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バンコクの蜘蛛男  センサク・ムアンスリン

作者: 滝 城太郎

あのガッツ石松を軽くKOした頃のセンサクは底知れぬ強さだったが、個人的にはガッツと同じくらい大好きなボクサーだった。東洋人初の世界ライト級チャンピオンにして、海外のボクサーからも人気があったガッツ石松は、いまだに日本では彼をしのぐライト級ボクサーが現れていないことからも明らかなように、中量級では一級品のボクサーファイターだった。減量苦とはいえ、そのガッツを子ども扱いである。もし、現在のように総合格闘技が盛んだったら、国際式、ムエタイ、総合格闘技の全てを制してしまい、この業界をつまらなくしたかもしれない。


 ハンマーパンチの藤猛と打ち合っても負けないと笹崎会長が豪語したライオン古山を、壮絶などつき合いの末にストップした時の迫力も凄かったが、一九七七年四月二日、前WBC世界ライト級チャンピオン、ガッツ石松をボディブロー一発で悶絶させた時のセンサクのパンチ力は、それこそ鳥肌ものだった。

 減量苦で王座から追われた石松が一階級上のJ・ウエルター級で世界に再挑戦したこの一戦は、人をおちょくったようなセンサクの態度に、いつもはひょうきんで陽気なキャラの石松が珍しくエキサイトし、試合前のセレモニーからセンサクにつかみかかろうとするシーンも見られた。

 会場のファンは、どんぐりまなこの悪戯坊主のような風貌のセンサクを、口髭をたたえた街のアンチャン風の石松兄イがお仕置きしてくれることを期待したが、階級を上げても減量が苦しい石松にはいつもの迫力がなく、第六ラウンド、まるで脇腹にドスを突き立てたかのようなセンサクの鋭いボディアッパーにのたうちまわりながらカウントアウト。打たれ強い石松がこうもあっさりKOされるとは会場のファンも信じられなかっただろう。派手な打ち合いを期待したファンにとってはまことに呆気ない幕切れだった。

 それでも、性格的に合うところがあったのだろう。この試合の後、石松とセンサクは仲良くなり、センサクの晩年に某番組の企画で再会した時も、まるでかつての親友同士が久しぶりに会ったかのように二人とも実に嬉しそうな表情をしていたのが印象的だった。


 センサク・ムアンスリンこと本名ブンソン・マンシリはタイ北部のベチャブーン県に七人兄弟の五男坊として生まれた。父親が学校長という教育家庭だったため、腕白なセンサクは両親の目を盗んでは草ボクシングに精を出していたが、やがてそのことを知った父親から「どうせやるなら徹底的にやれ」と励まされ、十八歳でムエタイ選手になった。

 下肢が長くリーチもあるセンサクはムエタイ向きの体型である。しかし、キックよりパンチに頼る傾向が強く、デビュー当初はあまりぱっとした成績は残していない。

 やがて格闘技のセンスに磨きがかかると、サウスポーからの射程距離の長い左ストレートを武器に次第に頭角を現し、ルンピニー系J.ウエルター級の王座に就いた。

 ムエタイでスターになったセンサクは、一九七三年十一月、キックブーム真っ只中の日本のリングに登場すると、後の全日本ライト級チャンピオン玉城良光を膝蹴りによる内臓破裂でKOし、日本のキック界を震撼させた。引退までに九十戦以上という玉城のキャリアの中でKO負けはこのセンサク戦だけということからもわかるように、センサクのパワーはムエタイでも群を抜いており、やがて対戦相手にも事欠くようになった。


 物価の安いタイであれば、ムエタイでチャンピオンになれば相当豪勢な暮らしが出来る。人気の度合いにもよるが、タイトルマッチでのチャンピオンの報酬が当時の日本円で五十万~二百万円というところだから、最低でも一試合でタイの公務員の年収程度にはなる。

 対する国際式はというと、タイではムエタイほど人気がなく、概して報酬は安い。ただし世界チャンピオンとなるとさすがに別格で、タイ人初の世界チャンピオン、ポーン・キングピッチのように頻繁に海外でタイトルマッチを行えば、軽量級でも一千万円は堅い。

