「その婚約破棄、ぜひお受けしますわ!」と言ったら溺愛されてるんですが!
春の陽光が差し込む王立図書館で、リリア・テレノアは静かに本を開いていた。銀色の髪が日差しに輝き、その長い髪は腰まで優雅に流れ落ちている。整った顔立ちは一層美しく見え、特に翡翠のような深緑の瞳は、本の世界に没頭するたびに神秘的な輝きを帯びた。しかし、彼女の心は今、手にした古書の内容に完全に奪われていた。
幼い頃から、本は彼女の親友だった。他の貴族の令嬢たちが社交界デビューに心を躍らせる中、リリアは図書館の静寂に安らぎを覚えていた。そこには彼女の求める全てがあった——冒険、ロマンス、知識、そして何より、押し付けがましい求婚者たちから逃れられる静かな居場所。
「この本を読み終えたら、あの棚の歴史書を……」
彼女は遠い棚を見つめながら、次に読む本の表紙を思い浮かべていた。その瞬間、彼女の背後で静かな足音が響いた。振り返ると、執事のジェラルドが恭しく立っていた。
「リリア様、お父上がお呼びです」
リリアは小さなため息をつき、渋々本を閉じた。古い革の表紙から立ち上る懐かしい匂いを最後に一度嗅ぎ、立ち上がる。執事の表情が普段より硬いことに、彼女は違和感を覚えた。
「どうやら、また婚約の話のようね」
そう呟きながら、リリアは優雅に歩を進めた。廊下に並ぶ肖像画の前を通り過ぎる度に、過去の求婚者たちの顔が脳裏をよぎる。
公爵家の跡取り息子は、リリアの銀髪を「まるで月光のよう」と称えたが、彼女の読書という趣味を「退屈な時間つぶし」と一蹴した。辺境伯の次男は、毎日のように豪華な贈り物を寄越したが、それは全て社交界で話題になるような派手なものばかりで、リリアの好みとは程遠かった。
父ーーテレノア伯爵の書斎に入ると、予想外の知らせが待っていた。
「リリア、我が国の第二王子、アーサー殿下との婚約が決まった」
父の声には、普段にない緊張が混ざっていた。
「……はい」
リリアは淡々と答えた。言い寄られても、断ればいい——そう考えた。
どうせ今回の男も、私に興味があるわけではないのだろうから。みんな、自分の容姿だけに惹かれてくる。だから恋愛なんてつまらないんだ。彼女は父に分からないようにため息をついた。
* * *
数日後、二人の初めての対面の場として選ばれたのは、王宮が誇る庭園だった。春の花々が咲き誇り、特に白薔薇の香りが空気中を漂っていた。噴水の水音が心地よく響き、小鳥たちのさえずりが雰囲気を和ませる。
そこにアーサー・セントネアが現れた。金色の髪は春の日差しを受けて輝き、碧眼には優しさが宿っている。しかし、その瞳の奥には何か暗い影が潜んでいるように見えた。彼は深紅のマントをまとい、王族としての気品を漂わせながらも、どこか緊張した様子で立っていた。
「リリア嬢、お会いできて光栄です」
アーサーは丁寧に挨拶をした。その仕草には生まれながらの優雅さがあった。しかし、彼の心は激しく揺れていた。
(こんなに美しい人なのに……噂に聞いていた通りだ。いや、それ以上かもしれない。だが、兄上の命令を守らなければ……)
アーサーの脳裏に、王太子である兄シオンとの会話が鮮明に蘇る。
それは三日前のことだった。王宮の私室に、シオンは弟を呼び出した。彼は隣国のベアトル皇国の皇女との婚約が決まっていた。だが巷で美しいと話題のリリアがアーサーのものになることが許せなかった。自分の欲しいものはなんでも手に入れなければ気が済まない男なのだ。紫の髪を靡かせながら、シオンは冷たい声でこう告げた。
「アーサー、貴様はリリア嬢にこう言え。『すまないが、この婚約は無かったことにしてくれ』とな!。もうすぐ俺がこの国の王になる。この約束を破ったら、命はないと思え」
その時の彼の目は、まるで氷のように冷たかった。アーサーは「わかりました」と答えるしかなかった。
