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妹に王太子との婚約を奪われましたが、『王妃教育』から解放されたので感謝しかありません!

作者: ヨルノソラ
掲載日:2026/05/02

 朝四時。まだ空が暗いうちに叩き起こされ、冷水で顔を洗う。


 これが、リリアン・フォン・エーデルシュタインの一日の始まりだった。


 公爵家の長女にして、王太子アーサーの婚約者。すなわち、次期王妃候補。その肩書きがどれほどの重さを持つか、リリアンは十二の頃から身をもって知っていた。


 午前中は六カ国語の読み書きと外交文書の読解。少しでも文法を間違えれば、教育係のグレタに額を弾かれる。午後は歴史と法律の暗記。夕方からはダンスと楽器の練習。食事は教育係が定めた量しか許されず、甘味は論外。体型管理のためにコルセットで肋骨を締め上げられ、少しでも姿勢が崩れれば背中を定規で叩かれた。


 そしてリリアンの一日は、自分の教育だけでは終わらない。


 夜には——これが一番厄介なのだが——翌日のアーサーの予定の管理が待っていた。


 王太子とはいえ、アーサーは十八歳になったばかりだ。国政に直接携わる年齢ではない。だが王太子には王太子の義務がある。家庭教師の講義、茶会や晩餐会への出席、社交の場で貴族たちへの挨拶、来客への返礼状——若き王太子が「将来の国王」として信頼を積み上げていくために、こなすべきことは山のようにあった。


 そしてアーサーには、悪い意味での自信があった。自分は優秀だと疑わない。実際、剣術の腕は立つし、人前での弁も上手い。だが、それ以外が壊滅的だった。家庭教師との講義の日程を忘れる。茶会で会う貴族の名前と家系を予習しない。来客への返礼状を放置する。社交の場でうっかり失言をしても気にも留めない。


 それを全て、リリアンが裏で処理していた。


 明日の講義の範囲を事前にまとめ、家庭教師に「殿下は既にこの箇所まで予習済みですので」と根回しをしておく。茶会に出席する貴族の名前と続柄を一覧にして、アーサーの机にそっと置いておく。出し忘れの返礼状を代筆し、アーサーのサインだけ貰って発送する。社交の場でアーサーが失言すれば、翌日のうちに相手方の令嬢や側近に「殿下はああ仰いましたが、真意はこうでして」と火消しに回る。


 アーサーはそのことを知らない。知らないから、講義がいつも円滑に進み、茶会で貴族から好意的に扱われ、返礼状の遅延で問題が起きたことがないと、「やはり俺がしっかりしているからだな」と満足げに頷く。


 リリアンはそれを見ても何も言わなかった。王妃とは裏方の仕事だと教えられていたし、表に出て恩を着せるのは品のないことだと思っていた。


 ただ、せめて……。


 せめて「ありがとう」の一言くらいは、あってもいいのではないか。


 そう思うたびに、ふと浮かぶ記憶があった。


 ——リリアンは頑張りすぎるからな。ちゃんと休まないとダメだぞ


 三つ年上の幼馴染の声。ラクシュレイン辺境伯家の嫡男、シュバルト。公爵家と辺境伯家は先代同士が学友で、子どもの頃は夏になると互いの領地を行き来していた。


 シュバルトは子どもの頃から妙に大人びた人だった。三つ年上で、いつも落ち着いていて、何でもそつなくこなすのに偉そうなところが全くない。


 リリアンにとってシュバルトは憧れだった。何に対しても力まず、自然体で、でもやるべきことはきちんとやる。いつしかその「憧れ」が別の感情に変わっていたことに気づいたのは、王太子との婚約が決まった後だった。


 十二歳で婚約してからは、夏の行き来はなくなった。シュバルトとは社交の場で年に一、二度顔を合わせる程度になり、会えば「元気か」「まあ」くらいの短いやり取りをするだけだ。シュバルトはいつも変わらない。穏やかに笑って、少し話して、じゃあなと去っていく。