 「豪邸に住んで、美人の妻を娶り、海外旅行に行きたい」と常々公言していたセンサクは、対戦相手枯れを機に国際式で一攫千金を狙うことにした。もっとも、ムエタイの強豪選手だからといって、キックを封印された国際式で通用するかどうかはわからない。

 元WBAフライ級チャンピオン、ベルクレック・チャルバンチャイはムエタイで二階級制覇という金看板を背負って国際式に転向したが、パンチがないため試合が地味で人気がなく、一度もタイトルを防衛出来なかったこともあって、ムエタイ時代の方が稼ぎは良かったという。

 センサクより後の時代になるが、十九歳の若さでムエタイ四階級を制覇し、「ムエタイの芸術」とまで称されたスーパースター、サーマート・パヤクァルンですら、国際式ではJ・フェザー級タイトル(WBC)を一度防衛しただけのB級王者どまりだったように、キックと肘打ち、投げ技を封印されてしまうと、ムエタイ選手の攻撃力は著しく低下するのだ。

 彼らと逆のケースが、ムエタイではチャンピオンに手が届かなかったにもかかわらず、国際式ではWBC世界J・バンタム級タイトルを十九度も防衛した名王者カオサイ・ギャラクシーである。

 軽量級離れしたカオサイのパンチ力をもってすれば、ムエタイ王者になれる可能性もあったが、短足ゆえにムエタイの華であるキックを売り物にできないのは、攻撃力ばかりか人気面でも大きなハンデになる。

 その点国際式なら、持ち前の強打とタフネスでKOの山を築いてゆきさえすれば、プロモーターから引く手あまたのドル箱王者になれるというわけだ。また、J・バンタム級という選手層の薄い不人気階級を選んだことも、カオサイが長期安定政権を築くには好都合だった。


 ムエタイの試合と平行してボクシングの練習を始めたセンサクは、小手調べとしてシンガポールで開催された一九七三年度の東南アジア競技大会に出場している。さすがにアマチュア相手となると、あの大山倍達をして「世界最強の格闘技」と言わしめたムエタイ王者のアドバンテージは大きく、五戦五勝(五KO・RSC)という圧勝で金メダルを獲得した。

 これで国際式での自信を深めたセンサクは、三戦で世界の頂点にたどり着くという途方もない目標を立て、一九七四年十一月十六日のデビュー戦の相手には世界6位のルディ・バロ(フィリピン)を選んだ。

 試合は国際式でも、タイ国内におけるセンサクの集客力はムエタイ時代と全く変わらず、デビュー戦というのにルンピニースタジアムは超満員のすし詰め状態だった。

 スロースターターのセンサクに対し、バロは一ラウンドから仕掛けてきた。バロのパンチは速く正確で、センサクはほとんどパンチを返せないまま、いいように打たれていたが、距離を詰めたバロが左を放とうとした瞬間、センサクの右フックがカウンターで炸裂すると、バロは試合開始からわずか五十七秒でマットに沈んだ。

 同年十一月の国際式転向二戦目、過去にKO負けのない世界2位のライオン古山を七ラウンドでストップして世界をぐっと引き寄せると、一九七五年七月十四日、WBC世界J・ウエルター級チャンピオン、ペリコ・フェルナンデス(スペイン)を八ラウンドで棄権に追い込み(記録上はTKO)、見事公言どおり、史上最短プロ三戦目での世界タイトル奪取に成功した。


 最短での世界挑戦はメルボルンオリンピックのヘビー級金メダリスト、ピート・ラデマッハーが一九五七年のプロデビュー戦で当時の世界チャンピオン、フロイド・パターソンに挑戦したものだが、プロとアマの隔たりは大きく、KOで返り討ちに遭っている。

 この一戦が教訓となったか、その後はいかに輝かしいアマチュア実績を持ったホープであろうと、世界挑戦までにはそれなりの場数を踏ませるのが常識となった。数あるオリンピック・ゴールドメダリストの中でも、プロ転向前から世界チャンピオン間違いなしの太鼓判を押されていたアリ、レナード、デラホーヤにしかりである。

 ところが、階級が細分化され、認定団体が増えた二十一世紀以降は、チャンピオンの質的低下に伴い、世界王座までいかに少ない試合数でたどりつけるかを競う傾向も出てきた。北京、ロンドンの二大会連続でオリンピック金メダリストになったワシリ・ロマチェンコ(ウクライナ)がプロ二戦目(二〇一四年)でWBO世界フェザー級タイトルに挑戦したのはその最たる例であろう。