現実に戻り、アーサーは深く息を吸った。薔薇の芳香が、彼の決意を更に重くする。
「リリア様、申し訳ありません。この婚約は……破棄させていただきたい」
その言葉を口にした瞬間、アーサーの声は微かに震えていた。彼の碧眼には、言いようのない悲しみの色が浮かんでいる。白い手袋をはめた手が、制御できないほど小刻みに震えているのが分かった。
(本当は、この美しい人と——)
心の中で形容し難い感情が渦巻いている。兄への恐怖から、アーサーは自分の本心を押し殺すしかなかった。
「……あら、そうなんですね! その婚約破棄、ぜひお受けしますわ! 私も全く恋愛に興味がないので!」
予想外の返事に、アーサーは目を見開いた。銀髪の令嬢の表情には、むしろ安堵の色が浮かんでいる。その瞬間、アーサーの心は深く傷ついた。自分から婚約破棄を切り出したというのに、こんなにも心から喜ばれるとは。
「そ、そうですか……」
思わず呟いた言葉は、か細く切なかった。アーサーは俯き、長い睫毛が作る影が頬に落ちる。その儚げな表情は、見る者の心を揺さぶらずにはいられない———リリアは全く気にしていないようだが。
庭園を後にする途中、アーサーは何度も振り返ってしまった。リリアは既に立ち去る準備を始めており、その姿は夕陽に照らされて一層美しく見える。
(ああ、こんなに綺麗な人なのに...)
私室に戻ったアーサーは、ドアを閉めるなり壁に寄りかかった。膝から力が抜け、その場にへたり込む。
「はは...」
虚ろな笑みが漏れる。自分から婚約破棄を言い出したというのに、こんなにも胸が痛いなんて。白い手袋を外すと、掌に深く爪が食い込んだ跡が残っていた。
「お前には似合わない女だからなぁ」
兄シオンの言葉が、まるで呪いのように頭の中で響く。
「違う...」
アーサーは呟いた。声が震えている。
「違うんだ...僕には、彼女こそが...」
言葉を最後まで紡げない。私室の窓から、白薔薇の香りが漂ってくる。初めて会った時の、あの香り。リリアの凛とした佇まい、そして今日見せた、婚約破棄を喜ぶ表情。全てが胸の中で混ざり合い、激しい感情となって彼を責め立てる。
「これで良かったんだ」
そう自分に言い聞かせても、頬を伝う一筋の涙を止めることはできなかった。窓の外では、夕暮れの空が茜色に染まっていく。まるで、アーサーの切ない思いを映すかのように。
* * *
執務室に呼び出された時、リリアはすぐに父の様子がいつもと違うことに気がついた。いつも凛として背筋を伸ばしていた父が、今は深く椅子に腰掛け、疲れた表情を浮かべていた。執務机の上には、普段なら整然と並べられているはずの書類が乱雑に散らばっている。
「父上、どうかなさいましたか?」
声をかけると、父は重たい溜息をついた。
「リリア、座りなさい」
父の声には、普段の威厳ある響きが見当たらない。リリアは静かに応じ、父の正面の椅子に腰を下ろす。銀の燭台に灯る炎が、二人の影を壁に揺らめかせていた。
「シオン王太子から、新たな申し入れがあった」
父の手が、机の上の一通の書状に触れる。その手が微かに震えているのが見えた。
「我が家の爵位を剥奪すると言ってきているのだ」
その言葉に、リリアは息を呑んだ。テレノア家は代々、この国の繁栄に貢献してきた名門。その歴史は三百年以上に及ぶ。それを、たった一人の王子の我儘で——。
「それだけではない」
父は続けた。その声は苦々しさに満ちていた。
「もし、お前をシオン王太子の側妃として差し出さなければ、我が家の領地も没収すると」
「そんな……!」
思わずリリアは立ち上がった。領地には、代々テレノア家に仕えてきた家臣たちが暮らしている。彼らの生活は、全てテレノア家の庇護の下にあった。
「父上、私は...」
「心配するな」
父は静かにリリアを遮った。その瞳には、今までリリアが見たことのない強い光が宿っていた。
