二話 教祖
「この先が、啓示の場…“終陽の間”にございます」
ゆるやかに声を震わせながら、リュクスが背後の女に向き直る。
「教祖ヴァル・セリオス様は、すでに聖女様をお迎えするご準備を整えておられます」
リュクスの背後には、巨大な扉があった。深黒の金属に、砕けた紅の鏡片がはめ込まれている。まるで血と影の記憶を封じたような、異様な扉だった。
「……この扉が開くとき、王国の“真実”が崩れ始めます。どうか、その御心のままに、お進みくださいませ」
扉の前に立つ。その向こうに待つものが、光か影かもわからぬまま、投げかけられた“信仰”の重みに気付かないふりをしながら、扉を押し込んだ。鉄製の扉だ。さぞ重い事だろう。しかしそんな予想に反して扉は赤子でも軽々と開けそうなほど、あっさりと開いた。
開いた先は、まばゆい。けれど、先程までのような温かさはなかった。
廊下とは比にならない程大きな、ステンドグラスの天窓。色とりどりのガラスが巨大な聖堂のようなその空間を赤に青に染め上げている。彼女が立っているところはステージのように一段上がっていた。その下では昔教科書で見た、イスラム教の礼拝のように数えきれないほどの人々が彼女に向かって首を垂れている。
光で満たされた空間。まるで現実ではないような、夢の中のような広間。降り注ぐ光の色とは全く違う、柔らかな白光の帳が床から立ち昇り、柱は影を落とさずに宙へと消えていた。そこは、「終陽の間」と呼ばれる、ヴェラノス教における最奥の聖なる場。
彼女は、その中心に立たされた。全身がまだ異世界からの"召喚の余燼"に包まれており、現実の温度にも馴染みきれず、表情に困惑が滲んだその時。
奥より、静かに足音が響いた。音は一切の反響を拒むはずのその場において、あまりに確かな存在感をもって近づいてくる。彼女は、そちらを見た。
そこに立っていたのは、一人の影だった。
陽に焼けた褐色の肌。淡い金糸の髪。額には逆五芒星の紋を縫い込んだ面布が垂れ、顔の一切が見えない。だがその存在は――絶対だった。空気のすべてが、彼を“中心”として回っている。
彼は、口を開いた。
「……ようやく、お目覚めになったか。聖女よ」
声は低く、静かに響いた。響きは短く、簡潔で、それでいて全ての疑問を沈黙に変えてしまう力があった。
彼女は、息を呑んだ。理由はわからない。ただ、その声に本能が応えていた。
「貴女は、境界より渡り来た者。我らが神、ヴェラノスに選ばれし道の器」
言葉は儀礼的でありながら、圧倒的な現実を突きつけてくる。
「ここは、貴女の始まり。そして――終わりの火所」
その言葉が、予言なのか宣告なのか、わからなかった。だがただ一つ、確かなことがあった。この者は、神ではない。だが、"神の意志を形にする者"——教祖である、ということ。
彼女は大きな勘違いをしていた。カルト宗教の教祖というなら、信者を使って好き勝手している屑でカスな下衆野郎なのだろうと。多大なる偏見を持って終陽の間に入った。何なら、一言文句でも言ってやろうとも考えていたというのに。自分の行っている事を正義と信じて疑わない、聖者気取りの教祖様が現れるなどど、毛の先程も思っていなかったのだ。
何度でも言うが、彼女は平々凡々一般人である。基本的に無宗教を自称しているが、祖母や祖父からお天道様が見ていると教えられたことがあったし、お守りやお札はなんとなくありがたいものに感じるし、それらをぞんざいに扱うのはどうかとも思う。
神がいるとは思わないが、何か超自然的な力はあるとは思っているし、人知を超えた宗教的とも言い得るものが存在しているような気がする。時には何教のどこの神様でもいいから助けて欲しいと思う事もある、というなんともあやふやな宗教観を持っている。聖女や教祖についてなど、「創作でよく見るなんかかっこいい宗教の職業」くらいの認識で、実際それが何なのかすら分かっていない。
だがこれは彼女に限定した話ではないだろう。多くの日本人は彼女とほぼ同じような考えを持っている筈だ。
そんな彼女が彼らに取った行動——
「……いや、すみません。待って、ちょっと待ってください。申し訳ないんですが私はあなたたちの宗教…えっと、ヴェラノス教?についてほんとに何も知りませんし、信じてもないんですけど…」
馬鹿正直にそんな宗教知らんし信じてもいないと話す。黙って知っているふりをしてもいつかボロが出るだろう。そうなったら聖女に扮した悪魔(?)としてなんかすごく酷いことをされるかもしれない。
彼女は頭では理解しているつもりだった。「創作の異世界召喚」——よくあるやつ。しかし、いざそれが現実になった時の心境など、想像の外側にあった。
祈り方も、正解も知らない。聖女?なにそれ?白魔導士とかと同じカテゴリ?自称無宗教、でも当たり前のように神社に参拝に行くしおみくじも引く彼女には、目の前の人物——“教祖”の存在が、むしろ恐ろしかった。精神異常者的な意味で。
彼女の言葉に、聖堂内は一斉に騒めく。しかしそれは一瞬のもので、教祖ヴァル・セイリオスが言葉を発し始めれば瞬時に収束した。
「……我が神の"目"が、貴女を選んだ」
「はい?」
面布の奥から、教祖ヴァル・セイリオスの言葉が零れる。恐怖を煽るわけでもなく、祝福を与えるわけでもない。
ただ、事実として――それを宣告する。
「信仰の深さは問わない。ただ、貴女は"器"である」
え、そんな条件で聖女になれるの……? という呆然とした疑問すら、声にできなかった。だって、一言一言が重い。めっちゃくちゃ重い。
正直、信じてもいない神様に選ばれるとか……怖いし、なんか申し訳ないし、ちょっとだけ嬉しいし、なによりも——現実感がなかった。なんで私が?という混乱と戸惑いしか沸くことは無い。
「では、"無垢なる聖女殿"にヴェラノス教をすべてお伝えしよう。」
彼女は、教祖の口から紡がれる宗教についての説明をただ黙って聞いていた。