 明らかにセンサクの記録を破ることでロマチェンコを大々的に売り出そうという魂胆で組まれたこの試合、楽勝と見られたロマチェンコが、ダーティタクティクスに長けたオルランド・サリドからプロの洗礼を浴びるという予想外の結果に終わっている(十二ラウンド判定負け)。

 諦めきれないプロモーターのボブ・アラムは、三ヶ月後にゲーリー・ラッセル・ジュニアとの王座決定戦を組み、これに辛勝したロマチェンコが、センサクの持つプロ三試合目での世界タイトル奪取という最短記録に並んだが、慌てて勝てる相手を探すはめになったため、デビューから八ヶ月弱というセンサクのスピード記録には十日ほど及ばなかった。

 もっとも、ムエタイ王者だったセンサクのようなプライズファイターとしての実績もないうえ、プロ戦績一勝一敗という選手が世界戦に挑めること自体が茶番もいいところで、このような出来レースでセンサクの輝かしい記録が更新されなかったことは不幸中の幸いである。


 センサクのボクシングは細かいテクニックなどは無視した喧嘩ボクシングで、少なくともシャドーやスパーを見る限りは、不器用でスローモーなボクサーという印象を持たれがちである。彼と二度も死闘を演じたライオン古山がいずれの対戦においても勝算ありと踏んで臨んだのは、この程度のテクニックであれば古山の強打で粉砕できると踏んだからだ。

 ところが、最初の対戦こそレフェリーから早めのストップが入るという(古山の七ラウンドTKO負け)ややアンラッキーな敗北だったが、二度目の対戦ではKOこそ逃れたものの、ほとんど意識を失うほど完膚なきまでに叩きめされているように、センサクの強さは実際に戦ってみなければわからない。


 まずオフェンスからゆくと、パンチは大振りで大してスピードもなく、一見楽にかわせそうである。ところが一七〇センチの身長に対しリーチは一八五センチもあり、足も長いため、ベタ足でスピードが遅いわりには距離を詰めるのが巧い。しかもパンチにフォロースルーが効いているぶん、避けたつもりが被弾してしまうほど伸びがいい。

 また、大きな弧を描くように飛んでくるテレフォンパンチ気味のロングフックは、見切りのいいボクサーなら容易にかわせる軌道ではあっても、直後に肘が流れてくるため、直撃しなくとも相手にダメージを与えることが出来る。キックボクシングと異なり、ムエタイは肘打ちが認められているため、仮にもチャンピオンであるセンサクが肘打ちに長けているのは当たり前で、この反則技をレフェリーに気付かれないよう交えてくるのだ。これ以外にもグローブに巻いたテープで相手の目尻をこすりあげるなどの反則はお手の物で、リターンマッチでの古山は、これらの反則技で血だるまにされた。


 次にデイフェンスだが、ガードはムエタイ式でアップライト気味に両脇を開けて高く構えているためボディはがら空きである。これはムエタイあがりでボディは鋼鉄のように鍛えられているため、頭部へのパンチだけ避ければいいということなのだろう。ボディワークをほとんど用いないセンサクは、スウェーか長い両腕を伸ばして相手の身体を押し返すようにしてパンチを防ぐのがもっぱらだが、ガードが甘いわりには長い腕が邪魔になって急所にクリーンヒットを浴びせるのは結構難しい。

 そういう意味ではオープンガードのため肘でカバーされていない脇腹が一番の狙い目かもしれない。しかし、不用意に懐に飛び込もうとすれば、石松を沈めた一撃必殺の左アッパーが飛んでくるため、リスクが大きい。

 両手両足が長いため、ファイティングポーズを取ったセンサクの姿はまるで蜘蛛のようで、それだけでも異様だが、リングをすべるようにして相手に接近し、触手のような腕を伸ばして一撃で仕留めるところなどまさに毒蜘蛛そのものである。

 

 センサクは一九七六年六月三十日、二度目の防衛戦でミゲル・ベラスケスに四ラウンド反則負けし、一旦タイトルを手放したものの、四ヶ月後の再戦で奪回(二ラウンドKO勝ち)した後は安定政権を築いていった。

