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ネオンが降る日の出来事

作者: P4rn0s

街のネオンが湿った石畳に滲んでいた。

青や赤やオレンジの光が足元に溶け込んで、彼女のヒールの先をゆっくりと染めていく。

旅先の夜は、なぜか音が柔らかく感じられる。

車の音も、人の声も、肌を撫でる風も、全部がほんの少しだけ遠い。


案内も看板もないような古びたBARを見つけたのは、偶然だった。

それでも彼女は迷いなく扉を押した。

小さなベルの音がして、重たい木のドアが閉じる。

中は薄暗く、古いソウルミュージックがぼんやりと流れていた。


カウンターに座ると、少し間をおいて男が話しかけてきた。

観光客か、それとも地元の人間か。

話しかけてくる人間のタイプに、彼女はほとんど興味を持たない。

誰がどう声をかけてきても、たいていは同じようなものだ。


「どこから来たの?」

「一人旅?それとも何かの仕事?」

「このあたり、意外と穴場なんだよ。よかったら案内しようか」


彼女は男の顔を見なかった。

グラスの氷が小さく割れる音だけに意識を向けていた。

耳には言葉が届いていたが、それは壁にぶつかって砕ける水音のように、輪郭も意味も持たないまま通り過ぎていく。


なぜ話しかけてくるのか。

なぜそうまでして、近づこうとするのか。

彼女は何も返さないまま、ただ静かに考えていた。


この数年間、何度こんな場面をくぐり抜けてきたのだろう。

褒め言葉も、遠回しな誘い文句も、初対面の親しげな声も、すべてが予測通りで、すでに飽きていた。


うざいとさえ思っていない。

と思っていた。


けれど今、ほんの少しだけ違う感情が芽生えているのを感じた。

それは怒りではなく、嫌悪でもない。

ただ、何か──感情の断面のようなものが、胸の奥で微かに光った。


ふと、頭に浮かんだ。

いきなりキスをしたら、この男はどうするのだろう。


その思いつきは、雷のような衝動ではなかった。

波紋のように、ゆっくりと心の中に広がっていった。

相手が誰であるかは関係なかった。

顔も、年齢も、声も、何ひとつ記憶に残らないような人だった。

だからこそ、たぶん、今ならできると思った。


彼女はグラスを置いた。

そして、ゆっくりと身体を傾けて、男に近づく。

彼はまだ何かを話していたが、その言葉はもう聞こえていなかった。


そして何の前触れもなく、彼女は唇を重ねた。


一瞬だけ、時間が止まったようだった。

男は微かに身体をこわばらせたが、抵抗する素振りは見せなかった。

むしろ受け入れようとしていた──彼女はその空気を肌で感じ取った。

だからこそ、ほんの一秒で終わらせた。


軽く触れるだけ。情熱も、欲望も、甘さもない。

ただ、事実として「キスをした」というだけの行為。


唇を離して、彼女は席を立った。

男は声を出さなかった。きっと言葉が見つからなかったのだろう。

けれど彼女は最初から、返事を期待していなかった。


扉を開けて、再び街のネオンが視界に滲む。

さっきよりも少しだけ光が冷たく見えた。

歩きながら、彼女は思った。

なぜ自分はあんなことをしたのだろう。

何かを壊したかったのか。確かめたかったのか。

あるいは、忘れたかったのかもしれない。


でもきっと、それすらどうでもよかった。

名前も、顔も、声も──彼女の記憶にはもう残らない。


ただ、あの瞬間だけが、妙に現実味を帯びて、胸の奥にひとつだけ熱を残していた。

それは、まだ生きているという証か、あるいは、ただの衝動だったのかもしれない。

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