「お前を、あんな男には渡さない」
老齢の父とは思えない力強い声だった。リリアは、目頭が熱くなるのを感じた。
「テレノア家は、代々この国に忠誠を誓ってきた。しかし、それは正しい王の下でこそ意味をなすものだ。理不尽な要求を突きつけ、自らの欲望のために家臣たちの生活を脅かすような者に、忠誠を誓う価値はない」
父は立ち上がり、窓際まで歩いた。夕暮れの空が、執務室を深い茜色に染めていた。
* * *
王立図書館の静寂を破る足音が、突如として響き渡った。本に没頭していたリリアが顔を上げると、そこにはシオン王太子が立っていた。紫の髪が窓からの陽光を受けて妖しく輝き、その瞳には抑えきれない欲望の炎が宿っている。
「やっと見つけたぞ」
シオンの声は低く、図書館の静謐な空気を切り裂くように響いた。彼は周囲を見回し、誰もいないことを確認すると、リリアの座る机に両手をつき、上から覗き込むような姿勢を取った。
「俺の妻になれ」
それは提案ではなく、明らかな命令だった。リリアは読んでいた本を静かに閉じ、背筋を伸ばした。
「お断りいたします」
凛とした声で返答する。シオンの表情が一瞬歪むのが見えた。
「断るだと?」
シオンが机を強く叩く。本が数冊、床に落ちた。その音に、リリアは眉をひそめた。
「ははは、お前の家がどうなるか分かっているのか?」
脅すような言葉に、リリアの心は更に冷めていく。シオンは彼女が手にしていた本を無理やり奪い取った。
「こんなくだらない本を読んでいる場合か?」
「お返しください」
リリアの声が強まる。大切な本を粗末に扱われることへの怒りが、静かに胸の内で燃え上がっていた。
「こんな本の何がそんなに面白いんだ?」シオンは本のページを乱暴にめくる。「どうせ、つまらない物語だろう」
「その本は、古代魔法文明の貴重な研究書です」
「はっ、無駄な知識じゃないか」シオンは嘲笑う。「お前には王の女としてふさわしい教養を教えてやる。こんな本なんて——」
その時、シオンは本を投げ捨てようとした。リリアは反射的に立ち上がり、本を掴む。
「一人の人間を尊重できない人が、どうして国の主になることができるのですか」
その言葉は、氷のように冷たく、鋭利な刃のように放たれた。図書館の空気が凍りついた。
シオンの表情が一変する。
「貴様っ!」
彼は激昂し、リリアの腕を掴もうとした。しかし、その瞬間——
「シオン王太子!図書館での乱暴な振る舞いは控えていただきたい」
図書館の管理人が声を上げた。シオンは歯軋りしながら、その場を立ち去った。
その足で、シオンは王城の執務室に向かった。大臣へ怒りに任せた命令が、彼の口から発せられる。
「テレノア家の爵位と領土を今すぐ没収しろ!なんとしてでもリリア・テレノアを俺の女にしてみせる!」
その声は執務室を揺るがすほどの怒気を帯びていた。しかし、シオンは気付いていなかった。扉の陰で、一人の人物が偶然にもそれを聞いていたことを。
人物———ベアトル皇国の使者は、即座に本国への報告を決意した。彼は最速の馬を走らせ、皇都へと向かう。数日後、ベアトル皇帝の謁見室。
「今、なんと?」皇帝の声が轟く。「我が愛娘の婚約者が、他の女と結婚しようというのか!?」
「はい」使者は頭を下げたまま報告を続ける。「シオン王太子は、テレノア伯爵家の令嬢を強引に側妃にしようと」
「我が娘を差し置いて側妃だと!?」皇帝は立ち上がった。「これはベアトル皇国への明確な侮辱である!」
その日のうちに、婚約破棄の勅書が作成された。それは稲妻のような速さでセントネア王国に届けられた。
セントネア王城の大広間。国王の怒声が響き渡る。
「せっかくのベアトル皇国との良好な関係がなしになったではないか!!!」
シオンは父の前に跪いていた。国王の表情は、これまで見たことのないほどの怒りに歪んでいる。
