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2.砂の国 ―2

「…そう云えば」


 声音を明るくした王の言葉に、気配を消して控えていたイラカーザは顔を向ける。

 王の表情には笑みが浮かんでおり、咄嗟に彼は身構える。その笑みは、王がイラカーザを揶揄う時に浮かべるものだ。


「先刻、彼女を訪ねさせてもらったよ」

「…妻、ですか」

「うん。いつ会っても元気で可愛らしい奥方だね」


 にやにやと笑う表情には、先刻までの威厳はない。少年らしい明るいそれに、イラカーザは溜め息をつく。


「少しお待ち下されば、連れて参りましたのに。失礼はなかったでしょうか?」

「全然。大体身重なんだから、私の方から出向くのは当然だろう。もうすぐイラカーザが帰って来るって伝えに行っただけだし」

「…王」


 王がする事ではない。そう告げようかとも思ったが、イラカーザは口を噤む。

 

「私はね、嬉しいんだよ。お前を受け入れてくれる彼女の存在が」

「…許して頂けるとは思いませんでした」


 結婚も、彼女が子どもを宿した事も、王が不快を示した事はない。

 それでも、自分の身は王の物である事を知っているイラカーザにとって、彼の祝福は意外な事だった。

 そんな思惑を知ってか、王は屈託なく彼女を受け入れ、度々気遣いを見せる。


「私達には、ああいう者が必要なんだよ」


 小さい笑みは僅かに哀し気で、イラカーザは王が今思い描いているだろう存在を思う。

 姿を見た事はないが、王の心深くに在る存在。またそれは、己が生きている理由でもあった。


「長い時を過ごすには、傍にいる者が必要だ。たとえそれが刹那のものであったとしてもね」


 王の微笑みは、イラカーザの目には悲しみを湛えているものにしか見えなかった。







「お帰りなさあいっ」


 扉を潜るなり飛びついて来た体をイラカーザは抱きとめる。

 細い体はまだ妊婦のようには見えない。もう腹が膨れてもいい頃だと聞くが、あまり目立たない質らしい。

 おかげで彼女自身の動きも全く抑えられる事なく、もう少し大人しくしてくれとはここ最近のイラカーザの口癖だった。


「ただいま。…ルイ、頼むから」

「ずっと大人しくしてたのよ。お出迎えくらい好きにやらせて」


 頬を膨らませる妻に苦笑すると、イラカーザは椅子に座りそのまま膝の上に彼女を乗せる。

 砂族の中でも小柄な彼女は、長身で体格のいいイラカーザの腕にすっぽりと包まれた。


「ルイは変わらないな」

「…もうちゃんと大人よ」

「知ってる。私の奥さんだからね」


 くすくすと笑う夫を軽く睨んだルイは溜め息をつく。

 子ども扱いをしないでくれと云ったところで仕方がないのだ。

 ルイの父親はイラカーザの親しい部下だった。彼は自分が生まれた時の事まで明確に覚えているに違いない。


 幼い頃、よく家に訪れる背の高い男は他の客の誰よりもルイに優しく微笑みかけてくれた。

 遊びに夢中になり暗くなっても帰らない彼女を捜しに来てくれた事もある。繋いだ手が大きく温かかった事は幼い彼女の宝物となった。


 屈託なく抱きつく事が出来なくなったのは何時からだっただろうか。




 