 リリアンはかぶりを振った。


 今さら考えても仕方のないことだ。次期王妃としてもっと成長しなくては……。



 §



 その日も、リリアンはアーサーの居室に書類を届けに来ていた。


「殿下、明後日の茶会の出席者名簿をお持ちしました。今回はリヒルテン伯爵家とサンベルガー子爵家がいらっしゃいます。リヒテン伯爵は先日ご子息の婚約が決まったばかりですので、その話題に触れていただけると——」


「ああ」


 アーサーはちらりと名簿に目を落とし、無造作に机の端に置いた。視線はすぐに窓の外へ戻る。


「殿下、お目通しいただけますか。リヒテン伯爵は先代の頃から王家に忠実な家柄ですので、ここで好印象を——」


「分かった分かった。後で見る」


 後で見る。この言葉を何百回聞いただろう。そして「後で」が来たことは一度もない。

 当日になってアーサーは何の準備もなく茶会に臨み、リリアンが事前に根回ししておいた好意的な空気のおかげでかろうじて何とかなるのだ。その上、アーサーは「やはり俺は人に好かれる質なんだな」と思い、リリアンの存在には気づかない。


 それでもリリアンは引き下がれなかった。今回の茶会は特に重要だった。


「恐れながら殿下、リヒルテン伯爵家は——」


「しつこいぞ、リリアン」


 アーサーが振り返った。その目に、明確な苛立ちがあった。


「お前はいつもそうだ。誰それの家柄だの、何を言えだの、口を開けば小言ばかり。少しは俺を信用したらどうなんだ」


 信用の問題ではない。だがそれを言えば「理屈っぽい」と一蹴される。


「……失礼いたしました。では、名簿はこちらに置いておきます」


 リリアンが一礼して踵を返しかけた時、廊下から甘い声が響いた。


「殿下ぁ〜、今ってお忙しいですかぁ?」


 マリエラ・フォン・エーデルシュタイン。リリアンの妹だった。


 リリアンが十二歳で『次期王妃』に内定し、別棟の教育室に軟禁されて血の滲むような日々を送っている間、次女のマリエラは陽の当たる本邸で両親からたっぷりと甘やかされて育った。

 彼女が知る王宮とは、着飾って美味しいお茶とお菓子を楽しむ華やかな社交の場だけだ。姉が隈を作って勉強しているのも、ただ本人が生真面目で小難しい性格だからだと本気で信じ込んでいる。


「おお、マリエラか。どうした」


 マリエラは花柄のドレスをひらひら揺らしながら、焼き菓子の箱を胸元に掲げる。


「えへへ、殿下がお疲れかなぁって思って、差し入れをお持ちしました! 城下で評判のお菓子なんですよ♡」


「そうか。ありがとう、マリエラは気が利くな」


 アーサーの顔がぱっと輝く。マリエラは嬉しそうに笑って箱を開けた。


「殿下は頑張り屋さんだから、たまには甘いもので息抜きしないとダメですよ?」


「はは、そうだな。リリアンは甘いもの一つ持ってきたことがないぞ」


 ——甘いものは王妃教育で禁止されているのですが。


「もう、お姉様は真面目すぎるんですよぉ」


 マリエラがちらりとリリアンを見た。同情するような、勝ち誇った目。


「殿下だって、いつもいつも小難しいお話ばかりじゃ息が詰まっちゃいますよね? 私だったら、殿下がお疲れの時にそんなお話なんてしませんのに。もっとゆっくりしていただきたいもの」


 ——はあ。


 リリアンは内心でため息を吐く。

 マリエラの手口はいつもこうだった。直接貶すのではなく「私ならもっと上手くやる」という形で暗にリリアンを否定し、自分がいかに「癒し」であるかを印象づける。


「マリエラは本当に優しいな。お前がいると癒される」


「えへへ、殿下にそう言っていただけると嬉しいですぅ!」


 マリエラがアーサーの袖口にそっと触れた。婚約者であるリリアンの目の前で。


 リリアンは何も言わず、完璧な笑顔の仮面を被って退室した。


 