 第二次政権二度目の防衛戦でガッツ石松をKOした後など、体力が有り余っていたため、リングを降りたその足で三軒もソープランドをはしごしたというから恐るべきスタミナである。この年だけで六度もの防衛戦をこなせたのも常人離れした体力の成せる業であろう。

 タフネスに自信があるセンサクは、ラウンドのインターバルでも椅子に座らず水をがぶ飲みしてみせ観客を驚かせた。また、相手のいいパンチが当たると「もっと打ってこい」といわんばかりに微笑みかけたり、観客席に向かって腕を回してセンサクコールを要求したりと、パフォーマンスも派手で、それもあまりに芝居がかっているため、奇人扱いされることも多かった。 


 一九七八年四月八日にフランシスコ・モレノをKOし、七度目の防衛に成功したセンサクの黄金時代はまだまだ続くと思われたが、同年十二月三十日、八度目の防衛戦で伏兵の金相賢と消耗戦の末、十三ラウンドKO負けでタイトルを手放した。

 傑出したテクニックを持たない代わりに、並外れたタフネスと強打でのしあがってきたセンサクが凋落したのは、豪奢な生活とプレイボーイぶりが過ぎてトレーニングがおろそかになったことによる。


 WBC世界J・ウエルター級タイトルを獲得したことで、中量級としては初のムエタイ、国際式の二冠王になったセンサクは、ルンピニースタジアムの入り口脇にファイティングポーズをとった写真が掲げられて、その栄誉を称えられるとともに、民族の英雄として国民的人気を博すようになった。

 道行く人々はロードワーク中のセンサクを見かけると、「サブ、サブ」と声をかけてきた。サブというのはタイ語で赤唐辛子のことだが、「手のつけられないヤツ」という意味もある。センサクはこの愛称がお気に入りとあって、緑色の生地の背中に「SAB」と白抜きしたトレーニングシャツを着込んでいるため、どこにいても目立った。

 目立ちたがり屋のセンサクは、CM出演に留まらず、各種の催し事や祝い事にも顔を出し、イベント関係のゲストとしても引っ張りだこになった。

 チャンピオンになった当初は、早起きして熱心に練習に励むセンサクの姿に声援を送る声も多かったが、元来奔放な性格で上昇志向が強い男である。湯水のように金が入ってくるにつれ、高級外車を乗り回し、女遊びにうつつを抜かすようになった。これが稀代のタフガイの選手寿命を縮める原因となったのだ。


 再起をかけた一九七九年十月十八日のトマス・ハーンズ戦では、速射砲のような左右連打に全く反応できず、三ラウンドKO負け。すでに右目を患っていたセンサクには、デュラン、レナード、ハーンズ、ハグラーらによる中量級スターウォーズに参戦する余力は残っていなかった。

 世界戦通算十勝二敗(七KO)、KO出来なかったのはソウル・マンビーだけという立派なキャリアのわりに評価が低いのは、傑出したテクニックを持たなかったことと、リング上での奇癖が下品に見られたからであろう。やはりチャンピオンたるもの、品格が備わっていなければ、一流の評価は得られない。


 引退後もセンサクの浪費癖は直らず、やがて豪邸も高級車も家族(有名女優の夫人と一子)も一切合財を失った。それでもセンサクといえばバンコクではちょっとした顔役で、尾羽打ち枯らしてからも肩で風を切って歩いていたという。

 中年になってから再婚し、バンコクのおんぼろアパートで妻子と三人でこぢんまりとした生活を送っていたが、肝硬変で亡くなった。五十七歳の若さだった。

センサクは試合中の奇行ぶりでも知られるが、試合中に水をガブ飲みし、休憩中も絶対に座らないなど、明らかに相手にアドバンテージを与えながら勝ってしまうところは誰にも真似ができるものではない。一時期ムハマド・アリが休憩中もずっと立ったままで自分の優位性をアピールしていたが、それはかなり格下相手の時だけで、相手などおかまいなしのセンサクのようなわけにはいかなかった。しかも、アリが相手を見下したように見えたのと違って、センサクの場合は道化師のようなユーモアがあって、見ていて面白かった。ガッツも芸人だっただけに、互いが全盛期で対戦したらどうだっただろうか。会場は変な盛り上がりを見せ、世界戦史上に残る珍試合としてJBCあたりから両選手に厳重注意が下されていたかもしれない。

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