思考放棄
何が残っているのだというのだろうか。そこに何が残されているのだというのだろうか。開いても目を通しても、そこには何もない。
何を入れればいいというのだろうか。分からない。更にいくつもの扉を開いてようやく見つけたそれを手にして。
シスはチョコレートひとつという貧しい食事を済ませた。
――マズい、チョコは美味しいけどこれはマズい
このままでは今日の昼の食事すら危うい。幸い本日は学校が休み。これから買い物に行く他ないと言った状況。そこに流されるように気怠さを、無気力を背負って買い物へと足を運ぶのだろうか。
否。
シスにはひとつ、他人とは異なる解決方法があった。その手段を握る拳に込めて、狭い部屋の中でクローゼットを開く。他の人物からすればそれはコスプレという趣味に分類されるものに過ぎないだろう。しかしながらシスにとっては本当の自分を解放するための手段、人として生きるためには絶好の手段だった。
男物の服を纏い、全身を映す大きな鏡にて何処かよれよれの姿を目にしてため息を吐く。
――やはり、完全とはいかないか
元々ゆったりした服でしか化けることが出来ない。或いはランスとして戦う時に着るあの特殊な服でしか。
本当の自分をさらけ出すために異性を装う。威勢のいい嘘とも呼ぶことが出来るかも知れない。
さらしを巻くことで胸を押さえつけた身体はそれでも少しばかりの厚みがあり隠し通すにはやはりきっちりとした恰好は避ける他なかった。シスの本来の好みは自らの身体によって封じられてしまっていた。
――あと脚の形もだな
どう足掻いても尻から足先まで誤魔化すことの出来ない姿。
それらを大きくてゆったりとした恰好で、理想からは程遠い服を身に着けることで誤魔化しを無理やり効かせる。
それでも男物は男物。自然と内側に閉じ込められた本性、ランスはここに顕在、男としてのいつもの調子も健在ということだった。
「さあ、今日は買い物に行くとしよう。人々からの羨望の眼差しのシャワーを浴びに行くこととするか」
この性格は永遠に治る気がしなかった。女として生きる時には抑え込まれたそれは、生き生きとした瞳は、男の姿を持った時の限定品。
ランスは念のために鞄に男物のセーラー服とマントを畳んで入れてそこにエコバッグを仕舞い込んで、荷物の多さに半ば呆れつつも必要な戦闘服なのだと割り切ることで自身を納得させた。
「しかしなに故にセーラー服なのだろうか。昔の水兵なのだろうか。そもそも水兵の服」
こういった部分にも男らしさは宿るものだろうか。シスの姿の時には決して興味を持たなかっただろう。セーラー服など可愛い女の子が着ているならば可愛いだけ、その地に足を着いて話を終わらせてしまうだけのことなのだから。
商店街を歩く。晴という爽やかな天気。淡く蒼いあの空から降り注ぐは優しい光の雨。
――私の力を振う出来事よ、起きてはくれるなよ
平和を祈る事。それこそが最大の正義にすら感じられていた。
公園ではしゃぐ子供たち、それらを横目に話し合う若い女二人組を目にして想うことなど何もなかった。
きっとランスはシスはこの命の火が燃え尽き果てるその時まで独身を貫き通すことだろう。ランスの能力には予知も予言もなかったものの、その程度の簡単な未来は見え切っていた。
更に歩きスーパーマーケットを目指す。
ランスは財布を確認し、一瞬の笑みを見せて空を仰いだ。この金は敵を討つことで魔法界隈の者たちから得たもの。ランスが特に望んだことではなかったものの、ルールとして定められているらしい。報酬を受け取らなければあの小さな社会の括りひとつすら回らない、成り立たないのだという。
「別に金もらわなくてもバイトすればいいだけのことなのだが」
そう容易くはいかない現実。むしろ戦いというものに金が結びつくことで命を繋いでいた。
この世間ではシスという者の思想は、ランスという存在はまだまだはみ出し者でしかなかった。
入店の電子音が響く空間の中で、雰囲気の異なるそこにてランスはカゴを手に取り、目を忙しなく動かし続ける。