 こういったことはこれまでも沢山あった。


 リリアンが徹夜で準備した晩餐会のテーブルセッティングに、マリエラが「お花が足りないかも〜」と勝手に花を追加する。褒められればマリエラの手柄。リリアンの仕事には誰も触れない。


 アーサーの部屋に翌日の講義の予習資料を届ければ「またか」と呆れた顔をされ、直後にマリエラが「殿下、温かいお茶をお持ちしました」と顔を出せば、アーサーは笑顔でマリエラを迎え入れる。


 そしてある日、リリアンは廊下で立ち止まった。

 角の向こうからマリエラが侍女と話している声が聞こえたのだ。


「お姉様ってば、あんなに必死にお勉強して、ペンだこ作って、隈だらけで見窄らしいわよね。殿下があんな地味な女に好意を持つわけないのに。それに感謝の一言もないのよ? 私が息抜きとして殿下を癒してあげてるのに」


 リリアンは音を立てずに踵を返した。怒りよりも深い疲労が、限界に近づいていた。



 §



 その日は朝からどこか空気が違った。アーサーから応接室への呼び出し。通された部屋には、アーサーとマリエラが並んで立っていた。


「リリアン、単刀直入に言う。お前との婚約を破棄する。私はマリエラを次の王太子妃に迎えることにした」


 マリエラが扇子で口元を押さえた。

 目元こそ申し訳なさそうだが、口元は三日月を描いているに違いない。


「……王家とエーデルシュタイン公爵家との盟約は、いかがされるおつもりですか」


 静かに問うと、アーサーは勝ち誇ったように言い放った。


「お前の父には既に話をつけてある。王家への忠誠はマリエラを差し出すことで果たすと、公爵の了承も得た」


「……私ではなく、マリエラを選ぶ理由をお聞きしてもよろしいですか」


「はあ、言わないとわからないのか。お前はいつもしかめっ面で、小難しいことばかり言う。だから駄目なんだ。王太子妃には華やかさと——癒しが必要だからな」


「お姉様、ごめんなさい。殿下のことは、私が幸せにしますわ!」


 六年間の努力を「息が詰まる」の一言で全否定された。


 だがリリアンの腹の底に湧いたのは怒りではなかった。歓喜だ。


 ——終わった。この地獄が、ようやく終わる。


 ──ありがとう、マリエラ。初めて、貴方が妹でよかったと思えたわ。


 リリアンは完璧な角度で一礼した。


「承知いたしました。お二人とも、どうか——お幸せに」



 §



 実家に戻ったリリアンを待っていたのは、気まずい空気だった。マリエラが王宮に上がる準備を進めるたびに家中がそちらに意識を向け、婚約破棄された長女は「触れにくい話題」になりつつある。


 屋敷から出た方が居心地がいい。だが行く宛てもない。


 そんな折、一通の手紙が届いた。封蝋はラクシュレイン辺境伯家の紋章。見覚えのある、少し大きめの端正な筆跡。


 リリアンの手が、ほんの少しだけ震えた。


『リリアンへ


 事情は聞いている。色々あっただろうが、体は大丈夫か。


 北方はそろそろ紅葉の季節で、うちの領地は静かなものだ。都会の空気に疲れたなら、しばらく来るといい。客間を一つ空けさせておく。


 長い休暇だと思えばいい。


 シュバルト』


 短い手紙だった。


 ——シュバルトらしい。


 本当はもう少し特別な一言が欲しいとも思った。でもそれを求めるのは勝手な願望だ。シュバルトは幼馴染として常識的な気遣いをしてくれているだけで、それ以上を期待してはいけない。


