玄関の扉の蛇口
インターホンを鳴らす。少し間を置いて、友人の村瀬が出てくる。
ドアから顔だけ出して、少し怯えた表情でこちらを見る。
「あ…ごめんね、急に呼び出して」
「別に、慣れてるから」
ドアを開けて中に入る。靴を脱ごうとして、村瀬がこちらを指さす。
指さす場所は自分よりも後ろ。振り返ると、玄関扉の内側、目線の高さ程に蛇口が付いている。
「…何これ?」
「えっと…それが、今日呼んだ理由なの」
安いからと言う理由で入居したアパートの部屋の玄関に、意味不明な蛇口が付いていた。と言う。
「安い理由は聞かなかったの?」
「聞いたよ!でも…なんかはぐらかされたというか…怖いの平気なんでしょ?ねぇ、これ何とかならない?」
蛇口を捻る。当たり前だが、水は出ない。
手をかざすと、ひんやりとした空気が漏れている。下からライトを当ててみるが、何の変哲もない蛇口だ。付いている場所以外は。
「ねぇ…これ、何だと思う?」
「さぁね。オシャレなドアノブとかじゃない?」
「ねぇ…ちゃんと答えてよ」
「隣の人とか、大家に聞いた?」
「まだ、聞いてないけど…」
「なら行くよ」
部屋着のままの村瀬を連れて、一つ隣の部屋のインターホンを押す。
中から中年の男性が出てくる。こちらも部屋着で、あまり清潔感は無い。
ドアの内側を覗くが、こちらに蛇口は無い。
「…何ですか?」
「隣の者なんですが、玄関の扉の内側に蛇口がついてるんですよ。なんか知りませんか?」
男は不機嫌そうな顔をして首を傾げる。そりゃそうだ。
「…知らないね。うちには付いてない」
見りゃ分かるわ。
「前に住んでた人、分かります?」
「確か…おっさんだったな。入居してすぐに出ていったけど…良ければ見に行こうか?」
「いえ結構。ありがと」
ぶっきらぼうに言い放ちその場を去る。村瀬はぺこりとお辞儀をして付いてくる。
女の部屋に入る口実にしたいのならばせめてもう少し清潔感を出してから来て欲しい。
「ねぇ…ちょっと、無愛想過ぎない?」
「蛇口よりも、その警戒心を気にしなよ」
大家さんが住んでるという1階の部屋を訪ねた。中から中年の女性が出てくる。
愛想のいい顔をしているが、村瀬の顔を見て何やら察したようだ。
「玄関の内側に…」
「蛇口だね。前の住人にも言ったけど、勝手に外して構わないよ」
「いつからあるんですか?」
「…さぁね、誰が付けたのかも知らないよ」
取り外し料金位出してくれるんだろうか。村瀬には悪いが、そこまで聞く気は無い。
「そうですか。ありがとうございます」
お辞儀をしてその場を去る。村瀬を連れて、一度部屋に戻る。
引越したばかりの部屋は、あまり物が置かれていない。腰を下ろすと、村瀬が水を持ってくる。
「どうしよう…特に害は無いけれど、なんか不気味だよね」
「そうだね。外さないの?」
「引越したばかりで…そんなお金無いよ」
「なら、とりあえず触らないのが1番じゃない?」
「そうだけどさ…ねぇ、1晩泊まって見てくれない?」
「ご飯奢ってくれる?」
「…うん、もちろん」
近くのチェーン店で夕飯をご馳走してもらい、部屋に戻ってくる。1人分の布団を敷いて、最近の事を雑談していると、村瀬はすぐ寝てしまった。
「さてと…」
立ち上がり、玄関に行く。時間は夜の10時。
もう一度、蛇口を捻る。相変わらず変化は無く、冷たい空気だけがこぼれる。
何か無いか色々触ってみるが、特に変化は無い。
初めこそワクワクしていたが、こうも何も無いと少し拍子抜けだ。
「こうなんか、特殊な仕掛けとかあるのかな」
独り言を零しながら、ふと思い立った。逆さ拍手や、逆さ十字架。オカルトに逆さは付き物だ。
蛇口を、反対に捻ってみる。すぐに固くなり、それでも捻る。
キュッと音を立てて、ハンドルが回った。
土臭いような匂いと共に、濁った水が出た。慌ててハンドルを戻す。
水が出たのだ。玄関に取り付けられた蛇口から。
鍵を開けて扉の外側を見る。もちろん、普通の玄関扉だ。
キッチンにある大きめの鍋を持ってきて床に置く。もう一度、反対に捻る。
チョロチョロと濁った水が出てきて、鍋に落ちる。
次第に水は、綺麗な透明の水になった。
コップに注いで、匂いを嗅ぐ。生臭い。
一口飲んでみるが、美味しくない。
「…面白くなってきた」
翌日。村瀬に説明する。確かめる為に、村瀬は蛇口を反対に捻った。水が出てくる。
「…どういうこと?」
確かめようと、水を出したまま村瀬が玄関の扉を開けた。外開きの扉は、その蛇口から出る水を外に吐き出す。
日中なのに、外は真っ暗だった。静寂の闇。その向こうから、やせ細った手が伸びて村瀬を掴む。
「え?何!?」
「村瀬!!」
慌てて手を伸ばしたが、村瀬は勢いよく引っ張られて暗闇の中に消えていった。扉が静かに閉まる。
チョロチョロと流れる水の音だけが部屋に響く。
助けようとノブに手を触れて、その冷たさに立ち止まる。
その扉の向こうの違和感に、開ける気にはならなかった。
そっとドアスコープを覗くが、真っ暗で見えない。
ゆっくり息を吐き、蛇口の水を止めて、ドアを開ける。
そこはもう、見知ったアパートの廊下だった。
村瀬が行方不明になって数週間経ち、新しい入居者が入ったと聞いた。
インターホンを押すと、若い青年が出てくる。
蛇口はまだ、そこにある。
「え?何?デリヘルは呼んでないけど?」
「前に住んでた人の友人だけど、その蛇口。触った?」
「あーこれ?別に。意味わかんないよな。これ」
彼が蛇口を捻る。すると、微かに女の人の声がする。
何を言っているか分からないが、村瀬の声だとすぐに気づいた。
男はすぐに蛇口を閉じる。
「変な音するし、まぁ触らないならなんて事無いな。なぁ、これ何なんだ?」
「多分、オシャレなドアノブだよ」
そう言い残して、そのアパートを後にした。