キャベツは安いだろうか、今となってはいつでも採れる野菜と言われていても季節や虫の現れと言った環境の違いによって差は出るだろう。もやしは庶民の味方を今でも果たせているだろうか。卵が今日は安い。夏を控える今の内から栄養はしっかりと摂っていなければ戦場には出られないだろう。如何に魔法というチカラの支えがあるとは言えども筋力は女。
どう足掻いても追いつくことの出来ない差がそこに立ちはだかっていた。
肉はささみか胸肉が安い。どういった気まぐれだろうか、ほうれん草が大量に安い価値を付けられて売り出されていた。
そうした情報を目で追いカゴに放り込み、続いて缶詰を見ていく。サバ缶やツナ缶を入れては辺りを見回しわかめの即席スープを入れて。
気が付けば手元のカゴから長いものが伸びている様を見て取ることが出来た。いつの間に入れたのだろうか。中には長ネギが居座っていた。
「ふはは、分かった、これが本日の相棒なのだな」
戦いの術は恐らく長ネギになるのだろう。どこかの有名なゲームにそのような鳥がいたような気がしていた。一瞬だけ姿が脳裏を過ぎる。
そんなランスの目の前に、それは現れた。
白くて丸々とした身体に髪を思わせる緑色の柔らかそうな身が伸びた存在。長ネギにも見えそうだったものの、その見た目は玉ねぎに近いと思った方が想像に差支えが少ないという有り様だった。
「ほほう、私の前に現れるとは、サインでももらいにいらしたのか」
「違うネヒ! 俺はお前らにネヒを布教する為に来たネヒ」
高い声だったものの、女というよりは年老いた男を連想させる声はしっかりと響いていた。
「なるほどネヒだな。アイドル活動にも活舌というものは必要ネヒだ」
「俺様を馬鹿にするなネヒ。ヒが発音できないだけネヒ、お前ら上から目線で勝手に好き勝手名前付けやがってネヒ」
それは確実な敵意を色濃く塗りつけていた。
ランスの中の危機感が全くもって波を立てないのは見た目だけが原因なのだろうか、果たして本当にそうなのだろうか。
「そうかそうか、怯えろ震えろ、私はあなたの敵だ……永遠のな」
それはあまりにも分かりやすい敵対宣言。ネギのことを布教するために現れただけとは言えども放っておくわけには行かなかった。
「果たしてみながみなネギを食べたいとでも思っているのか」
「薬味会のアイドルネヒ」
一度大きく頷くのみ。ただそれだけの薄い反応から流れるような緑色の一閃はネギの身体を突き抜けることなどなかった。
「俺っちには仲間割れは出来ないネヒ」
「そうかそうか」
ひと言述べてランスはカゴにネギを仕舞い込んで駆け出した。
「待てネヒ」
「イヤだね、追いかけて来るか付き纏い、ストーカー」
連続で浴びせる罵倒。ランス自身が男の意識で放つその言葉はあからさまなアイドル気分を見せつけていた。
「私がネギと結婚など、立派なスキャンダル案件だ。炎上系は嫌いだ。エンジョイ系でいたい」
「痛い発言だネヒ」
ネギが似合う男、大きな文字を添えてネギを剣のように構える自称庶民派アイドル。一瞬だけ過ぎったそれは案外悪くないと想わせる内容だった。
「豆腐のソファに寝転がりたい、白菜は布団、そんなキャッチコピーはいかがかな」
冗談を交えつつ現れたそこは生鮮食品コーナーの中でも特に特徴的な姿をした有象無象が並べられる面白みを極めた寒気に包まれた場所。
鼻を突く独特な匂いにランスは心を打ち、そこから一尾の魚を溢れ出る気分の高揚とともにその手に取って振り回した。青い背をして光を反射するそれは一尾のサバだろうか。
「観衆が振り回して宜しい光り物ではないのだがな」
「臭い、臭いネヒ、近寄るなネヒ」
ネギが放つ言葉に従うことなどなかった。生魚のにおいは確かに強くて土の者には魅力が伝わらないだろう。そうした意見を耳にした輝く彼は鰓呼吸も声帯も、全ての仕組みを無視して声を放つ。
「黙れ、お前こそ野菜室でいつもくせえだるおおぉぉぉこのやるおおぉぉぉぉ」
握りしめているランスまでもが扱い続けることを躊躇してしまう行動。まさか言葉を発するなどとは予想もしていなかった。
「振り回せアイドル。周りがサイリウム振るなら俺たち魚は別の光り物としてその手に収まってみせる。お魚親善大使となれ」
