4.緑の民 ―1
――足が重い…
ずるっと足元の砂が滑るような錯覚と共に、少年は膝をつく。
荒く繰り返す呼吸は、その役割を少しも果たしていないかのように思える。感覚が無くなり始めた左足に巻かれた布は、彼の血を吸って色を変えていた。
崩れかけた石塀の陰に隠れるように座り込むと、少年は辺りを窺い見る。
持っていた銃は既に失くした。村を出る時に持ち出した大切な物だったが、この廃墟に辿り着くまでに商人を見付けては補充して来た弾の殆どを使い果たしていたので、持っていても役に立たないのならばどうでも良い事だと思う事に決めた。
だがナイフは。
幾つか前に立ち寄った街で、野戦用だから毒を仕込めば『影』にも通用すると云うので、手持ちの殆どと三日間の労働と引き換えに手に入れた。
銃を失い、その上ナイフまで失くしてしまったのではどうやって旅を続けたらいいのか。
ここまでの道程でさえ『影』は現れた。
護られていた土地でさえ必要とした武器を失って、この土地を離れた後生き抜ける可能性は皆無に等しい。
――それでも、ここで終わらせる訳にはいかないんだ。
少年はようやく治まってきた呼吸を整え、止血用の布を取り替えると小さく火を起こす準備をする。幸い発火剤はまだ残っていた。血の匂いに集って来るであろう『影』に隙を与えないようにしなくては。
「皆、どうして…」
――ここまで来れば、仲間がいると思っていたのに。
ぽつりと呟く少年の目に涙が浮かぶ。
ここが消えた街ではない事は一目瞭然だった。不幸にして何者かによって潰されてしまったのだろう。それとも『影』によるものかもしれない。
幾つもの街や村を辿って、この街が最後だった。
街同士の交流が殆ど途絶えた今、情報は足りな過ぎる程であったが、少年が訪れた街の誰もが知っている事実があった。
彼が捜している者がいる可能性が高いのは、この街が最後だという事。この街を最後に全く手掛かりが無くなる。
ここから先は全く道の土地であり、予測もつかぬ程広いという事だ。
「早く捜さなきゃ、間に合わない」
ぐいっと乱暴に袖で顔を拭うと、はっとしたように動きを止める。
微かに鼻を掠めた『影』特有の腐臭。
「来た…?」
息が止まる。発火剤の出力を出来るだけ抑えて瓦礫の隅へ押しやる。
完全な闇にならないように。それでいて、『影』の弱い視力では捉えられないように。
自分の鼓動に気付かれそうで、少年は自らの胸を強く抑えた。
唸り声が聞こえる。三つ…四つと数えて血の気が引くのを感じる。
――囲まれたら、逃げられない。
荷物を掴み、傷ついた足を引き摺らないように移動を始める。気配を探り『影』がいない方向に向けて。
「あ…」
少年は音も無く眼前に躍り出て来た『影』の姿の凍り付いた。
その名の通り闇よりも濃い黒い塊。少年の視線を捉えて離さないどす黒い血のような双眸は、光も受けずに濡れたように輝いている。
先にも後にも動けずにいる頭上を『影』が唐突に跳んだ。
勢いを溜める事なく軽々と飛び越え、それに反応した少年が振り返った途端再び飛び越える。獲物を弄ぶそれは、幾度も繰り返された。
「!」
足が縺れ少年がその場に崩れた瞬間、『影』が方向を変えた。跳躍ではなく、その獲物に向かって。
「――――――!」
目を固く閉じた少年に聞こえたのは、銃声とどさりと落ちる音。そして続く足音だった。
「坊主、生きてるな?」
コン、と右足を蹴られて我に返る。頭を上げると声の主は、にっと笑って駆けて行く。
暗闇の向こうで銃声が幾つも響いた。
「大丈夫かい?」
呆気にとられて男を視線で追っていると、急にかけられた声に体がびくりと跳ねた。
「ああ、ごめん。驚かせたね」
「―――――――」
少年は、声を失った。身を屈めて手を差し伸べて来る男を凝視して。
金茶の髪、緑の瞳、前髪から覗く額の―――――。
「もう大丈夫だから、ここにいるんだよ」
向けられた視線には気付かず、少年が身を起こすのを手伝うと肩を軽く叩き、サクはカイの後を追う。
「な…?」
少年は声を洩らしてしまいそうな自分の口を両手で押さえた。
――今のは、誰だった?