「父上、申し訳ございません。しかし——」
「言い訳は許さん!」国王は玉座から立ち上がり、シオンを見下ろした。
「ベアトル皇国との同盟は、我が国にとって最重要事項であった。それをお前は、私情で台無しにしたのだ!」
広間に集まった重臣たちは、固唾を呑んで事態を見守っている。アーサーも、端で静かに立っていた。
「シオン」国王の声が低く沈む。「貴様は王太子の座から降りろ」
「父上!」シオンが顔を上げる。「それは!」
「黙れ!」国王の声が響く。「代わりにアーサーを次期国王とする!お前には、王位を継ぐ資格などない!」
その瞬間、大広間に衝撃が走った。シオンは蒼白になり、その場に崩れ落ちる。アーサーは困惑の表情を浮かべながらも、凛とした態度で一歩前に出た。
「父上」アーサーが跪く。「私に、その任が務まりますでしょうか」
「アーサーよ」国王の声が柔らかくなる。「お前は常に慎重で、思慮深い。民を想う心も持っている。必ずや良い統治者となるであろう」
こうして、セントネア王国の権力構造は、一夜にして大きく変わることとなった。
* * *
突如として王太子の座についたアーサーは、徐々に自分に自信を見出していった。兄の影から解放され、本来の優しさと聡明さを発揮し始める。そして、ある日、彼は再びリリアの前に現れた。
場所は、またあの白薔薇の咲く庭園。今度は夕暮れ時で、空は茜色に染まっていた。
「リリア嬢、もう一度、婚約をお願いできませんか」
アーサーの声は、深い感情を湛えていた。夕暮れの庭園で、彼は一歩リリアに近づく。その大きな背中が、夕陽に照らされて逆光に輝いていた。
「どうして突然...」
「ずっと、あなたのことを見ていました」
アーサーの告白は、真摯で熱のこもったものだった。彼は片膝をつき、リリアの手を優しく取る。
「初めて会った時から、本当は...あなたに一目惚れしていたんです。でも、兄の命令で...」
その言葉に、リリアの心臓が大きく跳ねた。
「あの時の『興味がない』という言葉も、全て嘘だったんです。あなたの本を愛する気持ち、知識を求める姿勢、全てが素晴らしいと思っていました」
青い瞳で真っ直ぐに見つめられ、リリアは思わず目を逸らした。
「でも、私は本当に恋愛に興味が...」
「構いません」
アーサーは優しく微笑んだ。その表情は、まるで月明かりのように柔らかく、リリアの心を静かに照らすものだった。
「あなたのペースで良いんです。まずは友人として、本の話をさせてください。僕も実は、『失われた王国の記憶』という本が大好きで...」
リリアは思わず顔を上げた。
「その本、私も大好きです!特に第三章の...」
「古代遺跡の描写ですか?」
二人は同時に声を上げ、そして、思わず笑みを交わした。
* * *
新居の書斎で、アーサーはそっとリリアの背後から近づいた。彼女が本に没頭している姿は、いつ見ても愛おしい。
「今日は何を読んでいるの?」
「あ、アーサー様...」
振り返ったリリアの髪から、微かに薔薇の香りが漂う。アーサーは思わずその銀糸のような髪に触れ、優しく微笑んだ。
「もう『様』はつけなくていいと言ったでしょう?」
その囁きのような声に、リリアの頬が薄く染まる。婚約して数ヶ月、二人の距離は確実に縮まっていた。
「これは、アーサーが推薦してくれた本よ」
「ふふ、その本の後半に素敵な展開があるんだ。楽しみにしていてね」
そう言って、アーサーはリリアの額に軽くキスをした。突然の愛情表現に、リリアは真っ赤になる。
「もう、本に集中できなくなるじゃない...」
「ごめんごめん。でも、可愛いリリアを見ると、つい...」
「も、もう!」
呆れたような声を出すリリアだが、その表情は幸せに満ちていた。本の世界だけを見つめていた彼女に、アーサーは新しい物語を見せてくれた。それは、決して本の中だけで完結しない、現実の愛の物語——。