「ルイ! 今日将軍がいらっしゃるって知ってた?」


 友人の一人が頬を赤らめて傍に駆け寄って来るのを、ルイは苦笑混じりに見る。

 イラカーザが来たのには気付いていた。彼が門を潜る前から周りが騒がしい。

 結婚の祝いの宴に集った女の殆どが落ち着かなくなっている。


「旦那の上官だもの、来てもおかしくはないわよ」

「ああ、もっと気合入れるんだった!」

「恋人がいるのに、何云ってるの」


 口々にざわめき立つ女達は、視線だけはイラカーザから外さない。

 この場にいる者だけではない。国中の女達がイラカーザを熱い視線で見る事は常からの事だった。

 鍛え上げた鋼のような体躯に、優美な姿。誰もが微笑みかけられたいと願う。


 それでも、女達は憧憬の視線を送り一夜でも共に過ごしたいとは願っても、結局はそれ以上を望む事はないのだ。

 この国の者ならば誰もが知る事実。

 彼が同じ時の流れを生きてはいないという事。

 彼の主と共に、その姿のまま老いることなく長い時を過ごしている事を。



「ルイ?」


 夜も更け、未だ盛り上がる友人達の輪から抜け出したルイは背後からかけられた声に足を止める。振り向かずとも分かる、深い色の声。この声に名を呼ばれる度に胸が震える。


「…もう、お帰りですか?」


 にっこりと微笑んで振り返れば、思った通りの穏やかな笑みが彼女を見つめていた。


「上官なんてそう長居をしても煙たいだけだよ。ルイこそ、まだ皆残っているようだが?」

「少し酔いました。こうお酒臭くっちゃ、家に帰るにも少し醒まさないと」

「付き合おう。確かにこのまま帰れば大目玉だ」

「でしょう?」


 悪戯めいた笑みを見せるとふわりと肩を抱かれ、ルイの胸が高鳴る。

 酔った振りをして身を寄せようか迷い、背の高いイラカーザを見上げればその瞳の優しさに言葉を失う。

 いつの頃からか、少女に対する振る舞いではなく、女性扱いされている事は気付いていた。

 だが、自惚れていいものかは分からない。自分が望むものが得られるのか、聞きたくとも聞けずにいた。

 年頃の友人達とは違う、自分がこの男の隣に寄り添う事がずっと望みだった。


「そんなに見つめられると、照れるよ」


 苦笑まじりに云われて、ルイは頬を染める。慌てて俯き体を離そうとするが、肩を抱く温かい手が離される事はなかった。


「…ルイは変わらないな」

「え?」

「もうずっと小さい頃から、私を見る目はいつも真っ直ぐだ」


 イラカーザの言葉に顔を上げたルイは、彼の表情を読みきれずにそのまま言葉を待った。


「私はただ一人の方の為だけに、もうずっと生きている。この身はあの方だけの物だ。そう思っていたのに、今更欲が出てきてしまった」

「…イラカーザ様?」

「知っているね? 私は、恐らくこの先もこの姿のままで時を過ごす。王の力のある限り、あの方が許す限り、王と共に生きる」

「――私は、そういう貴方しか知りません」


 言葉は核心を衝かないが、ルイの胸は高鳴る。

 自分を見下ろす男の瞳は言葉以上に雄弁で、同じ気持ちがあるのだと感じた。だが、それは決して確信ではなく、またそれを口に出していいものかも分からない。


「君を、愛していいだろうか」


 不器用な、言葉。

 ルイが考えるよりも大きな恐れがそこに見えた。


 国の女達が最終的には他の男達と添い遂げる事を選ぶ理由を、彼は十分に知っている。当然だと受け止めている。だからこそ、幼い頃から真っ直ぐに恋心を向けてきた少女が大人になり冷静になるのを見守ってきた。

 だが少女は冷静になるどころか、イラカーザが王と共に生きる事を当然と受け止め、真っ直ぐな瞳で笑いかけるのだ。いつも、その笑顔に癒されてきた。何時しかその笑みを、彼女自身を欲する気持ちが膨らんでいた。


「私は決して君だけのものにはならない。だが、私は君が欲しい―――」


 苦し気な声に、ルイは微笑む。

 彼の杞憂を払い落とすように。


「それは、私の幼い頃からの願いです。ずっと…」


 彼女の言葉は最後まで紡がれずに覆われた口内へと消える。初めて重ねた唇はゆっくりと、しかし次第に深く互いを確かめるように吐息を交じり合わせた。








 膝に抱かれたまま、ルイは最愛の夫の頭に腕を回す。

 幼い頃のまま、今も同じく愛しい。


「ルイ?」


 子を身籠り、幸せな生活は日々刻々と進んでいる。それは喜びであるのも確かだった。

 この身を望まれ、彼も自分も覚悟はしている。だが、そう遠くない将来、時間が家族を裂く事は間違いなかった。


「ごめんなさい」


 遠い幼い日、自分の想いを遂げたいが為に再び彼の時間が動き出さない事を祈った。

 早く大人になり、彼に見合うようになりたくて、彼が老いない事を望んだ。

 浅ましい願いだったと気付いたのは、思いを通じ合わせ彼の孤独に触れてから。彼の主の孤独だけが彼を救うのだと、気付いてしまった。


「もうすぐ私は、貴方を置いていってしまう。この子だって、いつかは」


 彼は一緒に時を刻めない自分を責めるが、置いて逝くのは自分なのだ。また、孤独にしてしまうのだと、分かっていたのに。


「でも、あの方は大丈夫。決して貴方を独りにはしないから」


 静かに見つめる夫の頬を手で触れ、ルイは自らの頬を寄せる。

 涙を見せたいわけではない。確かに、今は幸せなのだから。


「だから、もう少しだけ私達といてね。まだ、あの方のところには戻らないで」


 逞しい背に腕を回せば、鍛えられた腕が応えるように体を包む。

 想いを重ね合わせ、今は互いが必要なのだと迷わず感じさせるように―――。

 

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