 翌日、リリアンは父に辺境伯領での保養を申し出た。話はすぐにまとまった。




 馬車に揺られて半日。


 ラクシュレイン辺境伯領は、記憶の通りに静かだった。深い森、色づき始めた木々、土と草の匂い。


 辺境伯邸の門前に、シュバルトが立っていた。二十一歳。背が高く、少し日に焼けていて、領主らしい落ち着きが全身に馴染んでいる。


「よく来たな。長旅だっただろう」


 穏やかな声だった。わざわざ歓迎を演出するようなところがない。ただ「来たか」という顔をしている。


「……お世話になります、シュバルト様」


「堅いな。昔みたいに呼び捨てでいい」


「そんな、辺境伯閣下に対して——」


「リリアン」


 名前だけを静かに呼ばれた。


「ここは王都じゃない。肩書きはいらない」


 そう言ってリリアンの鞄を持ち上げ、先に立って館の中へ歩いていく。


 ——ずるい。そういう自然さが、ずるいと思う。


 こちらがどれだけ距離を取ろうとしても、シュバルトの方があっさり踏み越えてくる。でもそれは特別な意味があってのことではなく、単にシュバルトが「そういう人」だからだ。


 そう自分に言い聞かせて、リリアンはシュバルトの後を追った。


 客間に通され、食堂に下りると、テーブルに焼き菓子が並んでいた。多すぎず少なすぎず、一人分の皿に綺麗に盛り付けてある。


「領地で評判の菓子屋があってな。口に合うか分からないが」


 リリアンは一つ手に取って口に入れた。バターの香り、甘くて柔らかい味が広がって——。


 六年間、禁じられていた味だった。


「……美味しい」


 声が掠れた。三つ目を口に運ぶ頃には、涙がぽたぽたとテーブルに落ちていた。


「——ごめんなさい。これは、ほんと、違うの……」


「謝らなくていい」


 シュバルトの声は淡々としていた。


「六年間我慢してたんだろう。泣きたいなら泣けばいい。ここには教育係もいないし、誰もお前を叱らない」


 その言葉で、抑えていたものが決壊した。リリアンは静かに泣いた。声は上げなかった。ただ涙が止まらなかった。


 シュバルトは何も言わなかった。ただリリアンのカップに温かい紅茶を注ぎ足して、自分は窓の外を見ていた。泣いている姿を必要以上に見ない。でも席を外しもしない。


 泣き終わった頃には紅茶はちょうどいい温度になっていて、菓子の皿にはいつの間にか新しい一切れが追加されていた。


「……ありがとう」


「どういたしまして。しばらくここでゆっくりしたらいい」


 その夜、リリアンはベッドに倒れ込み、丸二日間眠り続けた。目覚めた時、枕元にスープの盆が置いてあった。まだ温かい。横に短いメモ。


『起きたらこれを飲むこと。冷めていたら厨房まで。』


 命令口調のメモ書きに、リリアンは少しだけ笑った。優しさを言葉ではなく行動で示す人だった。


 ——それが私にだけ特別だったら、どんなにいいだろう。


 でもきっと、シュバルトは誰に対してもこうなのだ。そう思って、また蓋をした。


 §


 それからの日々は穏やかなものだった。


 朝は好きな時間に起き、庭を散歩し、好きなものを食べ、午後は図書室で本を読む。シュバルトは自分の仕事があるから付きっきりではない。ただ昼食は大抵一緒だったし、夕方には「散歩でもするか」と声をかけてくれた。


 ある午後、図書室でシュバルトの領地の農業報告書をめくっていたリリアンは、灌漑計画の不備に気づいた。


「ここ、水路の分岐がおかしいよ。このままだと南側の畑に水が回らない」


 シュバルトは報告書を覗き込み、「本当だ」と呟いてすぐに修正を書き込んだ。


「あ、本当だ。よく気づいたな。ありがとう」


「うん……」

 

 ポンと頭に手を置かれ、リリアンは熱くなった顔を隠すように俯いた。


 ——シュバルトはやっぱりアーサーとは違う。私の指摘をちゃんと聞いてくれるし、優しい言葉をかけてくれる。すごく、居心地がいい。


 だからこそ、この環境に甘えすぎてはいけないとも思った。ここは保養先であって、リリアンの居場所ではない。いつかは出ていかなければならない。


 それを寂しいと思ってしまうのは、傲慢というものだ。



 †



 リリアンが辺境で穏やかな日々を過ごしている頃、王宮では全く別の光景が広がっていた。


 王太子妃候補として王宮に上がったマリエラを待っていたのは、リリアンが六年間受けてきたのと同じスパルタ教育だった。しかもリリアンが十二歳から段階的に叩き込まれたカリキュラムを、十六歳のマリエラは一気に課されたのだ。


