間から滲む血が足を伝い雨に流されていく。ゲインの大盾には矢が三本、折れたまま突き立っていた。


 ゲインはいつも傷だらけだった。誰よりも前に出て、誰よりも多くの刃を受け、仲間のために肉と骨を差し出す男。歩く防壁、死に損ない続ける英雄。兵たちは畏れと敬意を込めて彼を“閉ざされた墓門”と呼んだ。あの男の背後にいる限り自分たちは墓に入らずに済む、と。

「終わってないわ。あなたの傷をまだ癒してない」

「そうか」

 ゲインは笑みを浮かべた。愛想のよく見える表情。なのに目は少しも笑わない。


 少し離れたところで、焼け焦げた戦車の残骸に魔道士の男が腰かけている。アステルとは違って敵を攻撃するための魔法に長けた術師、イグニスだった。赤銅色の髪は雨を受けても消えない火種のように見え、その指先ではまだ燐火が踊っている。

 彼の魔法は純粋な破壊だ。炎槍、爆裂、灼熱の奔流。敵陣をまとめて消し炭にすることにかけて、イグニスの右に出る者はいない。

「今夜の敵はそこそこ手応えがあったな」

「何がそこそこだ、イグニス。お前が焼きすぎたせいで何人かが元の素性を判別不能になったと、記録官が嘆いてたぞ」

「判別不能にしたほうが弔いは楽だろ。ひとまとめに済む」

「お前……最悪の慰めだな」

 イグニスは肩を竦めて口笛を吹いた。


 三人は王国辺境の討伐隊に属している。相手は人ではない。古い地下祭殿から溢れ出してくる“夜の眷属(ナイト・ブルード)”――肉だけは人の形を保ちながら、中身はすでに闇に食われた存在。切れば黒い煙を噴き、噛まれれば生者の体温を奪い、幾たびも立ち上がってくる死者である。

 死体がナイト・ブルード化する原因は、公的には判明していない。ただ何が失敗だったのかは明白だった。王国が祭殿の封印を解いたことだ。そこに眠っているものを宝と見誤り、墓を開いて災厄を解き放った。

 その日から辺境はゆっくりと腐り始めた。まるで指先から力を失っていくように。


 +++


 野営地の夜は、激しい戦が繰り広げられる昼間よりも静かで残酷だ。辛うじて助かった者は痛みに呻き、助からなかった者は沈黙して寝そべっている。火魔法を保つ薪が爆ぜ、雨に濡れた布が風に鳴った。アステルは天幕の中で、鎧を脱ぐゲインと向き合っていた。

 彼の肉体は古傷の地図のようだった。肩口には大きな咬傷、脇腹には槍の貫通痕、胸骨の上には古い火傷。新しい傷がその上にいくつも重なっている。

「また増えてる。早く座って」

「命令口調が板についてきたな、アステル」

「従わないなら治さないわよ」

「はは、それは困る」

 ゲインが椅子に腰を下ろすと、アステルは布で血を拭い、光を呼んだ。治癒の魔法は優しそうな見た目に反して術者の精神を深く削る。傷の形を理解し、痛みの流れを追い、どこまでなら生命を繋げるかを見極める必要があるからだ。


 ただ光を当てれば治るわけではない。癒しとは、壊れ方を正確に知り、それを阻害することでもある。

 だからアステルは、傷を見るたびにどこかで安堵してしまう。

 ――ああ、この傷なら治せる。この出血量ならまだ間に合う。この痛みなら、私の光は届く。

 そう思うたび、胸の底に冷たいものが沈んでゆく。

 治癒術師は傷を憎む。しかし、傷がなければその力は無価値になる。誰も傷つかなければ治癒術師は必要とされない。

 それは果たして祈りなのか。それとも飢えなのか。


「……また顔色が悪いぞ」

 ゲインの声で、アステルは我に返った。

「平気よ」

「お前の平気は信用ならん」

「あなたの『まだ動ける』よりはマシ」

「まったく、減らず口を」

 光が彼の脇腹を塞いでゆく。裂けた筋肉が寄り、皮膚が薄く結ばれる。だがアステルは、完全には治さない。治しすぎた肉はかえって脆くなるのだ。痛みもあえて少し残す。それは生の証拠であり、限界を知らせる鐘でもある。新しい傷が痛まなくなれば、ゲインはまた無理をすると知っているから。


 ゲインは自分のほうが痛みに耐えているかのようなアステルの顔をじっと見ていた。

「なあ、訊きたいことがある」

「何?」

「お前は、俺が傷つくと嬉しいか」

 外で風が唸り、天幕が軋んだ。アステルの光が一瞬揺らいで傷口に影が差す。

「……どうしてそんなこと」

「ああ、すまん、言葉が足りなかった。お前はいつも、目の前の怪我人を助けられるかどうか苦しんでいる。だが俺の時は違う。俺の傷に向き合う時、お前は迷いのない顔をする」