「一番好きなのは鮭なんだが」
そう言いつつも得られた機会は活かすのみ。つまるところノリには乗る。眩しい笑顔を魅せつけながら、大きく一振り。ただそれだけで事態は急変する事となる。
ネギの緑は切れてネギ自身はキレていた。
「おのれおのれおのれおのれおのおのおのおのおのおの」
バトル漫画の内容が最高潮を迎える一歩手前だろうか。ランスはネギの方を見つめてはただ笑いかけるのみ。
「余裕を見せるなああぁぁぁ」
ネギは突如浮かび上がり、怒りのオーラを身に纏い始めた。浮かぶ身体は更に高度を上げて、天井をすり抜けて消えて行く。
「はは、路上ライブの始まりか」
駆け抜けて、出口手前で慌てて立ち止まる。
「いらっしゃいませ、袋はお持ちでしょうか」
「はい」
「ポイントカードかアプリは」
「ありません」
最も苦戦する瞬間、有限な時間でも平等に済まされる会計が最大の障壁として立ちはだかるなど考えてもいなかった。
会計を済ませて出たそこで、ランスは怒り狂い赤くなったネギの姿を目にした。オーラは黒々としていて禍々しい。それでも恐ろしさを感じさせないのは姿故だろうか。
「カリスマは大切、今日私はそれを教わった」
まとめに入るにはあまりにも早すぎた。
戦いはまだまだこれから、そう言って区切ることが許される状況でもないことなど見て取ることが出来た。
「なにがアイドルだネヒ。俺をコケにしやがってネヒ。苔生やすネヒ」
「私の買い物袋の中、見えているか」
ランスが差し出したそれ、ランスの買い物の証。その中に納まりきれずに細長い緑の頭がはみ出たネギが刺し込むように入れられていた。
それは敬愛の証だろうか、それとも憐みの形だろうか。ネギの怒りに曇り切った目では判断も付かない。
「知るかネヒ。どうせ戦いが面倒なだけだネヒ。怒りを食らえネヒ」
結局のところこの存在は止まることを知らない。この戦いは平穏なる終わりの鐘を鳴らすことなど出来ない。その鐘はとうの昔に砕かれてしまっていた。
ネギはこのセカイに暗いオーラを張り付かせ、己の力を発動してみせる。
「我が世界、我が地下迷宮を見せて差し上げよう」
セカイは広げられ、その口を開いてこの世界のモノを吸い込み始めた。世界に吸い込まれようとしている人々を見つめてランスの身体は自然と動き始めていた。
人々を払い落とすように吸い込みの魔の手から救って地に着かせる。ひとりふたりさんにん、六人九人十七人。
救い出すペースは加速していく。
しかしながらランスはその目に捉えてしまった。吸い込まれる人々を救う中で金髪の少女が中へと吸い込まれてしまう様にランスの目の色が変わる。
この戦いの小さなひとつの敗北を目に焼き付けてしまった。
湧いてくる感情は怒りか憎しみか、悔しさなのか悲しみなのか、ありとあらゆる色の情がランスを責め立てては問い詰め掛かって来る。胸ぐらをつかまれる気分。そんな想いの渦に吸い込まれてもなおランスは人々を救うことをやめない。
吸い込まれる人の中にバイクに乗る男を見た。バイク諸共吸い込まれようとしている中、ランスは男だけをはじき出してバイクに跨って男に告げる。
「借りるぞ」
「待てドロボー」
穴へと近付き、己の身で吸い込み口を塞ぐように穴へと入り込む。完全には中へと入らないように抗いながらネギが息を荒らげる様を見て、まだだまだだと言い聞かせては様子を見つめ続ける。
やがてネギが疲れ果てて吸い込みをやめたのを確認した上でネギに向けてレシートを投げつける。
すっと突き進んで、空気にも重力にも、ありとあらゆる物理法則をものともせずにネギへとたどり着き、額に貼り付いた。
「ソワカソワカ……だったか? ひふみよふるべゆらゆらとだったか? まあいいや、封印、急々如律令」
ここまで雑に祝詞を唱えようとする姿、まさに思春期特有のファンタジーへの向き合い方と自身の真剣さと覚えの悪さの温度差を感じさせるものだった。
ネギが消え去ると共にランスは穴の中へと飛び込みあの世界の中へと向かった。
そこはどのような世界なのだろう、金髪の少女は高い壁を見回す。