「マリエラ! なぜ近隣五カ国の王族の名前すら暗記できないのですか! 貴方の姉は二時間で覚えましたよ!」


 教育係グレタの怒号。朝四時起床。甘味禁止。午前は礼法、午後は語学と暗記、夕方はダンス。


「無理です! こんなの無理ですぅ!」


 マリエラは泣き叫んだが、誰も助けない。王妃は冷たく言い放った。


「嫌なら出ていきなさい。王太子妃の座を望んだのはあなた自身でしょう」


 アーサーもまた地獄にいた。


 リリアンがいなくなった翌週から、全てが狂い始めた。


 まず、家庭教師の講義が回らなくなった。これまでは講義の前日までにリリアンが範囲をまとめ、家庭教師に事前の調整をしてくれていたのだ。アーサーが予習をしていないことは家庭教師も薄々気づいていたが、リリアンの根回しのおかげで「殿下はご多忙ですので」と穏便に済んでいた。それがなくなった途端、家庭教師から王妃へ「殿下は講義に全くついてきていません」と直訴が入った。


 次に、社交が崩壊した。リリアンが毎回作成していた「出席者の名前・家柄・最近の慶弔事」の一覧表がなくなり、アーサーは茶会でリヒルテン伯爵の名前を間違え、先日息子の婚約が決まったばかりのベルガー子爵に「ご子息はまだ独身でしたか」と聞いてしまった。


 そして、溜まりに溜まっていた返礼状の未送付が発覚した。リリアンが代筆して処理していた数十通の礼状が、三カ月間一通も出ていなかったのだ。「王太子は礼儀を知らない」という噂が、貴族たちの間で静かに広がり始めた。


「なぜ誰もやっていないんだ!」


 アーサーが怒鳴ると、側近が静かに答えた。


「殿下。申し上げにくいのですが全てリリアン様のお膳立てによるものでございます」


「は?」


「講義の事前調整も、茶会の予習資料も、返礼状の作成も、社交での火消しも——全てリリアン様がお一人で処理されていました」


 アーサーは口をパクパクさせることしかできなかった。


 §


 三カ月が経った。


 王宮では、他国の王族を招く秋の大茶会が迫っていた。若き王太子と次期王太子妃が主催する、外交的に極めて重要な行事だ。出席者の名前と格式を完璧に把握し、それぞれにふさわしい話題を準備し、席次から料理の配膳順序まで一つの隙もなく整えなければならない。