その問いは頭を駆け巡る。自分が捜していたのは、今、目の前に現れた男ではなかったか。
少年の記憶には、確かに同じ顔があった。
彼が幼い頃姿を消した、だが決して忘れられない存在。
しかし、たった一つだけ違った。ある筈のものがなく、そこにあったのはある筈のない――――。
「ったく、何処からこんなに湧いて来るんだあっ?」
カイは跳躍する『影』をライフルの銃身で叩き落しながら、八つ当たり気味に叫ぶ。
「しつこい奴はもてない、ぞっと!」
掛け声をかけるようにして、後ろ手に腰から抜き取った小銃で間近にいた『影』の頭を撃ち抜く。
『影』を仕留める為に造られた弾丸は、かなり高価な為にライフルにしか装填していない。しかし普通の弾であっても、至近距離で頭を撃ち抜かれて生きている『影』はいない筈であった。
ぐしゃりと音を立てて地面に叩き付けられた『影』が、分離するように二つに別れて身を起こす。
間を置かずに飛び掛って来るそれを、カイは倒れこむように避けると即座に立ち上がった。
「…気持ちわりいな。不死身かよ」
顔を顰めながら間合いを取る。
効かないのは普通の弾だけなのか。これまであった効果も、眼前にいる『影』には効かないのかもしれない。だとしたら、何か他の手を見付けなくては。
不意に『影』の唸り声が途絶えた。張り詰められた緊張の糸が唐突に切れる。
ビュッ!
その瞬間を狙ったように『影』の口らしき部分から飛び出した液体がカイを襲った。
辛うじて避けたのは、これまでの旅の成果だろう。
横倒しに転がったカイを目掛けて飛び込んで来た黒い塊は二つ。
「カイ!」
その背後から現れたのは、後を追って来たサクだった。
「…大人しくガキを見てりゃあいいのに」
歯噛みしつつ呟いたカイは体勢を立て直そうとして、『影』の様子に目を細めた。
低く、殺気立った唸りを発していた『影』が萎縮するように気配を縮めていく。じりじりと詰められていた間合いは、『影』の方から遠退いて行く。
この街に入ってから二度目だ。カイは逃げて行く『影』から、相棒に視線を移す。
「お前、何かやった?」
「何を。…何で僕に聞くわけ」
「――今の状況でそれを聞くか?」
もう少し後ならともかく、先刻あの瞬間は『影』の方が有利であった筈だ。
首を捻りつつ、カイは少年の姿があるだろう方向を顎で示す。
「人間だったな」
何か言いた気なサクの意識を少年に向けさせる事は簡単だった。慌てて駆け出すその後ろ姿を目で追いつつ、カイは額を軽く片手で押さえる。
この街に近付いた途端、サクの様子がおかしくなった事には気付いていた。おかしい…強いて云えばそれは覚醒。本来の彼の能力が、意思に関係なく現れ出しているように見えた。
加えて『影』の異状。仕留めた筈の攻撃が効かない事にも驚いたが、突然逃げ出す事など、これまでには決してなかった。まるで己よりも強いものを本能で嗅ぎ分けた獣のように…。
そこまで思考を巡らせたカイは顔を上げた。
――『影』とサク、両方の異変が全く別の事ではないとしたら。
旅を始めた頃、もう随分と昔のように感じる遠いあの日、背を向けて歩き出した土地にここが繋がっているとしたら。
動悸が速まる。辺りを見回して。
崩れた塀、瓦礫の山は以前人が暮らした建物だったのだろうか。草木は枯れているが、大きな通りであっただろう幅広の道は微かに区別が見てとれる。
――ここは。
不意に洩れる嗤い。皮肉な笑みが口許に浮かぶ。己の酷薄さに向けられたそれを隠すように、カイは片手で顔を覆う。
幼かったからなどという理由は、言い訳にもならない。
「莫迦か、俺は」
思い出したところで視覚による感慨はない。
――あの家を見付ける事も出来ない。
カイは、この街を知っていた。