「ここどこだろう。ねえ、誰かいませんか」
青い瞳は入り組んだ壁の全体像を見抜くことが出来ず恐怖に震えていた。ひとまとめにした後ろ髪が癖のうねり以上に揺れていた。
「誰か、居ませんか」
呼びかけるものの、答えるものなど何処にもいない。
「助けて……寂しいよ、紘大くん」
恋人の名前を呼んでも尚溶けないほどけない。そんな不安に身を包んで怯え続ける少女の耳は突然けたたましい音が連続して響いているのを聞いて目を見開いた。
「これは……バイクかな」
言葉にすると共にそこにはバイクと男だろうか、ほんの少しだけ違和感を抱かせる麗人がバイクに跨る姿を目に入れた。
「助けてください」
少女が口にするとともにその人物は答えた。
「ああ、勿論そのために来たのだよ、私はランス、あなたの名は」
安心感を抱いた少女はランスの質問に流されるままに答えてみせる。
「私はミーナ、海外から来た留学生です」
溜められた涙で潤んだ瞳に希望の光が混ざりキラキラと真昼の夜空のような姿を展開していた。
「そうか、私も留学生なのだ。もっとも、帰る場所ももう無いのだがね」
この時点でミーナの中にひとつの違和感が浮かんで大きくなり始めた。見た目の違和感だけではない。もうひとつの違和感がミーナの頭の中に居座って、他の感情にその席を譲ることもない。
ランスに促されるままに後ろに座り、言葉に従うままに後ろの金具を浮かんだところでミーナの中の違和感が形を作って口から飛び出した。
「そう言えばなんですけど」
「どうかしたか」
ランスは顔を傾けて疑問をしっかりとつかんでみせた。
「その歳ですよね、運転出来るんですか」
ランスはミーナの目をしっかりと見つめて安心感を無理やり与えるように感情と共に言葉をねじ込んだ。
「それについてはここはあのネギの敷地内だから問題ない」
ミーナが訊ねたかったのはそのような事ではない、ミーナの目の中の微かな歪みがそう語っていた。やがてそれも言語という意味ある音に変えられ伝わった。
「免許、取れるんですか」
一瞬の沈黙が訪れる。訊ねられた内容はつまるところ法律ではなく技術の有無の信頼。蔓延る沈黙の墨は帳を降ろして夜のような色で空間を染めていた。
そんな中、ランスの顔に浮かべられた表情は、明るさが最高峰の満開笑顔だった。
「安心しろ、私はあなたの味方だ」
ミーナの顔がみるみる内に青ざめていく。ランスはその瞬間にも振り返り、バイクを走らせ始めた。ミーナの恐怖感を置いてけぼりにしそうな程の速度は出ていたものの、感情よりも素早い閃光の雷撃とはなり得なかった。
「ええええええええ」
ミーナの叫び声だけが乗り遅れて置いてけぼり。ふたりを乗せたバイクはそのまま飛び跳ね壁の上に乗っては更に飛び跳ねて、穴からの脱出という快挙を果たした。
ランスの行動は思考放棄の末の勝利と呼ぶに相応しい蛮行だった。
気が付いたそこに広がる景色は日常のひとつの時間の中。バイクを男に返して頭を下げるランスが顔を上げ振り返ったその瞬間、ようやく理解へとたどり着いた。
――私、帰って来れたんだ
昂る気持ちに身を任せ、思わずランスを抱き締めていた。
「怖かったよ、寂しかったよ」
ランスは優しい瞳でミーナを包み、背中にそっと手を添えて言葉をかける。
「そうだな、怖かっただろう。でももう大丈夫だ」
そのひとつの流れの中でミーナは常に付き纏っていた違和感の正体に気が付いた。遅かっただろうか、それともまだ間に合ったと言うのが正しいだろうか。ミーナは仄かに暖かみを帯びた頬の熱に浮かされながら紘大の方へと向かう。
彼の姿をその目にするまではしっかりと手を握り、離さない。固く握りしめた手は柔らかくてひんやりとしていた。
やがて紘大の姿を確認すると共にミーナはその手を放し、微笑みの明るみでランスを照らして違和感の正体をようやく言葉にして奏で上げる。
「大丈夫だよ、ホントは女の子だってこと、誰にも話さないから」
その言葉と共に残された空しさに充ちた心の味をいつまでも舌に残し、ランスは昼ごはんの準備をすべく太陽に背を向け家に向けて足を進め始めた。