 本来であれば、それはリリアンが最も得意とする仕事だった。


 だがリリアンはいない。そしてマリエラにはもう何も残っていなかった。


 ストレスで肌は荒れ果て、隈は深く、金髪は艶を失い抜け始めていた。アーサーも頬はこけ、目は血走り、自信に満ちた笑みは消え去っている。


 ある夜、二人の怒号が爆発した。


「マリエラ! なぜお前はリリアンのように一つもまともにこなせないんだ!」


「殿下が私を選んだんじゃないですか! 私こそ、王妃になるのがこんな大変だなんて聞いてない!」


「ええい、黙れ! お前は『殿下を幸せにする』って言ってただろうが!」


「それはそうですけど。元はと言えば、リリアンお姉様のせいです! 私にこんな仕事を押し付けて逃げるなんて!」


 押し付けたのではない。自ら奪ったのだ。だが当の二人にその自覚はなかった。


 責任をなすりつけ合った末に、二人は同じ結論に辿り着いた。


「──リリアンを連れ戻して、裏の仕事を全部やらせよう」


 翌朝、ボロボロの姿のまま辺境伯領へ馬車を走らせた。



 †



 辺境伯邸の庭園。秋の午後。


 リリアンはテーブルでお茶を飲んでいた。シュバルトは向かいの椅子で領地の書類に目を通している。静かな午後だった。


 その静けさを、怒鳴り声が破った。


「リリアン!」


 アーサーが庭園に踏み込んできた。マリエラがその後ろからよろめいてくる。


 リリアンが立ち上がるより先に、シュバルトが書類を閉じて顔を上げた。穏やかな目がすっと冷えた。


「王太子殿下。事前のご連絡をいただいていないようですが」


「辺境伯、これは——」


「私邸への訪問には事前の通達が必要。王族であってもそれは同じです。まずはそこからお願いできますか」


 穏やかな口調だったが、一切の譲歩がなかった。


「用があるのは辺境伯ではない。リリアンだ!」


 アーサーはシュバルトを押しのけるようにリリアンに詰め寄った。


「リリアン。許してやるから王宮に戻れ。マリエラの教育補佐と、俺の身の回りの段取りを全部やれ」


「そうよお姉様!」と、マリエラが割り込んだ。


「私が表に出るから、お姉様は裏でしんどいお仕事を全部やって!」


 リリアンは二人を見つめた。三カ月前、薄ら笑いを浮かべて六年間を「息が詰まる」と切り捨てた二人が、ボロボロの姿で「戻れ」と命じている。


「お断りいたします」


「ふ、ふざけるな! これは王命だぞ!」


「婚約はご自身が破棄されました。私にはもう従う義務がありません」


 リリアンはアーサーの目を見た。


「それにマリエラ。あなたが今被っている辛さは、私が六年間毎日受けていたものと同じです。あなたはまだ三カ月。私の半分も経験していません」


 リリアンは最後に一礼した。完璧な王妃の所作で、深く、優美に。


「殿下、マリエラ。どうかお二人の持ち前の『愛』と『癒し』で乗り越えてくださいませ」


 リリアンが言い終えた瞬間、シュバルトが立ち上がった。


「殿下。お話は済んだようですので、お引き取りを。門まで使用人にご案内させます」


 それだけだった。声を荒げることも、威圧することもない。ただ「終わりです」と穏やかに告げる。


 反論の余地がなかった。


 §


 二人が馬車で去った後、庭園に静けさが戻った。


 リリアンは椅子に座り直し、長い息を吐いた。手が微かに震えている。


 シュバルトはリリアンの前に紅茶のカップを置いた。いつの間にか淹れ直してある。


「……ありがとう」


「冷めてたからな」


 シュバルトは自分の椅子に戻り、書類を開いた。「大丈夫か」とも「よく言った」とも言わない。何事もなかったかのように日常に戻る。


 ——この人は、いつもそうだ。


 リリアンは紅茶を一口飲んだ。温かかった。


 §


 数日後の夕食の後、暖炉の前で二人で座っていた時に、シュバルトが不意に口を開いた。


「リリアン。一つ聞いていいか」


「何?」


「お前、これからどうするつもりだ」


 リリアンは黙った。実家には戻りにくい。かといって、いつまでもシュバルトの世話になるわけにもいかない。


「……まだ決めてない。あ、でも迷惑をかけているのは分かっているからそろそろ出ていくべきだとは——」


「出ていく必要はない」


 シュバルトの声は静かだった。暖炉の火を見つめたまま、いつもと変わらない淡々とした口調で続ける。


「決まってないなら俺のところにいればいい。ここにはお前の力を借りたい仕事がいくらでもある。灌漑の件だってそうだ。書記官より目がいい人間を手放す理由がない」


 ——仕事の話をしている。