「それは、あなたが頑丈だから。助けられない可能性なんてないからよ」

「ふぅん。それだけか?」


 アステルは答えられなかった。

 嬉しいわけがない。彼が傷つくたびに心臓を握り潰されるような気持ちになる。あるいはイグニスのように破壊魔法に長けていれば、ゲインを前線に出さずに済んだだろうと悔しく思うこともある。

 だが同時に、彼の血が自分を必要としていると感じる瞬間、言いようのない安堵があるのも事実だった。

 ――彼は生きて戻ってくる。そして私は彼の傷を癒す。

 その繰り返しの中でだけ、自分の存在が証明される。癒したいという願いは、そこに傷がなければ存在し得ない。

「……最低ね。あなたが無傷でいるならそれが何よりなのに、傷だらけで戻ってくることで、自分の居場所を感じているんだわ」

「べつにお前が俺を傷つけてるわけじゃない。俺が傷つくことを選んでいるわけでもない」

「でも願ってる。癒したいと思うのは、傷ついてほしいと同じよ」


 アステルは温厚だが、言い出したら頑固だ。始めに言葉を誤ったことを後悔しながらゲインは困ったように頭を搔いた。

「なら、俺も同罪だな。俺は守ることしかできん。前に出て、敵の攻撃を受けて、倒れずに戻ってくる。それで仲間が生きるなら、それでいいと思ってる。つまり俺は、お前に治させるための傷を集めていることになる」

「そんな詭弁……」

「俺たちは、生き延びるための役割を果たしているようで、その実、誰かの破損を前提にしか働けん。俺はお前の言うことを否定できないが、少なくとも俺とお前は同じようなもんだ、アステル」

 その言葉は、呪いのようにアステルの胸に残った。


 +++


 翌朝、討伐隊は祭殿最深部へ向かった。古い石段の下には王国の初代王家の紋章よりも古い文字が刻まれている。光を吸う黒い壁を水が滴り、どこからともなく呼吸音が響いてくる。祭殿はまるで巨大な生き物の腹の中にいるように思わせた。

 イグニスが暗がりに火球を投げる。爆ぜた炎に照らされて、柱の陰から無数のナイト・ブルードが現れた。人の輪郭を残しながら、空洞になったものたち。

「構え!」

 ゲインが盾を打ち鳴らす。次の瞬間、闇の群れが濁流のように押し寄せた。


 盾が悲鳴をあげ、爪が甲冑を削り、火が闇を焼き裂く。イグニスの炎槍が三体まとめて貫き、その背後でアステルは負傷者たちが倒れぬように光を送った。怪我人と死者が瞬きのたびに入れ替わる戦いだった。ひとりの治癒が成れば、その隣で別のひとりが喉を裂かれる。ひとつの命を繋いだ直後に別の命が滑り落ちる。

 どんなに力を尽くしてもすべては救えない。それが治療という行為の本質だった。

 光魔法は神の御業ではなく、むしろ限界を知るためにこそ人が編み出した技なのだ。


 祭壇の間へ至った時、彼らは巨大な繭を目の当たりにした。

 黒い根が血管となって石床に食い込み、脈動するたび、倒れた兵の死体から影が立ちのぼって繭へと吸い込まれてゆく。王国の学僧たちが刻んだ新しい術式が張り巡らされていた。永命を成すための改良術式。生の限界を超えるため、ここに封じられていた古き闇に、新しい門を与えてしまったのだ。

「馬鹿どもが……不死を欲しがって、死人製造機を作りやがった」

 イグニスが吐き捨てた言葉に応えるように、繭の前に大きな影が立ち上がる。人の姿をしているが、胸から上が裂け、内側に無数の顔が蠢いている。祭主だったものだ。王の勅命で封印解除を指揮した学僧長。その成れの果て。


 何十もの声を重ねながら、それが語る。

『なおしたかった』

『しなせたくなかった』

『ひかりはおそい』

『はじめから、こわれなければよい』

 アステルの背筋が凍る。それは治療の果てにある思想だった。傷を癒すのでは足りない、死ぬことそのものを消してしまえ。癒しと同質の願いが、生と死の境目を壊し、こんなものを生んだのだ。


「アステル、あれを止める術は」

 ゲインがそっと彼女の肩に手を置いた。その重たさで我に返る。

「繭の核を断てば、眷属は止まるはず。でも……核は生者の生命力で守られてる。外からの傷では壊せないわ。中へ届く強い光が必要」

「お前の光か。なら俺たちが時間を稼ぐ」

 無茶だと、正規軍を待てと言う間もなく戦いが始まった。


 ゲインは怪物の正面に立ち、盾ごと叩きつけられても決して退かない。骨の鳴る音が鎧の中で鈍く響いた。イグニスの炎が祭壇を赤く舐め、闇の触手を焼き払い、石の柱をも爆ぜさせる。だが怪物は倒れない。焼けた肉の隙間から新しい顔が生え、傷口に死者の影を流し込んでまた再生する。

