7.砂王 ―1
…何も、無くなってしまった。
男は呆然と佇み、口を開く。言葉まで失ってしまったように、息だけが洩れた。
森も泉も、民さえもが。まるで夢であったかのように、跡形もなく。
「棗…」
やっと音になったのは、愛しい名。求めて彷徨う視線は暖かい光を見出せない。
病だと、長老は云った。稀有な事だが、前例のあるそれは互いの生命力をもってしか癒す事の出来ない奇病。遠い遠い昔、治癒するのを見たと聞いた。
――そんな事を聞きたいのではない。過去にあったが何だと云うのだ。問題は日に日に弱ってゆく棗なのだ。
「ならば、何故だ…」
沸き起こる衝動。地に拳を叩き付け、崩れ落ちる。鈍色の亡骸を握り締め、名を呼ぼうと応える者はいない。
助けを、求めた。救いを。手の施しようがないと云われても、彼にとってはそれは一つの事実を示すだけであった。
――見捨てるのか。知っていて、見捨てていたのか。これまでずっと!
長老は何も語らなかった。感情を覗かせない瞳が初めて、相対する者から逸らされた。
――それが、答えか。
『試練は我ら皆に与えられたもの』
不意に記憶に蘇る言葉。あの時告げられた子どもは未だ一族を訪れていない。星が定められた事のみを語るならば、あの時子どもを育てる名を聞いた長は知っていたのだ。彼がその中にいないという事を。
全てを語らない歯切れの悪い言葉。表情を隠した老爺は、自分をじっと見てはいなかったか。もし、記憶の中でしかないあの頃、何か手をうっていたら。
「…許さない」
安穏と暮らす者達。
独りになり、一族にはもう戻れない。
代わりのないものを失ってしまったのだから、もう自分は一族ではない。
生まれた場所など、とうに忘れた。
在るべき場所は何処にもない。
永久にも近いと云われる生命が、こんなにも脆く崩れ去るとは。
幸せな暮らしを一歩外れたところには、全てに拒絶された己があると、誰が知っていたのか。
「必ず、思い知らせる」
同じように、見せてやる。どんな処にそれがあるのか。力の及ぶ場所での暮らしを失い、無力を知るがいい。
男は小さな亡骸を握った拳に眉を寄せる。
「独りでは逝かせない」
どんなに時がかかろうと、必ず。
頭上高く、稲妻が光っていた。
「――――――!」
びくりと肩を大きく震わせ、ライカは目を開けた。汗が額を伝い、頬をすべり落ちる。
「…くだらない、夢を見る」
両手に顔を埋めた彼の耳に届いたのは靴音。部屋の前で止まったそれは、そのまま音を静めた。
「――イラカーザか?」
夢にうなされると必ず様子を窺いに来る。声を聞いた訳でもない筈の臣は、そのまま王が寝入るようならば静かに立ち去るのだ。
「…着替えを、お持ちしました」
まるで汗でじっとりとしたそれを見たように云う男を、ライカは呼び入れる。
体を拭き新しい寝間着を着る間、会話はない。灯りのない部屋の入り口にイラカーザは控えている。
「待て」
部屋から出て行こうとするのを呼び止めて、ライカは手を差し伸べた。
「少し、付き合わないか」
微笑みに乞われるまま、イラカーザは寝台に添えられた椅子に腰掛けた。膝を抱えた王はその様子をじっと見つめる。
「お前は、変わらないな」
少年の瞳。細められたそれは白金の髪と白い肌に隠れる。長い砂漠暮らしもその色を染める事は出来なかった。
「ライカ様も」
苦笑にも見える笑みに、ライカは首を振る。
「見た目はそのままでも、変わるものもある。私は変わってしまったよ」
イラカーザが黙っていると、ライカはくすりと小さな笑みを見せた。
「初めて見た時、どうしても欲しいと思った。…覚えているか?」
「忘れる筈がありません。命を与えて頂いた」
襲撃を返り討ちにあい全滅かと思った時、現れた少年。稲妻と共に突如見せた姿は、何と美しかった事か。
そしてその手を取った瞬間、自分は彼のものとなったのだ。
「その為に、沢山のものを失わせた」
「我々は統べる者を必要としていたのです。あの頃、国と呼べる状態ではありませんでした。それを貴方が救って下さった」
「…お前の事だよ」
伏せられたまま表情を窺い得ないライカの髪に伸びたイラカーザの指は、戸惑いそのまま空を掴む。
「私には、貴方がいればいい」
記憶の彼方、愛し娶った女もやがて自分の前から姿を消した。女との間に生まれた子もまた。
――自分を置いて逝く事を許せと泣いた女は、何という名だっただろうか。
イラカーザは時に風化されてしまった記憶にそっと触れる。
いつしか虚しく思い出す事も止めてしまった通り過ぎた時間。心を通じ合わせた友もいた。ある者は時間によって、またその前に離れていった者もいた。王の為ならば何事も辞さない自分を恐れ、失った者もあった。
――それが何だというのか。
感傷など、人らしい心など捨ててしまった。この人の為以外には。
「種石の光は、堕ちた者には眩し過ぎた」
イラカーザの瞳に、顔を上げた少年の表情が揺れるのが映る。
「また、全てが消えてゆく」
意識せずに腕が伸びる。初めて躊躇せずに。
自分の腕の中にいるライカの存在を、触れる事で確かめる。消えてしまいそうに儚いその肩は、あまりにも小さい。
「ライカ様…?」
「ああ。その名もこうなる事が分かっていたからなのか…?」
頑なに顔を覆う手が細かく震えている。
「雷火とは、まったく上手く付けたものだ」
稲妻を操る力は棗と共に彼に訪れた。
雷火――雷による禍を示すこの名が、星が語った処の大きな波とやらを喩えたものならば、何という皮肉なのか。
自嘲する声に、イラカーザはその腕に力を加える。
「二度と、お前を失いたくはなかった。私には、もうお前だけだから」
ライカは不意に、懐かしく暖かい光を感じた。肌でなく、違う何処かに。
「…違った。お前の中にある、棗とお前の二人だけだ」
最初は棗の代わりだった。傍にいる者欲しさに石を吹き込んだ。傀儡となったところで何の痛みも感じないと、本気で思っていた。
「…私には、ずっと疑問でした。何故王は私に自由を与えるのか。他の者には皆、意思や心はそのままでも奥深くに貴方が植え付けたものがあった。貴方が皆を利用していたのは知っています。それなのに、私をそのままに傍に置いて下さったのは、その棗の為ですか…?」
「――私の弱さが移ったか?」
はっとしたようにイラカーザは赤面する。ライカは微笑みを浮かべ、窓に視線を移した。
彼の意思によって音を立てて開いたそこから夜の冷気が流れ込む。
「棗にした誓いを、お前にもしよう」
…独りでは逝かせない。
棗は止めるだろう。最期の瞬間、彼女が彼に伝えたのは恨みや悔やみではなかった。
棗が誰であるのか話した事はない。それでも、彼にとってその誓いは必然だった。
イラカーザを見つめるライカの視線の隅、遠くで緑の透明な炎が上がった。
そして誓いは舌に乗せられないまま、代わりにライカが告げたのは招かれざる者、否、待ち侘びた者の来訪。
「やっと、見付けたようだ」
その瞳に強い光が戻る。
イラカーザは立ち上がり、自らの王に頷く。
「参りましょう」
…眩しげに目を細めた視線の先に、小さく儚げな少年はもう何処にもいない。