 リリアンは自分にそう言い聞かせた。シュバルトは合理的な人だ。リリアンの能力を評価して、領地経営の戦力として残ってほしいと言っている。それ以上の意味はない。


「……でも、私がここにいたら、変な噂が立つよ。独身の辺境伯の屋敷に、婚約破棄された公爵令嬢が居座っているなんて」


「なら、婚約するか」


 リリアンの思考が、一瞬止まった。


「……は?」


「噂が問題なら、正式な形にすれば済む話。違うか?」


 シュバルトは暖炉の火を見つめたまま言った。


「リリアン、俺と婚約しないか」


 リリアンは言葉を失った。


「……シュバルトは、そういうことを、そんな簡単に言うんだ」


「簡単じゃない」


 声の温度が、少しだけ変わった。


 リリアンが顔を上げると、シュバルトはまだ暖炉の火を見ていた。横顔はいつもと同じ、穏やかな表情。でも——膝の上に置かれたその手が、わずかに握り締められていた。


 リリアンは、その手を見つめた。


「お前が王太子の婚約者だった六年間、俺はずっと黙っていた。それが正しいと思ったからだ。だが、もう黙っている理由がなくなった」


 シュバルトが初めて、リリアンの方を向いた。


 穏やかな目だった。いつもと同じ、落ち着いた碧の瞳。でもその奥に、リリアンが今まで一度も見たことのない光があった。


「リリアン。俺はお前のそばにいたい。——そしてお前の隣にいるのは俺がいい」


 暖炉の薪が爆ぜる音がした。それ以外は、何も聞こえなかった。


 リリアンの目から、涙がこぼれ落ちた。


 六年間蓋をしてきた感情が——「きっとただの幼馴染」「きっとただ優しいだけ」と何度も押し込めてきた気持ちが——溢れて止まらなかった。


「……ずるい」


「何が」


「六年間も黙ってたくせに、今になって……」


「悪かったな。不器用なんだ」


「知ってる、そんなこと。……ずっと、知ってた」


 リリアンは涙を拭って、震える声で言った。


「私も。私もずっと、シュバルトのことが——……えっと、その、末長くよろしく、お願いします」


 シュバルトは少しだけ目を閉じて、それからいつもの穏やかな声で言った。


「——ありがとう」


 その「ありがとう」は、リリアンが六年間ずっと求めていた言葉だった。


 

 †



 秋の大茶会は惨憺たる結果に終わった。


 マリエラは他国の王妃に対して誤った敬称を使い、来賓の慶弔事にも全く対応できなかった。アーサーは来賓の貴族の名前を間違え、席次の配置を丸ごと取り違え、隣国の王太子に対して格下の扱いをしてしまった。


 調査の過程で、アーサーがこれまで「自力で」こなしてきた社交や学業の大半が、元婚約者リリアンの裏方仕事によるものだったことが公に明らかになった。


 王は沈痛な面持ちで宣言した。


「王太子位はラグラスに移す」


 アーサーの王太子としての地位は、次男に譲られることになった。

 

 †



 翌年の春。ラクシュレイン辺境伯領の小さな教会で、結婚式が行われた。


 花嫁は純白のドレスに身を包み、穏やかに微笑んでいた。隈のない、血色の良い、幸せそうな顔。


 祭壇の前で、シュバルトがリリアンを見つめていた。言葉はなかった。ただ、あの穏やかな目の奥に、六年分の想いが静かに灯っていた。


 リリアンはその目を見て、ようやく分かった。


 この人は昔からずっと、こうやって見ていてくれたのだ。何も言わず、何も求めず、ただ静かに。


「シュバルト」


「うん」


「幸せにしてね、なんて野暮なことは言わない。一緒に幸せになろ?」


 シュバルトはほんの少しだけ笑った。


「ああ。よろしく」


 鐘が鳴った。花びらが舞った。


 派手な誓いの言葉はなかった。でもそれで十分だった。

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― 新着の感想 ―
王家の文官は何をしてるんだ? まだ王族でもない人間がする仕事じゃないやろ 王子のスケジュール管理もお茶会の出席の顔ぶれも、席順も よほど貧乏な国で文官がいないのか この手の物語を読むと毎回思うん…
凄い野暮だとは思うんですが、一年後に結婚したならそこにあるのは七年間の愛情なのではないんでしょうか…?新規一年は加算しないの…? それにしても王妃教育スパルタすぎるのでは。貴族の一覧と席次くらいは部下…
リリアンが居なくなった翌週時点で3ヶ月分の御礼状が出てない。 って婚約の姉妹入れ替えでそんなに時間が経っていたんだろうか。 それと馬車で半日で着く辺境伯領って、江戸から見た佐倉藩の千葉郡の辺りの話な…
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