 アステルは祈るように両手を組んだ。

 光よ。傷よ、開け。命よ、未だ離れるな。定命を成すための、新しき傷を。


 ゲインの左肩が裂け、膝が沈み、ついに大盾が真ん中から砕けた。怪物の爪が彼の胸甲を貫き、血が噴き上がる。倒れながらも怪物の腕を抱え込み、身体ごと祭壇に縫い止める。

「アステル!」

 癒しとは、壊れるしかない定命の生に、それでもなお明日を与えようとする、敗北前提の反抗なのだ。

 人は必ず死ぬ。傷はなくならない。救えぬ命は尽きない。それでも治す。失敗するからこそ、治療にも意味がある。完全に勝てないからこそ、その一度きりの成功が尊い。

 アステルの光が抑えようのない熱を帯びた。白銀の奔流が足許から噴き上がり、祭壇全体を覆ってゆく。光魔法の本質が“生命をあるべき形へ戻す”ことなら、死を生に見せかけた歪みもまた、正されるべき傷に他ならない。


「還れ」

 その一言で、光が繭を貫いた。

 祭壇に満ちていた影が悲鳴さえあげずに掻き消され、学僧長であった怪物は内側から裂けた。無数の顔が霧となってほどけると、黒い脈動は止まり、繭は崩れ落ちる。

 火と光の残滓の中で祭殿は長い悪夢から覚めるように静まり返った。

 だが、静寂の代価はそこにあった。ゲインが、動かなかった。


 +++


 祭殿を出た時、雨は止んでいた。

 空には夜明け前の薄い色が滲んでいる。討伐隊の生き残りは少なかった。イグニスは添え木と包帯で腕を吊り、煤だらけの顔で黙って歩く。今は冗談を言う気力もないらしい。

 アステルはゲインのそばに膝をついた。彼の胸の傷は深く、心臓まで届いている。どれだけ光を注いでも、器そのものがもう限界だと、アステルには嫌でも分かってしまう。

 治癒術は生命を繋ぐが、去ろうとする生命を引き戻すことはできない。定命を無視する術ではないのだった。


「……まだ、怒ってるか」

 ゲインが掠れた声で言い、アステルは彼の口許に耳を寄せた。

「ひどい言い方をした」

 アステルは首を振った。言葉も涙も出なかった。

「あなたは正しかったわ」

「お前は、傷を求めてなんかいない。お前が救ってきたものを、ちゃんと見ろ……」

 アステルは彼の手を握った。いつも剣を握っているせいで硬くなった、戦いでしか形作れない手のひら。

「私、あなたを治したい。……生きてほしいと思ってる」

「……知ってるさ」

 その言葉を最後に、ゲインの手から力が抜けた。


 +++


 一年後。

 辺境に小さな療養院が建った。石と木でできた質素な建物だ。戦えなくなった兵、呪いの後遺症に苦しむ者、冬を越えられない孤児や老人がそこに運ばれてくる。戦場での仕事は減り、アステルはそこで治療を続けていた。

 火傷の痕を和らげてやり、折れた脚を繋いでやり、時には最期の痛みを鎮める。治らないと分かっている者の手を握り、ただ「大丈夫」と微笑みかける。

 定命の終わりをなるべく人間らしいものにすることもまた、治癒術だった。


 ある夕暮れにイグニスが療養院を訪ねてきた。相変わらず派手な外套を纏い、人生に傷の一つもないかのような自信に満ちた顔をしている。

「よ。景気はどうだ、光の聖女」

「その呼び方、やめてよ」

「じゃあ“墓門の未亡人”ちゃん」

「神聖で燃やすわよ、あなたならきっと効くわ」

 彼は笑って、焼き菓子の包みを投げて寄越した。ぶっきらぼうな手土産だった。


「討伐状況はどう?」

「まだ続いてる。でかい失敗の後始末は長いもんだ」

「そう……」

 窓の外では子供たちが夕陽を浴びながら走っている。足許を見なかったせいで転び、大声で泣いて、友達に呼ばれてすぐに起き上がる。

 アステルはその姿を見つめながら胸を押さえた。

「私、完璧に治せないことが恐ろしかった。今も怖い。でも、それでいいのかしら。人は治ってもまた傷つく。成功しても失敗の種は残る。救っても、いつか死ぬ。たぶん生きるって、そういうことなんだと思う」

「身も蓋もないねえ」

「そうね」

 アステルは自分の手のひらを見た。剣を握らないやわらかな手。常に癒しの光を宿す治癒術師の手のひらは、あまりにも滑らかだ。


 治癒術師は、そこに傷のあることを前提として存在する。だが、傷を負ってもなお誰かが明日へ進めること。そして明日がこない者にも、終わりまで人の熱で温めること。それが彼女の役割だった。

 光は死を打ち消さず、定命を覆しもしないけれど。それでも闇の中で、人が人であるための輪郭を照らすことはできる。

 夕陽が差し込み、部屋の床に長い影を落とした。その影は巨大な盾を背負った男の形を成したように見えた。彼を知るすべての者の中に、彼の存在は残っている。

 傷は癒えても痛みが残る。人は死んでも生きたことはなくならない。

 だからアステルは、次の患者の名を呼んだ。終わりのある命に、せめてもう一日、新しい光を渡すために。

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