九話 名
黒い太陽が砕かれた音が、まだ耳の奥に残っていた。神殿の中央、瓦礫と化した御神体の前に、男は立っていた。その足元に膝をついたまま、彼女はうずくまっている。
空は遠く、天蓋は高く、声すら跳ね返す大理石の床が冷たい。
息が荒い。鼓動が煩わしい。身じろぎ一つで、衣擦れの音が響いた。
なぜ、自分はこうして“生きている”?
なぜ、目の前のこの男が、自分を見下ろしている?
その問いに答えるように、冷えた空気の中に声が落ちた。
「……名を」
ただ、それだけだった。男の声は感情もなく、無機質な音のように響く。問いというより、確認。命じるでも、求めるでもない。あまりにも自然に。この世界の誰しもがそうするように、ただ名を問う。だが彼女には、それが──存在を許される音に聞こえた。
名乗ることさえ赦されなかったあの記憶が、胸を締めつける。
頭の中が白くなる。何も言えない。だが、このまま黙っていたら自分はきっと、本当に溶けてしまう。
だから、震える声で答えた。
「……○○、です」
それは誰にも必要とされず、存在すら許されなかった名前。誰にも呼ばれず、誰にも触れられず、ただ一人きりで抱え続けた"恐怖"。
男は何も言わなかった。驚きもせず、疑いもせず、ただその名を"記録"として瞳の奥に沈めた。
それだけだった。
それだけなのに。
溶けた輪郭が再び形を持つ音が聞こえた
どこにも居場所がない
それでも立っていた
誰の手にも届かぬはずの場所に
一つ、名が残された




